【本要約】リベラルアーツの法学

【本要約】リベラルアーツの法学

2022/4/28

はじめに

リベラルアーツ
人間が自由な人格であるために身に付ける学芸

自由の探究

リベラルアーツの目標
人間が様々な拘束から解放され自由になること

自由ということは、人間の生活、特に精神に関して最も重要である。

いかなる利益をもって誘われても自己を捨てないこと、また、いかなる権力をもって圧迫されても自己を守ることが自由である。

自由な人間は平和を作ることができる。

自由で平和な社会を目指す精神を身に付けるために、教育がある。

教育
職業教育:生活するための技術を身に付けさせる
人間教育:職業教育を支える人間を作り上げる
谷内原忠雄

古典の重視

リベラルアーツにおいては、優れた古典に触れ、他者と話し、自分自身の考えを表現することが重視される。

エウジェニオ・ガレン『 ルネサンスの教育〜人間と学芸との革新 』
教養というものは、何か既に発見された確定的なものを受動的に受けとめることにあるのではなく、行動し発見し認識する能力を身に付けることにある。
なぜなら、 人間を人間たらしめるものは、探究であり、不断の活動性であって、何かを最終的に所有することではないからである。

いつも自由な態度で認識能力を鍛えていく、そのための最良の方法は、かつて人間性の頂点を極めた人たちがどのようにして認識を得ていったのかを観察し、彼らの状況と私たちの状況、彼らの人間性と私たちの人間性を比較検討しつつ、認識能力を習得していくという方法であろう。

要するに、教養とは人間形成なのである。 そして人間形成は、先人の深い模範的諸体験を手びきとして、私たち自身の人間性を再発見することを通じてなされるのである。そして「 いかにして自由な人間を育成するか 」が問題となる。

リベラルアーツは、 古典を通じて自由な態度で認識能力を鍛え、未知の課題を発見し、学際的な分析を深めた上で、 より良い世界のために行動することを目指す。 古今東西の古典から ” 法 “ を切り口にしつつ「 人間の目指すべき自由とは何か 」を探求していく。

学際性の重視

学問とは、世界 ( 人間・社会・自然 ) を知り、世界に関わるための知的営為である。それぞれの分野に固有の「 世界の認識の仕方 」「 世界関与の仕方 」がある。
リベラルアーツ
「 多くの知識を所有している 」という静的な知性の有り様ではなく、様々な境界を横断して、複数の領域や文化を往き来する思考や感性の運動そのもの

リベラルアーツは、一人ひとりが、知的好奇心に基づいて自分なりの学びをデザインすることが重要である。

人間な自由な存在か 〜 聖書と法

リベラルにおいては、神以外の何ものも絶対的価値 ( 神 ) とせずに真理を探究すると捉えることもある。

  • 人間が自由な存在と言えるとすればなぜか?
  • 法やリベラルアーツは何のためにあるのか?
創世記『 エデンの園 』
リンゴを食べたことで、
人は恥という感情が芽生えた
女は子を産む苦しみを与えられた
男は食べ物を得るための役務を与えられた
人は死ぬ運命を背負った
エーリッヒフロム『 自由であること 〜 旧約聖書を読む 』
人間の最初の行為は、反逆である
そして、神は、反逆に対して「 自己の優越性を保持しよう 」として人間を罰する。
エデンの園から追放された人間は独立の生活を始める。
人間の最初の反逆行為は、人間の歴史の始まりである。
つまり、人間の自由の始まりである。

契約の観念こそ、 ユダヤ教の宗教的発展をなす。契約は「 完全な人間の自由、神からさえも自由である 」といった思想に道を拓く。

  1. 契約の締結とともに、神は絶対的支配者であることを止める。
  2. 神と人間は契約の当事者となった。
  3. 神は人間同様、法の規定に縛られ、神は恣意的な自由を失った。
  4. 人間は、神自身の約束と、契約に定められた原則にのっとって、 神に対抗しうる自由を獲得した。
契約こそ人間にとっての「 自由のための技法 」である。

契約は、自由な主体間でないと意味を持たない。自由な主体ではない奴隷と契約を結ぶことは、法的に不可能である。つまり、神と人間とが契約を結ぶ前提には、人間が自由な存在であること、従って、人間は自由意志によって契約を破ることもできることの承認がある。

これにより人間は、契約を破ることもできるにも関わらず、 自由意志によって「 自ら契約に留まる決断をするか否か 」を常に問われ続ける立場に置かれる。 ここに、神からの呼びかけ [ calling ] に対する自由な主体たる人間の応答という図式が成立し、応答可能性 [ respond ability ] としての人間の責任 [ responsibility ] が生まれることになる。 自由であり、かつ責任の主体という人間観は「 権利主体としての個人 」という法学における人間観の基礎にもなっている。

安息日
金持ちも貧乏人も同じような一日を過ごす。
神の前では、一人の人間に過ぎないことを思い起こす。
社会的格差をリセットするという意義がある。
  • 「 安息日にはどのような仕事もしてはならない 」というルールは、何のためにあるのか?

