【本要約】ルソーを学ぶ人のために

【本要約】ルソーを学ぶ人のために

2022/3/1

ルソーの著書

ルソー ( 1712 – 1778 )

社会契約論
政治哲学そのものを作り替えようとした。
エミール
「 人間とは何か?」という哲学的問いを、政治や性、宗教や言語といった複数の観点が交錯する問いに変えた。
告白
アウグスティヌスを否認した上で、ヨーロッパ史上初の自伝を執筆した。
※アウグスティヌス:初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の完成者

ルソーが、自らの著作を歴史や系譜からの逸脱として世に問うたことの意味は極めて大きい。

  1. ルソーは、絶対王政下の検閲制度の中で、政治的不正を大胆に告発した。
    しかし、社会批判や政治的・宗教的権威へ批判は、フランス啓蒙自体の特徴である。
  2. ルソーの批判が革命的であったのは、既存の政治共同体の不正を告発すると同時に、不平等を告発する知識人の矛盾と妥協を暴き出しだからだ。
    その知識人の発言は、自分の政治共同体の中での立場からの発言に過ぎない。
  3. 知識人は「 政治的影響によって、自らの哲学的・政治的な主張を公式化している 」との批判を集めていた。
    知識人とは異なり、ルソーは自らの著作によって『 読者 』という支持者を得た。

人と生涯

哲学者の思想を知るためには 「 どのような人物で、どのような一生を送ったのか 」を知ることだ。出生地の文化的・政治的環境を再構成することと、教育や成長の過程を辿ることだ。

ルソーは通常の思想家と異なる。

ルソーの一生は、作品や思想を理解するための補助線にならない。ルソーは自分の一生と作品が完全に一体化した状態で理解されることを望んだ。自伝によって、自らの一生が思想と不可分であることを示した。ルソーの特異な一生が特異な創造を可能にした。

ルソーの一生のキーワード
・権威からの独立
・人 ( 愛人・友人・知識人・貴族 ) との訣別 = 自由
・幾度も襲いかかる病

学問芸術論

自己の存在と外見が一致するのが、ルソーの理想とする人間の自然状態である。18世紀フランス社会では、誰もが「 他人に気に入られよう 」と礼儀作法を身にまとい、本来の性格や感情を隠すようになった。ルネサンス ( 14〜16世紀 ) によって文明化された習俗は、存在と外見が限りなく乖離した、人間の疎外状態としての障害であった。

ルソーは、ルネサンスによる習俗の腐敗を、同時代のフランスに限らず、古今東西のあらゆる文明国に当てはまる問題として普遍化した。「 人類の歴史は、普遍的な理性の光明が、知的・道徳的進歩である 」という啓蒙主義を、根底から批判した。

当時の知識人は啓蒙主義を支持することで、貴族から経済的保護を受けていた。

  • 学問は起源からいかがわしい。
    天文学は迷信から、雄弁は野心から、幾何学はケチから、自然学は好奇心から、道徳は人間の思い上がりから生まれた。
  • 学問とは、市民の義務と自然の欲求を満たすことで満足することを忘れた人間たちが時間を浪費する不毛な思弁である。
    学問の目的が空しいとすれば、学問がもたらす結果はさらに危険だ。
  • 無為から生まれた学問は、自らもまた無為を助長するが、時間の無駄こそが、社会にとっての1番の損害である。
最も有害な学問の副産物は、人間の無為と虚栄心から生まれる贅沢である。

学問は、国民の道徳教育という観点からも有害である。幼い頃から愛国心を培い、民の義務を教えるのが、本来の教育の役目のはずだが、現実の学校教育では、大人になってからすべきことが何ひとつ教えられていない。

学問は世の中の大半を占める汎用な人間ではなく、独力で先人を乗り越えて未踏の境地に達することのできる、デカルト・ニュートン・キケロ・ベーコンなどに比肩しうる、一握りの天才のみに任せるべきである。凡人は名声をあきらめ、他人の評価ではなく、自分の内に幸福を求める。徳を論ずるのでははく、心に刻まれた徳を実践しよう。ルソーは、善悪や徳の性質を机上で論ずる哲学を空虚な思弁として嫌い、民としての徳と義務の実践を重視した。