イエスは、 安息日を「 人が働きすぎて健康を害することを防ぐこと 」と捉えた。

安息日の趣旨は「 人間の自由と尊厳 」つまり「 人を大切にすること 」と言える。そして「 人を大切にする 」という法の趣旨に立ち返るなら「 安息日に人を助けることは望ましい 」という解釈が導かれる。

安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。
イエス

「 安息日 」を「 法 」に置き換えると

法は人のためにあるのであって、 人が法のためにあるのではない。

法の文言だけを形式的に適用すると、 本来の目的であったはずの法の趣旨とは正反対の帰結が生じてしまうことがよくある。「 このルールは何のためにあるのか? 」という常に法の趣旨にさかのぼって解釈することが大切である。

罪を犯す者は、誰でも罪の奴隷である。

  • 神に反逆し、神との契約に違反することから生じる罪から、人間がどのようにして自由になれるか?
  1. イエスの活動は伝統的な律法解釈の枠を逸脱していた。
  2. 律法を絶対的な存在として捉えている人たちによって、イエスは処刑される。
  3. キリスト教では「 イエスが十字架で処刑されることによって、人間を ” 罪 ” から解放した 」ということが信仰の中心に置かれる。
    これによって神に対する ” 負い目 ” から人間が解放され、” 罪の奴隷 ” 状態から自由になる。
聖書を ” 自由 ” という観点からみると
神に対する反逆によって ” 神からの自由 ” を手にすると共に神から離れ、契約違反の ” 負い目 ” を背負うことになった人間が、イエス・キリストによって神の前に立ち返り、” 神への自由 ” を回復していく壮大な物語
と要約できそうだ。

これにより、” この世 ” のいかなる価値観にも従属することなく神の前に立って生かされる個人、すなわち「 自由意志を持ち、自立して自律する人格が成立する 」という人間観が導かれる。

この発想は、キリスト教の影響下で発展した欧米の思想や学問の基調をなしている。

宗教的背景をどれだけ自覚するかに関わらず、法学をはじめ、欧米で発展した諸学問はこのような世界観・人間観を前提にすることが多い。

私たちが自ら望んで取り組む行為以外は、奴隷と解釈できる。
好きでゲームをするのは、ゲームの奴隷とは言わない、嫌になったら、ゲーム止めればいいからだ。
楽しんで、料理をするのは、料理の奴隷とは言わない、嫌になったら外食すればいいからだ。
嫌々、洗濯をするのは、洗濯の奴隷と言う、自分の意思ではなく強制されているからだ。つまらないのに、仕事をするのは、仕事の奴隷と言う、自分の意思ではなく強制されているからだ。
奴隷とは、主人に従うことを、強制された存在である。自分の意思ではないものに従って
いるのだから、奴隷だ。
仕事は、何のためにするのか?
お金のためである。私たちは、お金の奴隷である。
自由とは、お金を奴隷とすること、お金の主人になることである。

法に従うのは自由か 〜 哲学と法

” 哲学 ” は、その語源 ” philosophia ( 愛知 ) ” からもわかるとおり、元来 ” 知 ” の全体を対象としたものである。

・私たちは真理を知りうるのか
・人間とは何か
・生きるとは何か
・幸せとは何か
・善悪とは何か
哲学は「 根源的な問い 」を思索することを通じ、 自分の生き方や現代社会のあり方を自明視せずに深く吟味し問い直す営み

リベラルアーツにおいては「 教科書や教師から知識を得ること 」より、むしろ「 既存の知識を徹底的に疑っていくこと 」「 既知のことも決して確実ではなく、根源的な意味では誰もが無知であると気付くこと 」の方が遥かに重要である。

生きるということは、単に生きるということではなくて、善く生きることである。
善く生きることと、美しく生きること、正しく生きることは、同じである。
仮に不正を行使されたからといって、不正を不正で報いることは、正しく生きることではない。
ソクラテス

不正な悪法が存在するとき、良心に従って悪法を破り、それに対する罪は受け入れながらも、悪法への批判を続ける ” 市民的不服従 ” という思想がある。

私は法を破ったのだから ” 市民 ” としては、それに相応しい裁きを受けましょう。
しかし ” 人間 ” としては、悪法を破ったことを誇りとします。
ガンディー
自己の良心に照らして、不正な法律をあえて破り、その不正に対する社会の良心を喚起するため、法律違反に対する制裁として刑務所に入れられることを潔く受け入れる個人は、実際には、法に対する最大限の尊重を表明している。
キング牧師
トマス・アクィナスの自然法
人間は神の被造物であり、有限の精神しか持たないので、神に由来する永遠のすべてを理解することはできない。そこで、永遠法のうち、人間の理性により捉えられたものを自然法とした。自然法に従って人間が作った実定法が正しさの基準である。

世俗的・経験的な発想による近代自然法は、ホッブズ・ロック・ルソーの社会契約論によって展開された。

道徳という唯一のものがあるのではなく、相互に矛盾する多様極まる道徳体系が存在する。唯一絶対の普遍的道徳は存在しない。
ケルゼン

社会契約は自由にするか 〜 政治と法

政治とは、人間集団がその存続・運営のために、集団全体に関わることについて決定し、決定事項を実施する活動を指す。

政治とは、すべての人に関わる公の事柄について決める営み

① 法は人間の自由を奪うものか?それとも、人間の自由を守るものか?
② より良い法をつくるためには、直接民主政と間接民主政のどちらが望ましいのか?
③ 古代人の自由と近代人の自由、 そして、積極的自由と消極的自由は、どちらが重要か?

① 自然状態から社会契約へ:ホッブズ・ ロック

法は人間を拘束し、場合によっては刑罰を科す場合もある。その意味で、 法は人間の自由を奪うものだ。 それでは、法制度をすべて撤廃してしまえば、 人間は自由になれるのか?