人間不平等起源論

「 人間の間の不平等の起源はいかなるものであるか、そして不平等は自然法によって正当化されるかどうかを論ぜよ 」という命題への回答

①自然状態

人間における不平等の起源を理解するためには人間の原初的状態を知る必要がある。

原初的状態における人間の行動は「 自己保存の本能的な衝動 」に従う。

また、この原理が自然法の基礎である。自然状態における人間、自然人は、現在の人類と同じ身体的特徴を持っていると想定される。

ホッブズ
 自然人は邪悪
モンテスキュー
 自然人は臆病
ルソー
 自然人は、自然の中で食料に困ることもなく、季節や天候の変化に順応しているため健康であり、自分の身体を道具として用いるのでを器用であり、素朴な生活をしている。

■自然人の内面
自然人には、身体的欲求しかなく、知識もなかった。だから、自然人の内面は、いかなる精神的・道徳的な関係もなく、善良でも邪悪でもなく、罪も美徳も、なかった。

■自然人
・住居も家族も言語もない状態で森の中をさまよい
・同胞を必要としないので社会関係が存在しない
・個人間に相互依存関係が存在しない以上、不平等はない

②自然状態からの脱却

■人間が自然状態を脱して現在の社会を構成するまでの流れ

土地を囲い込んで、それを自分の所有物として宣言した者が、社会の本当の創始者である。

  1. 人間は自己保存のみを考えていたが、人間が様々な困難を解決することで、自然の障害を乗り越える能力を身に付けた。
  2. 狩猟や火の使用といった生活のための技術を習得していった。
  3. 事物の関係についての観念を獲得し、思考の源泉となった。
  4. 夫婦や親子の間の愛情が生まれ、家族内の言葉から地域ごとの言語が発達していった。
  5. 共通の生活習慣を持つ集団が生まれた。
  6. 集団の中で、同胞と利害の共通する共同作業をするようになった。
  7. 共同作業は農業へと発展していき、土地の分割が生じ、所有が生まれた。
  8. 集団が社会に進化し、社会を統率するための法が生まれた。
  9. 集団社会において、互いに比較し合うようになり、不平等が生まれた。

[ 自己の存在 = 内面 = 思考 ] の比較ではなく、外見の比較が社会にもたらされたことによって、不平等から不和や対立が生じた。

自然状態では平等であったが、社会において不平等が蔓延することとなった。

社会的な関係は、すべて自然に存在するものではなく人為的なものである。

自然状態という概念や虚構を批判の基準として提示する方法も、ルソー独自のものではなく、17〜18世紀のヨーロッパの政治思想において、国家や政治権力の基礎を論ずる際の常套手段であった

ホッブズ
『 リヴァイアサン 』で、自然状態を、人と人との戦争とした。
ロック
『 市民政府論 』で、自然状態で、所有と所有権が存在するとした。

『 人間不平等起源論 』では、進歩と堕落という人類の両義的な歴史の要因として、社会的な不平等が論じられている。ここで、不平等が、ルソーのイデオロギーの論理に組み込まれた。ルソーが不平等を批判の中心に据えるのは、それが道徳的堕落の原因であるだけでなく、不正な力の根源であり、社会の正常な機能が妨げるからだ。

『 政治経済論 』では、政治の重要な役割のひとつは、貧者を富裕者から守ることであるとしている。

『 社会契約論 』では、平等は自由にとって不可欠なものとされ、自由と共に立法の主要な目的とされている。

エミール

治療薬としての教育

貧乏人は教育する必要がない

エミールの中では、教育は病を癒す技術に例えられている。

貧乏人は教育する必要がないのは、貧乏は病気ではないからだ。

誰でも「 死にたくはない 」と思い「 幸せになりたい 」と願う。それは、私たちの生まれてきた目的である。しかし、どこに幸せがあるのかを知っている人は必ずしも多くはない。見つかるはずのないところに幸福を求めて、手の届くところにある幸福を取り逃がしている。

人間は肉体と精神という2つの本質を持った存在である。
  • 真の幸福とは、肉体については、健康であり、精神については、「 自分が良い人間だ 」と自分の良心が認めることだ。
  • 真の不幸とは、肉体の痛み、「 自分が悪しき人間だ 」と自分の良心の呵責がもたらす精神的な苦しみだけだ。
  • それ以外のものは、人間が頭の中で勝手に作り上げた幻想である。
    教育を幸福の関わりで論じるのは、「 人間が不幸である 」という前提に立つからだ。