ホッブズ・ ロック・ルソーを参照しながら、 法を執行する政治共同体や国家が存在しない状態、すなわち自然状態を考察する。
ホッブズ『 リヴァイアサン 』
自然は、人間を身心の諸能力において平等につくった。
ときには、他の人間よりも明らかに肉体的に強く精神的に機敏な人がいる。
しかし、すべての能力を総合して考えれば、個人差はわずかである。
この能力の平等から、欲求の平等が生じる。

もしもふたりの者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となる。その目的 ( 主として自己保存であるがときには快楽のみ ) にいたる途上において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努める。

このような相互不信から自己を守るには、力や策によって、できるだけすべての人間を支配することである。それは自己保存に必要な程度のことであり、一般に許される。
自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がない間は、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人に対する戦争状態にある。
戦争状態からは「 何事も不正ではない 」ということが当然帰結される。正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。
共通の権力が存在しないところに法はなく、法が存在しないところには不正はない。
  • 自然状態において人間は「 各人の各人にたいする戦争状態 」に置かれる。
  • このような悲惨な自然状態を脱して、人間が自由を得るため「 自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力 」すなわち「 国家 」という政治共同体を創設し、実力によって法を強制的に執行する。
「 国家は自由で平等な個人が契約して作った 」という考え方が、社会契約説である。
社会契約説のポイント
(1) 人間は生まれながらにして自由で平等であること
(2) しかし、国家がなければ人間の自由は十分に守れないこと
(3) そこで、人間の自由をよりよく守るため、個々人が自らの意思によって契約を結び、政治社会すなわち国家を創設した
ジョン・ロック『 統治二論 』
人間はすべて、 生来的に自由で平等で独立した存在である。誰も、自分自身の同意なしに、この状態を脱して、他者のもつ政治権力に服することはできない。

他者と合意して、
「 自分の固有権 」と
「 共同体に属さない人に対するより大きな保障 」と
を安全に享受する。

これによって、互いに快適で安全で平和な生活を送るために、一つの共同体に加入する。人々が、 自分の自然の自由を放棄して、 政治社会の拘束の下に身を置く唯一の方法である。人々が社会に入る大きな目的は、彼らの固有権を平和かつ安全に享受することである。

そのための主要な手段と方法とはその社会で制定された法である。従って、すべての政治的共同体の実定法は、立法権力を樹立することにある。なぜならば、立法権力の基本的な自然法は、 社会を保全すること、そして、社会に属する各人を保全することにあるからである。

立法権力
・政治的共同体の最高権力
・共同体が、固有権を委ねた人々の手中にある
・神聖かつ不変の権力

公衆が選出し任命した立法部からの是認がない限り、 法としての効力も義務ももたない。この是認がなければ、 法は法たるに絶対的に必要なもの、すなわち社会の同意を受けることはできない。

ロックは「 人間はすべて、 生来的に自由で平等で独立した存在 」であるとした。

そして、 人間は自然状態において有していた固有権を平和かつ安全に享受することを求め、社会契約を結んで政治共同体を作る。 社会契約によって創設された政治共同体において、 人間の自由は法によって守られる。

法は確かに人間を縛るものだが、法の究極的な目的は人間の自由である。
もしも、法をなくしてしまえば、人間の自由は失われてしまう。

もっとも、現実の生活において、 私たちは、憲法という契約書に実際にサインすることはあり得ないので、社会契約は一つのフィクション である。

来栖三郎『 フィクションとしての社会契約 』
少人数の場合ならば、現実の合意の成立も可能だったかもしれない。しかし、国家のような大多数の集団の場合には、現実に集会を開き、全員一致の合意を成立させることは不可能である。現実にそのような社会契約は存在しない。社会契約は「 人民主権国家の原理を提唱して規範的現状を変更しよう 」とする目的のための手段である。

② 直接民主政と間接民主政:ルソー・アーレント

ルソー 『 社会契約論 』
人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。

「 どうすれば共同の力のすべてをもって、 それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できるだろうか。各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない。」

これが根本的な問題であり、これを解決するのが社会契約である。

「 私たち各人は、私たちのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。私たち全員が、それぞれの成員を全体の不可分な一部としてうけとるものである。」

国家は公益を目的として設立されたものである。国家の様々な力を指導できるのは 一般意志だけだ。主権とは一般意志の行使に他ならないのだから、 決して譲り渡すことのできない。主権者とは、集合的な存在に他ならないから、この集合的な存在によってしか代表され得ない。権力は譲渡できるかもしれないが、意志は譲渡できない。

ルソーは「 人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている 」 とした。

自由な存在として生まれたはずの人間は、じつは奴隷状態に置かれている。 この問題を解決するのが社会契約である。私たちのすべての人格とすべての力を、 一般意志の最高の指導のもとに委ねて、主権国家を設立する。しかし、真の民主政はこれまで存在したことはなく、 これからも存在することはないだろう。

アーレントは、ルソーの議論を厳しく批判している。

ハンナ・アーレント『 自由とは何か 』
自由と主権の同一視は、危険な帰結である。

人間の条件は「 一人ではなく複数の人間が地上に生きている 」という事実によって規定されている。この条件のもとでは、 自由と主権はまったく異質であり、同時には存在することさえできない。

人々が「 主権的であろう 」とするならば
自我が自ら自身に強いる「 個人的な意志 」か
組織された集団の「 一般意志 」か
いずれにしても意志の抑圧に屈伏せざるをえない。

人々が「 自由であろう 」とするなら、まさにこの主権こそが放棄されねばならないのである。

アーレントによれば「 主権的でありさえすれば、人は自由でありうる 」と信じるのは危険だ。

政治体が持つ主権はこれまで常に幻想でしかなく、そのような幻想は、暴力という道具によってのみ維持されうるものに過ぎないからだ。

ルソーの説く社会契約は、 人間を自由にするものなのか。それとも、人間を抑圧するものなのか。この点を考えるためにも、自由という言葉が有する多様な意味について整理しておくことが重要になる。

③ 自由の多義性:コンスタン・バーリン

バンジャマン・コンスタンは、政治という公的領域に「 自由 」を見いだす古代人と、個人の私的領域に「 自由 」を見いだす近代人、という大きく異なる自由観を対比している。

バンジャマン・コンスタン『 近代人の自由と比較された古代人の自由について 』
・古代人の自由
祖国を同じくする市民の全員が、社会の集団的権力を共有するところにある。
・近代人の自由
個人の私的な享受の安全が、政治制度に保証されることである。

・古代的自由の危険性
人々がひたすら社会的権力の共有を確保することに熱心なあまり、個人的権利と、その享受をあまりにも軽視し過ぎるということ

・近代的自由の危険性
私たちが自分たちの私的独立の享受と、個人的利益の追求に心を奪われ、あまりにも安易に政治権力を分担するという、私たちの権利を放棄するということ

もし、私たちが政治的自由を放棄するならば、どこにも保証を見いだすことができない。二つの自由は、相互に結合されるべきものである。

近代人の自由はプライバシーなど私的領域の自由、 古代人の自由は政治参加の自由に対応する。近代人はあまり意識しないが、私的領域における自由は、じつは政治参加の自由が基盤となっている。

コンスタンは、私的領域における自由と公的領域における自由は相互に結合されるべきものであるため、二種類の自由の、そのいずれをも絶対に放棄すべきでないとした。

真実の物語とは何か 〜 歴史と法

歴史学は無限の過去の中から、自己にとって有意義と考えられる事象を自ら選択し、自らの価値観に従って、その意味を追究する営みである。したがって、歴史学的認識は主体的なものであり、認識者の主体性から切り離すことはできない。

しかし、同時に、歴史的認識は「 科学的 」でなければならない。 「 主体的 」ということと「 主観的 」・「 恣意的 」ということとは全く異なる。 歴史的認識は厳密な実証的手続きによる「 史実 」の確定に基づかなければならず、また、事象との間の関連性の把握において、論理的でなければならない。

カント『 永遠平和のために/啓蒙とは何か 』
形而上学の観点からは人間の「 意志の自由 」の概念について、様々な理論を構築することができる。しかし、意志が「 現象 」として示される人間の行動は、他のすべての自然の出来事と同じように、一般的な自然法則によって定められている。
歴史とは、こうした意志の現象としての人間の行動についての物語である。

人間の意志の自由の働きを「 全体として 」眺めてみると、 自由が規則的に発展していることを確認できる。

カントは「 人類の歴史を全体として眺めると、 自由というものが常に実に発達している 」という。

ヘーゲルも「 自由の意識が前進していく過程 」として世界史を捉えている。

ヘーゲル『 歴史哲学講義(上) 』
精神のすべての性質は自由なくしては存在せず、すべては自由のための手段であり、 すべてはひたすら自由を求め、自由を生み出すものだ。自由こそが精神の唯一の真理である。「 精神は自由だ 」という抽象的定義に従えば「 世界の歴史とは、精神が、本来の自己を次第に正確に知っていく過程を叙述するものだ 」ということができる。

東洋人は、精神そのもの、あるいは、人間そのものが、それ自体で自由であることを知らない。 自由であることを知らないから、自由ではない。ひとりが自由であることを知るだけだ。だから、このひとりは専制君主である他なく、 自由な人間ではない。

ギリシャにおいて、はじめて自由の意識が登場してくるので、 ギリシャ人は自由である。

しかし、ギリシャ人は、ローマ人と同様、特定の人間が自由であることを知っていただけで、人間そのものが自由であることは知らなかった。プラトンやアリストテレスでさえ、知らなかった。だから、ギリシャ人は奴隷を所有し、奴隷によって美しい自由な生活と生存を保証されていたし、自由そのものも、偶然の、はかない、局部的な花にすぎず、同時に、人間的なものを厳しい隷屈状態におくものでもあった。

キリスト教においてはじめて、 人間そのものが自由であり、精神の自由こそが人間のもっとも固有の本性をなすことが意識された。

世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、私たちはその過程の必然性を認識しなければならない。

ヘーゲルの持論

  • 「 東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、私たちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている 」
  • 「 国家こそが、 絶対の究極目的たる自由を実現した自主独立の存在である。人間の持つすべての価値と精神の現実性は、国家を通してしか与えられない 」
    自由と国家との密接な結びつきを強調している。
  • 社会と国家こそが自由を実現する場である。
  • 「 法律とは精神の客観的な現れであり、意思の真実の姿であって、法律に従う意思だけが自由 である 」

ヘーゲルにおいては、自由・法・国家、そして世界史が不可分のものとして結びついている。

津田左右吉『 津田左右吉全集 』
歴史的現象は人の生活であり、人の行動であるから、歴史を知るには何よりも人を知らねばならず、そして、人を知るには、知ろうとするもの自身が、それを知り得るだけの人であることが必要である。