自分の欲求を自力で満たすことのできる者は強く、自力で満たすことのできない者は弱い。赤ちゃんは、生存に欠かせない生理的欲求さえ自力で満たすことのできない無力な存在である。私たちは弱き者として生まれる。

私たちは、生まれたときには何も持っていない、大人になって必要なものは、すべて教育によって与えられる。

文明化された社会で生きる人々は、空腹を満たすばかりでなく「 他人より豪華なものを食べたい 」といった欲求を持つ。自然の秩序に属している生理的・身体的欲求を超えて、特定の集団の中でのみ意味を持つ欲望を [ 妄想 = ファンタジー ] という。妄想は、想像力で無限に拡張していく。惨めさは物質の欠如にあるのではなく、欠如を感じさせる欲求のうちにある。

社会通念と人間がつくり出した諸制度が、人間の本性を歪め、自力では満たすことのできない妄想を生んだ。そういった偏見は、貧乏な人より、裕福な人において、強い影響力を持つ。裕福な人ほど、他人との優劣に関心を持つ。「 偏見から子どもを守ろう 」とする教育は、裕福な人の子どもに対して行う必要がある。偏見から影響がない貧乏人は、教育する必要がない。

偏見に打ち勝ち、事物の真の諸関係に基づいて判断を秩序付ける最も確実な方法
・孤立した人間の立場に自分を置いてみること
・何事においても孤立した人間が自分自身の便宜を図るように判断すること

子ども時代のエミールに与えられる教育によって、自然の秩序の中で身体的欲求を充足することで自然人の幸福が得られる。しかし、それは、教育の成果ではない。社会の偏見が『 自然の歩み 』を歪めることがなければ、神の被造物として、自然の中に置かれたままの状態の人間は、自然の秩序を乱すことなく、善良で幸福な存在であったはずなのだ。

人間の不幸の原因は、世界を創った神にも、神が創った人間の本性の中にもない。それは、神の摂理の外で人間が勝手に作り出した。

  • 世間で行われている不自然な教育こそが、人間を不幸にする。
  • 子どもの『自然の歩み』を損なわないようにすることが、真の教育である。

万物を創る者の手を離れるときは、すべては善であるが、人間の手に移ると、すべては損なわれる。

人間にとって知ることが重要なのは「 世界全体がそれ自体として何であるか 」ではなく、秩序ある世界との関係において「 人間が何であり、何をなしうるか 」である。教会の権威や法律の作法に囚われずに、自分の理性が受け入れられる教義だけを信じる。

① 宇宙を動かし自然に生命を与える神が存在する。
② 物質に秩序ある運動を与える神の意志と英知が存在する。
③ 能動的で自由な人間は、物質とは異なる精神を持つ。

このような信仰は、原罪説をはじめとするカトリック教会の教義と対立するとみなされ、エミールは焚書の憂き目に合う。

エミールの内容

『 自然の歩み 』は、理性 ( 知的能力 ) の発達を基準として判断され、よい教育とは、理性的人間を造ることである。

【 人間の理性の発達 】
① 感覚
 外界の刺激を五感を通して受容する能力
② 感覚的理性
 子どもの理性、複数の感覚の統合により単純観念をつくる能力
③ 知的理性
 大人の理性、複数の単純観念の統合により複合観念をつくる能力
【 人間の理性の発達の段階における判断基準 】
① 快であるか?快・不快
② 自分の利益になるか?適・不適
③ 理性によって与えられる幸福に対してどのような価値を持つか?
【 エミールの構成 】
(1) 純粋に感覚の段階にある子どもの心身の自由な活動の確保
(2) 感覚器官の訓練と、感覚を基礎とした感覚的理性の形成
(3) 感覚的理性を基礎とした知的理性の形成の準備
(4) 他人との道徳的関係、友情を通じた知的理性の形成
(5) 恋愛・同胞との公民的関係を通じた知的理性の形成

(1)は、①の段階
(2)は、①→②への移行
(3)は、②の段階の完成
(4)(5)は、②→③への移行

人生の各時期、各状態には、それ相応の完成があり、それぞれに固有の成熟がある。

感覚器官の重要度
1. 触覚
2. 視覚
3. 聴覚
4. 味覚
5. 嗅覚

子ども時代には、それ特有のモノの見方・考え方・感じ方がある。

現実の社会では、人間の生存に関わる身体的欲求に応じる技術よりも、特定の文化の中でしか価値を持たない技術や才能、他人に抜きん出るための手段となる才能が、高く評価される。