正しい戦争はあるのか 〜 平和と法

法は、自由と平和の技術である。
憲法:自由の技術
国際法:平和の技術

カントは、法的な自由を「 私が予め自ら同意しておいた法則だけに従い、それ以外にはいかなる外的な法則にも従わない権限がある 」とした。

  1. 人々は、社会契約によって「 各人が社会の成員として自由であるという原理 」を中核とする共和的な国家を形成する。
  2. 共和的な国家が、自由な国家的な連合を形成する。
  3. 国際法に基づく平和が保たれる。

自由と平和とが不可分のものとして密接に結びついている。

国際法
・侵略戦争の禁止
・自衛のための戦争は正しい戦争として許容
日本国憲法9条
9条1項の解釈
① 禁止しているのは、侵略戦争のみで、自衛戦争は放棄されていない。
② 自衛戦争を含めて、すべての戦争を放棄している。
9条2項の解釈
自衛のための必要最小限度の実力としての自衛隊は、戦力に当たらない。
  • 平和とは、戦争のない状態である。
  • 平和とは、暴力の不在である。
平和とは社会正義の問題
消極的平和:戦争という直接的暴力がない状態
積極的平和:貧困や差別といった構造できる暴力がない状態

自由の基盤とは何か 〜 文学と法

人間には、言葉を通じて人とつながろうとする本源的欲求がある。

他者に向けて、その心に働きかけようとして、言葉が発せられ、書きつけられるとき、芸術としての文学が生まれる。それは、想像力と共感の力を育成し「 いまここ 」にはいない他者と自分を結びつけ、人々の新たな関係性、社会、世界との結びつきを作り出す。

芸術作品としての文学は、そのような言語活動の成果である。

そして、その中でも多くの人に受容され、さらには時と所を越えて後世に伝えられる作品が古典となり、 それが文化と教養の基盤となる。

加藤周一 『 文学とは何か 』
文学者の語る体験は、一般化されない特殊性と、反復されない一回性とのゆえに、私たちにとって価値のあるものだが、その価値は、日常的・科学的な立場からは、意味のないものだ。

一回かぎりの体験は科学的に意味がないように、 日常生活においても価値がない。 あるいは、むしろ「 効用がない 」といった方がよい。

私にとってある朝のコーヒーは私の青春と共にかけがえのないものであるかもしれない。青春は反復することができない。人生はやりなおすことができない、しかし、実は、私たちの人生の一日といえどもやりなおすことができない、再び同じ一日のあり得ない一回限りのものだ。
そのような一日の体験は「 日常生活に役立たない 」ということによって貴重であり、効用とは離れた一つの価値を代表する。その価値こそ、体験の文学的価値である。そこに、私たちの夢があり、人生の美しさがあり、また、希望や悔恨があるので、日常生活の効用のために整理された体験の中には、人間の感情の深みは現われてこない。

私たちの人生の方向を決定する体験、生涯の転機となる行為、 恋愛のごとく、また恋愛以上に重大な人間と人間との関係は、すべて具体的な事件がそのものとして、かけがえのないただ一回限りのものとして、私たちの人格に迫り、その根底を揺り動かし、生き方の全体を変えようとする。 したがって、文学の扱う体験が日常的体験と異なり「 日常生活の観点から役立たないものである 」ということは、正しいけれども「 人生に役立たないものである 」ということは全く正しくない。

統計だけが普遍的な知識を獲得する唯一の方法ではない。 特殊なものを、その特殊性に即して追求しながら、 普遍的なものにまで高めることそれこそ文学の方法であり、文学に固有の方法である。

真理は教えられるか 〜 教育と法

教育学とは、ある社会・文化における人間の生成・発達と学習の過程、及び、その環境に働きかける教育という営みを対象とする様々な学問領域の総称である。教育は人間の生涯にわたって、また、学校・家庭・地域・職場などおよそ人間が生活するあらゆる場所で行われる。 教育学はこのような教育という営みの目的・内容・方法・機能・制度・歴史などについて、規範的・実証的・実践的にアプローチする学問分野である。

ルソー『 エミール 』
私たちは弱い者として生まれてくる。 だから私たちには力が必要である。
私たちは何も持たずに生まれてくる。 だから私たちには援助が必要である。
私たちは分別を持たずに生まれてくる。 だから私たちには判断力が必要である。
私たちが生まれてきた時には持っていなかったもの、 そして私たちが大きくなった時に必要なもの、そういうものはすべて教育によって私たちに与えられる。

この教育は、自然か、人間か、事物かによって私たちに与えられるものである。

私たちの諸能力および諸器官の内部からの発達は、自然の教育である。この発達するものの使い方を私たちに教えるのは人間の教育である。

私たちに影響を及ぼしてくる様々な事物について、 私たち自身が経験を積んでゆくのは事物の教育である。
ルソーは 「自然」「人間」「事物」を調和させていくことを教育の基礎理念としている。

これにより、名誉・権力・富・名声といった外部からの評価基準ではなく、自分を測る基準を自分自身の中に持つ。

エーリッヒフロム『 生きるということ 』
何よりもまず、私たちは自分の物や自分の行為から自由にならなければならない。これは「 何も所有してはならず、何もしてはならない 」ということを意味してはいない。「 自分が所有するもの、自分が持つものに、また、神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはならない 」ということである。

持つ存在様式において問題になるのは様々の持つ対象ではなく、私たちの人間としての態度全体である。

すべてのものが、 何でもが、 渇望の対象となりうる。 日常生活で使う物・財産・儀礼・善行・知識・思想である。

それらはそれ自身として悪いわけではなく、悪くなるのである。

私たちがそれらに執着する時、それらが自由を損なう鎖となる時、それらは私たちの自己実現を妨げるのである。

フロムは「 人間がいかにして不自由になり自己実現を妨げられるか 」を論じている。学歴を持つための偏差値主義教育は、人間の自由につながらないどころか、自由を損なう鎖となる。

南原繁『 南原繁著作集 』
人ひとりを、その置かれた環境の中で、それぞれの個性に応じて、最善のものにまで形成する。それによって、各々が自分で考え、自分で意欲し、行為する自由の人格たらしめることは、教育の不変の理念である。

人間の本質は、その人間性の全充実において、人間であることのうちに成り立つものである。人間の真の意義は、彼の国家的公民生活のうちにもまた彼の社会的活動のうちにも存しない。

それは、人間であること = 自分自身の意識の内的自覚のうちに存するのである。

されば、教育は、あくまで自らの魂をもった自主自律的な人間個性の開発と完成でなければならない。

実に自己実現こそ教育の理想である。

南原によれば、 教育の不変の理念は真の「 人間性 」 をつくることだ。それは、一人ひとりを、自分で考え、自分で意欲し行為する自由の人格たらしめることだ。「 自己実現 」という言葉によって、自らの魂をもった自主自律的な人の個性が強調される。

C.R.ロジャーズ『 ロジャーズが語る自己実現 』
他者に教えることができるものは、いずれかと言えば、どれも取るに足らないことであって、行動にはほとんどあるいは全く意味ある影響を与えないように思える。
行動に意味ある影響を与える学習とは、自己発見的・自己獲得的な学習だけである。

自由は語りうるか 〜 言語と法

言語は、人間の思考と社会的営みのあらゆる局面に浸透して、その不可欠の構成要素をなしている。
碧海純一『 法と言語 』
法は、経済や政治とならんで、文化の重要な一領域を成すものと考えられる。

人間の文化は、そもそも言語をはなれては存在しえないから法も経済も政治も、言語を抜きにしては全く考えられない。法は、単に一般的な意味で言語を前提するに留まらず、さらに、極めて特殊な仕方で言語と結びついている。つまり、法というものは、それ自体が言語の一形態なのである。
岩井克人『 経済学の宇宙 』
言語とは、すべての人間が言語として使うから言語なのだ。 法とは、すべての人間が法として従うから法なのだ。そして、貨幣とは、もちろん、すべての人間が貨幣として受け取るから貨幣なのだ。言語も法も貨幣も、まさにこのような自己循環論法の産物であるからこそ、物理的性質にも遺伝子情報にも還元しえない意味や権利や価値を持ちうる。

言語と法と貨幣の媒介、それは、個々の人間にとっては「 自由 」の条件だ。

言語も法も貨幣も、まさに自己循環論法の産物であることによって、物理的性質にも遺伝子情報にも血縁地縁にも還元されない意味や権利や価値として、歴史の中で人から人へと受け渡され、社会の中に蓄積されてきた。

人間が言語を使う社会の中に生まれ、社会の中の他の人間と言語を媒介として意思を伝達し合うと、その言語を内面化するようになる。 言語によって思考し、言語によって判断し、言語によって意思決定するようになる。それぞれの人間が自らの脳の中に自立性を持った意味の宇宙を作り上げることを可能にし、物理的世界の構造からも生得的本能の命令からも小集団の秩序からも制約されずに、思考し判断し意思決定する自由を個人個人に与えることになる。

人間が法の支配の下に入ると、人間同士の利害関係は法を媒介とした権利・義務関係になる。それは、それぞれの人間が他人の介入から守られる権利の領域を確保することを可能にし、他人と共存しながら自己の目的を追求していく自由を個人個人に与えることになる。

人間が貨幣を受け入れると、人間同士の交換関係は貨幣を媒介とした売買関係になる。それは、それぞれの人間が貨幣という形で交換価値それ自体を持ち運ぶことを可能にし、好きな時間に好きな場所で好きな相手と交換できる自由を個人個人に与えることになる。

もちろん「 自由 」こそ人間の本性である。その意味で、言語と法と貨幣はまさに「 人間の本性 」そのものを形作っている。

『 福澤諭吉著作集 〜 西洋事情 』
自由とは、一身の好むままに事を為して窮屈でない状態である。一身を自由にして自らを守ることは、万人に備わる天性であり、人情に近ければ、家財富貴を保つことより重いことだ。自由とは、わがまま放蕩ではなく、他を害して自分を利するでもなく、ただ、心身の働きを逞しくして、人々が互いに妨害することなく、一身の幸福を目指すことである。
ヴィトンゲンシュタイン『 論理哲学論考 』
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。
論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界である。
論理の内側で、世界の限界を論じることはできない。論理の内側で「 世界にこれは存在するが、あれは存在しない 」と論じることはできない。「 あれは存在しない 」ということは、世界の限界を超えてしまう論理になる。
思考し得ぬことを私たちは思考することができない。思考し得ぬことを私たちは語ることができない。語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

自由の限界はどこにあるのか 〜 倫理と法

「 倫理学は『 真・善・美 』の探究という哲学の古典的区分の中における『 善 』の部分、すなわち、道徳的な価値や規範、人格について哲学的に探究す哲学の一分野 」であり「 法的な価値や規範について哲学的に論じる法哲学と隣接 」するとされる。

倫理は「 人として守り行うべき道 」とも言われるが、社会で当然視されている倫理は、無言のうちに個人の自由を抑圧する側面もある。倫理が、個人の自由に立ち入ることは、どのような場合に認められるのか?