エミールの教育は、人間を不自然にする現実の社会の中で、子どもが、その発達に応じて、外部の存在者と適切な関係を結ぶ状況を整えることである。

生活に必要なものの生産や流通を分かち合っている現実の社会にあって、他人から離れて生き続けていくことは不可能である。

人間が生まれながらに持つ自己保存と幸福への欲求は、自然の秩序に適合する。エミールでは、その欲求を充足することが初期の教育の目的である。生理的欲求を充足するときに得られる以上の身体的な幸福はあり得ない。しかし、社会の中で他人との精神的・道徳的関係を結ばなければならない人間は、道徳的存在となることを強いられる。理性によって善を認識し、良心によって善を愛し、自由によって善を選びとる人が有徳人である。有徳人は、自らの功績の報奨として幸福になるに値する存在である。しかし、現実の社会の中で、有徳人は、しばしば傷付けられ、迫害される不遇な存在である。

政治制度と政治

社会契約論

社会契約論

ある政治社会の制度的在り方が、その政治社会を構成する人間を規定する。

社会を構成している個々の人間と社会の関係は相互規定的である。現在の社会を変えるためには、人間を変えなければならない。人間を変えるためには、社会を変えなければならない。制度を最初に構築する立法者の問題、制度を支える人間を作り出す教師の問題は、政治思想が現実に向かい合うときに生じる根本的問題である。ルソーは、国制論・政治制度論としての政治論が、現実の人間・現実の政治社会にどのように関わるかを意識していた。

人間や法をあるがままに捉えたとき、社会の秩序の中に、統治の原則があるのか?

自己保存のために人間にできるのは、集まって協力することである。しかし、あるがままの人間は、自らの利害を最優先するから、人間関係のルールは、個人の自己保存や利害に則していなければならない。集合した人々が、それぞれの個性を尊重しながらも、お互いに協力し、それでいて、個人が自由であることが求められる。

そのためには、社会契約が結ばれなければならない。

社会契約は、全員一致の契約であり、自分の権利と自分自身を、社会共同体に全面的に譲渡する。

全面譲渡は同時に全員に行われるから、条件は平等である。個人は、自分が与えたものと同じものを獲得すると共に、構成された社会共同体の力によって、自分の持つものを守られる。

全員一致の社会契約によって、一個の人為的人格としての政治組織体が成立する。この組織体は、一般意志を持ち、構成員は一般意志に従うことを求められる。

社会契約に参加した個人は、戦争状態が継続すれば個別利益の確保が難しくなり、生存自体が脅かされるため、それを避けるべく契約に合意したのであるから、一般意志に従うことは自らの利益にかなっている。

社会契約において、各構成員の私的利害は政治組織体へと全面譲渡されているから、論理的には、各構成員はそもそも、この政治組織体の利益に反する個別利益を持つことはあり得ないはずだ。

構成員が、社会契約の意義を理解して自らの利益よりも、政治組織体の利益を優先し、また、常に法に従うのであれば、政治組織体は健全な状態に保たれるであろう。

しかし、あるがままの人間は、自らの個別利益と、個別意志によって行動する。一般意志は社会契約が成立した瞬間に、この組織体自体の意志として存在する。個々の構成員の集合体は、一般意志ではなく、個別意志の集合体としての全体意志に過ぎない。

一般意志とは主権者である人民の意志であり、この意志が明示的に示されているものが、法である。「 一般意志が何であるか 」を読み取り、それを法として言語化しなければ、この政治組織体は、実体をなさない。

もし、構成員が自らの私利私欲を離れて、共同利益と一般意志を尊重するのであれば、全体意志と一般意志とのズレは少なくなる。またそのような構成員であれば、立法作業に携わることも可能である。

「 あるがままの人間にありうる姿の法を与える 」という原理に立ち返るのならば、個々の構成員は、自らの理解に基づく自らの個別意志に従って行動する。個別意志が一般意志を読み取ることはあり得ない。

一般意志を法へと読み替える立法者は、あるがままの人間ではない。社会契約によって設立された政治組織体の外部から、登場しなければならない。立法者は神のような存在でなければならない。立法者は、自らの利害、自らの個別意志とは無関係に、全く無償でこの組織体に法を与えなければならない。