J.S.ミル『 自由論 』
法的刑罰という形の物理的な力であれ、世論という精神的な強制であれ、個人の自由を制約することが許されるのは、個人が他人に対して危害を加えるときだけである。

他人に危害を加えずに、薬物を摂取していたとしても、本人にとっては幸福追求のために重要なのかもしれないのだから、本人の自律的な生き方を尊重し、法律の介入は避けるべきだ。

「 他人に辛い想いをさせたり、他人の幸福に対して配慮を欠いたりする 」といった非倫理的行為については、世論による社会的非難は正当であるが、他人の権利を侵害していないので、法律によって処罰することは許容されない。

サルトル『 サルトル全集 〜 実在主義とは何か 』
神が存在しないなら、すべてが許される。人間は自由である。人間は自由そのものである。神が存在しないなら、正当化する明確な価値基準もまた存在しない。世界に対して何の判断基準もないのに、自分の為すことに一切の責任がある。人間は自由の刑に処せられている。

カントは、価格を持つか尊厳を持つかを問題にする。価格を持つもの、別の等価のものと取り替えることができる。すべての価格を超越しているもの、いかなる等価のものも認めないものは、尊厳を備えている。人間は尊厳を持った存在だから、常に目的とならねばならず、手段として使用してはならない。

宗教は平和をもたらすか 〜 宗教と法

フランス人権宣言の絵画は2枚の石板に書かれた十戒をモデルにしている。 ここには「 フランス革命はキリスト教に取って代わる新しい啓示である 」という強い信念が表現されている。フランスは、共和制を確立する過程で、国家権力と結びついたキリスト教会を打破し、教会と国家とを完全に分離することを目指した。そのような歴史を背景に「 教会や宗教規範によって人権が制約されてはならない 」という発想が強く、フランス憲法は宗教批判を手厚く保護している。

宗教改革後のヨーロッパでは熾烈な宗教戦争が起こった。価値観の分裂による際限のない戦争を避けるべく、政教分離によって「 あらゆる価値観を平等に尊重すること 」を説く考え方が生まれた。 この考え方は、公と私の分離という発想と連なった。

長谷部恭男『 憲法と平和を問いなおす 』
それぞれの宗教は、価値観という互いのモノサシが異なるので、対立を生み出すのは自然である。だから、平和のためには、政教分離は必然である。
鈴木大拙『 新編 〜 東洋的な見方 』
フリーダム [ freedom ] やリバティ [ liberty ] の適切な訳語が見つからなかったので、仏教の語である「 自由 」を当てはめた。
・西洋のフリーダムやリバティには「 自由 」というよりも「 束縛からの解放 」という意味である。
・東洋の自由とは、天地自然の原理自体が、他から何らの指図もなく、制裁もなく「 自ら出るままの働き 」を「 自由 」という。モノが本人の性分から湧き出ることを自由という。自由の本質とは、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自に、そのまま生きること、これを松や竹の自由という。
竹内信夫『 空海入門 』
社会的存在としての人間は、個人でもなく自由でもない。個人も自由も人間という存在の中に見出されるべき理念であり、宿命である。文化が異なるに応じて個人と自由の概念は異なる。

自由市場は法規制すべきか 〜 経済と法

岩井克人『 ヴェニスの商人の資本論 』
資本主義は、資本の無限の増殖を目的とし、利潤の絶えざる獲得を追求していく経済機構である。
利潤とは、二つの価値体系の間にある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。
差異を媒介するとは、即ち、差異自体を解消することなのだ。
資本主義とは、常に新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。
永久運動的に運動せざるを得ない。動態的な経済機構である。
岩井克人『 貨幣論 』
貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「 共同体 」的な存在である。
貨幣共同体を成立させているのは、人々が貨幣を「 貨幣として使っている 」という事実のみだ。
貨幣共同体の存在は「 その貨幣共同体が未来永劫にわたって存在し続ける 」という期待によって支えられている。
モンテーニュ『 エセー 』
法律が信用を保つのは「 公正であるから 」ではなくて「 法律であるから 」である。これこそ法律の権威の不思議な根拠で、それ以外には何の根拠もない。
ジャック・デリダ『 法の力 』
人が掟に従うのは「 それが正義にかなうから 」ではなくて「 権威を持つから 」である。掟の権威は、人が掟を信奉 [ credit ] するという一点にかかっている。人が掟を信奉することが掟の唯一の基礎である。

自由意志は虚構か 〜 心理と法

心理学は、心とは何かを問い、心のはたらきを明らかにする学問領域である。そのために、人間が外界からの情報を取り入れ、理解し、最終的に適切な行動を取るに至る過程を現象的に、機能的に、また、それを支える脳の機能にまで遡って明らかにすることを目的とする。

末弘厳太郎『 役人学三則 』
人間というモノは理知だけで動いているモノではない、あるいは信仰であるとか、あるいは悲しみであるとか、あるいは喜びであるとか、あるいは恋愛とか、あらゆる心理作用をもって、朝から晩まで動いているものであるから、それらの複雑な作用をも加えて万事を考えなければならない。
フロイト『 フロイト全集 〜 精神分析入門講座 』
諸々の心的な過程は、それ自体としては意識されない、無意識である。そして、意識されている過程は、心の生活全体の中のいくつかの作用、その一部に過ぎない。心的とは、感知とか思考、意欲といった類いの過程である。
ベンジャミン・リベット『 マインド・タイム 』
「 自発的な行為を脳はどのように処理しているのか 」というのは意識を伴う意志の役割についてと、それだけではなく、自由意志の問題についても、根本的に重要な問題である。

自発的な行為では、行為を促す意志は行為へと繋がる脳活動の前かそれが始まったときに現れると、今まで一般的に考えられていた。もしそれが本当であるならば、自発的な行為は、意識的な心が起動し、指定している。実際には、自発的な活動に結びつく特定の脳の活動が、行為を促す意志の前に始まっている、つまり「 行動しよう 」としている自分自身の意図に本人が気付く前に始まっている。

実験によって、被験者が「 行為を実行しよう 」とする自分の意志や意図に気づく前に、自発的なプロセスは「 無意識に起動する 」ことが証明された。
人間の行為は、意識を伴った自由意志が現れる以前に、無意識に起動している。

自由意志が、人間の行為を起動しているのではないなら、法学における「 自由意志を持ち、自立して自律する人格 」という前提について、根底から覆される。
実験結果を受けて、社会心理学者のウェグナーは「 意識を伴った自由意志は、一つの幻覚である 」とした。これに対して、リベットは、自由意志は意志プロセスを起動することはないが、意志プロセスを、積極的に拒否し、行為自体を中断したり、行為を実行させることで、その結果を制御できる。

下條信輔『 サブリミナル・マインド 』
私たちが人間を見るとき、自己認識には多重性がある。本人にとってあくまでも自立と自由意志に基づく決断と行動であっても、はたからは、そう見えない。自己認識の多重構造の中で、近代的な自我・自覚するゆえに我にある自我・独立した意志を持つ単位としての個体・究極的な価値としての自由は、根拠を失い、崩壊していく。

自由意思は、仮に科学によって脳の物質的働きに完全に還元されたとしても、精神世界から消滅したりはしない。

小坂井敏晶『 人が人を裁くということ 』
近代的道徳観や刑法理念においては「 自由意志の下になされた行為だから責任を負う 」と考えられている。しかし、自由だから責任が発生するのではない。逆に、我々は責任者を見つけなければならないから、つまり、事件のけじめをつける必要があるから「 行為者が自由であり意志によって行為が為された 」と社会が宣言するのである。
言い換えるならば、自由意志は、責任のための必要条件ではなく、逆に、因果論的な発想で責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない。

自由・責任・法は、社会契約と同様に、社会を成り立たせるために必要不可欠であるフィクションである。フィクションとしての性質は、国家・人権・正義にも当てはまる。これらは、実験や観察の手法によっても確かめることができないものであり、人が作り出した主観的なモノという側面を持つ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『 サピエンス全史 』
虚構、即ち架空の事物について語るこの能力こそが、サピエンスの言語の特徴である。虚構のおかげで、私たちは、単に物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。

客観性とは何か 〜 科学と法

自然科学は、実験や観察という方法によって実証される再現性を重視する。

ポパーは「 反証可能性こそが科学の条件である 」とする。例え、説明能力が非常に高かったとしても、反証することがそもそも不可能であるような命題は科学ではない。科学的命題は、常に仮説であって、新しい実験や観測によって反証される可能性に開かれている必要がある。科学は「 普遍的真理に近付こう 」と不断に探究を続ける営みである。

トーマス・クーン『 科学革命の構造 』
パラダイムとは、科学の考え方全体であり、科学者共同体における共通の前提・信念・価値観の集合を意味している。
科学革命が起こる前後では、パラダイムが変化する。そして、その変化は、両立しないだけではなく、共通の物差しで測れない。比較自体が不可能である。
ウェーバー『 職業としての学問 』
世界に存在する様々な価値秩序は、互いに解き難い争いの中にある。争いに決着を付けるのは、決して学問ではない。
ウェーバー『 社会科学と社会政策に関わる認識の客観性 』
世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の意味を読み取ることはできない。私たち自身が、意味そのものを創造することができなければならない。「 世界観 」とは、決して経験的知識の進歩の産物ではない。世界観の違いは、科学の力では、表現できない。
川島武宜『 科学としての法律学とその発展 』
実験や事実の観察によって立証される科学ではない、法律学の理論は、客観的な規準はなく、見解の相違でしかない。そして、見解の相違を裁いて見解の正しさを確定するのは、結局、力である。

SNSを規制すべきか 〜 メディア・コミュニケーションと法

M.マクルーハン『 メディア論 』
メディアとは、単なる情報伝達媒体ではなく、独自の空間や時間を作り出し、人間の感覚・知覚のバランスや思考の在り方さえも規定する。メディアは人間の道具なのではなく、むしろ、メディアが人間をつくり出してきた。

メディアは、社会的現実を複製伝送する機械ではなく、それが作動することによって、社会的現実を不断に生産していく機関である。

メディアは単にメッセージを伝達する媒体ではない。必ずしも社会的現実を媒介して伝えているわけでもない。

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