立法者の最大の仕事は政府の設立である。一般意志は、常に一般的な事柄にしか関係することができないので、個別具体的な諸事象に対応するためには、媒介者としての政府が必要である。

政府という団体は、一般意志に従属しなければならない。

しかし、政府は、それ自体がひとつの団体であるから、個別の自我を持つ。政府の構成員は、三重の利害とそれに基づく三重の意志を持つことになる。

① 個人としての固有の利害と個別意志
② 為政者の団体の持つ利害と団体意志
③ 人民全体、主権者の利害と一般意志

さらに国家が大きくなるほど、政府の力を強めるために少人数に集中した政府が必要になる。それと同時に、政府構成員の個別意志が、政府の団体意志に対する影響力を強め、政府の団体意志は、一般意志から遠ざかる。

社会契約によって成立した政治組織体であっても、前提となるのがあるがままの人間である以上、一般意志・団体意志・個別意志のせめぎ合いの中で腐敗は免れない。

社会契約論には、政治組織体の構成・誕生・老衰・死滅という時間が流れている。

自由について

自由は人間にとって最も重要な価値である。

社会契約前後において自由の持つ意味が根本的に変化する。

  1. 社会契約以前には、自己保存の権利に起源を持つ主観的な自然的自由である。
  2. 社会契約は、自然的自由を享受しているあるがままの人間がまさにその自然的自由によって引き起こされる存在そのものの困難を克服するために、自然的自由に基づいて自らの意志で結ぶ契約である。
  3. 社会契約以降には、自然的自由は放棄され、その代わりに、一般意志に制約された公民的自由を持つことになる。
    「 自由を制約する 」とされる一般意志は、構成員の意志の統一体であるから、この制約は、各構成員にとっては自らの意志に従う自己制約に他ならない。

社会契約によって全面譲渡を約束した以上、各構成員は、一般意志に従わなければならないのだが、あるがままの人間には、不可能である。

この状況を放置すれば、社会契約の政治組織体は崩壊することになる。政治組織体は各構成員を一般意志に従うように強制しなければならない。一般意志が立法者によって法として言語化された後であれば、各構成員を法に従わせることである。

一般意志に従うことは、公民としての自らの意志に従うことであり、それは、自らの約束を守るということだ、道徳的自由である。各構成員は、道徳的自由を教育され身に付けることで、公民的自由の意義を理解してそれに従う。「 自らに課した法に従う 」という法の内面化である。

社会契約論は、ひとつの理論を提示するだけでなく、「 理論が現実と向き合ったときに何が起こるのか?」そして「 その原因が、どこにあるのか?」を指し示す。会契約が構成員に要請する条件と現実のズレ自体が社会契約論の問題であり、このズレが政治組織体を誕生させ、構成し、衰退させていく過程が社会契約論にて明らかにされる。

ルソーの論述を読み進めながら、現実に存在する様々な問題を発見していく

社会を構成する各構成員は、それぞれに欲望を持ち、個人意志を持つ。しかし、一人の構成員は、必ず複数の他者の欲望や意志に関与することになるから、複雑な関係のネットワークによって結び付けられる。一つの意志は、その他のあらゆる構成員の意志と引き合い、反発し、さらに、幾重にも関係が折り重ねられる。構成員ひとりひとりの意志は、個別でありながら、その生み出す関係は、無限なのである。

一般意志は、単なる平均値や全員一致と必ずしも一致しない。一般意志はそれ自体としては存在しない。一般意志は、現実の個別意志との差異の関係において生じるが、あくまで、差異として実在する。構成員が十分な情報を持って討議するとき、わずかな差異が多く集まって、その結果、常に一般意志が生み出される。一般意志は、意志を表すあらゆる言表の差分・差異にのみ存在する。一般意志は、必ず存在するが、予めその形式を特定できない。それこそが、人民の主体そのものである。

告白

人間とは何か?

人間を知るためには、他者と自己を知る必要がある。一方で、私たちには、他者も自己も正確に見えていない。私たちが、他者とみなしているものは、他者に投影された自己像にすぎず、また他者が見えていない私たちには、自己を比較することができないのだから、自己を正確に認識できない。

私たちに見えているのは、他者や自己の虚像でしかない。

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