【本要約】自由になるための技術リベラルアーツ

【本要約】自由になるための技術リベラルアーツ

2021/11/4

教養は自由の手段

リベラルアーツは、教養ではなく、自由になるための手段である。

固定観念や常識から解き放たれ、「自らに由(よ)って」考える。自分自身の価値基準を持って動いていかなければ、新しい時代の価値を作り出せない。

HowからWhatへ

自ら考えて行動するための気付きや糧を蓄えることだ。

リベラルアーツの必要性

ゲームのガチャに代表されるように、儲かればいいというビジネスが横行し、世の中や社会が豊かになるような商品・サービスが、富と必ずしも結び付いていない。世の中の営みをゲームのように取り扱い「いかに効率よく金銭を稼ぐか」といった現代社会である。

資本主義の経済では、モノが溢れているのに、自分が欲しいモノは見つからない。

メーカーは、コンサルの調査結果という科学的・数値的な裏付けのもとに、「正しく」て「強い」商品を作っていたが、iPhoneのような感覚的・直感的に「カッコいい」商品に淘汰された。「正しさ」は、もう「強さ」にならなず、「正しさ」は、ただの「コモディティ」である。

「未来予測をする」という他人に未来を委ねる思考の時代ではなく、「自分がどうしたいのか」という思考の時代だ。

  • 複雑で不安定な現代社会では、分析・論理・理性といった、科学重視の意思決定や方法論が限界に来ている。
  • 経営の判断にも、自分の真・善・美の感覚である美意識が重要である。
    現代は、美意識に限らず、人の感性に訴えることに目を向け始めている。

アメリカで、マインドフルネス ( 今という瞬間に意識を向ける ) が浸透しているのは、生き過ぎた金融資本主義に対する違和感から来ている。

  • 今、求められているリベラルアーツとは、コンピュータでいうOS 〜 私たちの行動や判断を司るソフト 〜 のような根本思想である。
  • 対して、ロジカルシンキングやマーケティングの知識は、アプリ 〜 状況に応じて使い分ける道具 〜 であり、従来の教養と同様である。

アプリという道具は重要だが「どの場面で何を使うのか」というOSの判断である。

古今東西の幅広い教養・知識を備えて、本当に大事な判断をする力や勇気を持って行動するための原動力とする。

  1. リベラルアーツは、人間を理解するための知恵を与えてくれる。
  2. 歴史は「過去の人間が何を欲し、どう行動し、その結果に対してどう反応してきたか」という記録である。
  3. 人間が積み重ねた歴史が、教養であり、リベラルアーツである。

私たち日本人は、天皇を現人神として受け入れながらも、人間が猿から進化した進化論も受け入れるという矛盾したモノサシを持っている。一方で、欧米のような一神教文化の中では、聖書が基準であるという一つのモノサシがある。

日本は、1980年代までは、複数のモノサシを複合して実践することで、強い国際競争力の源泉としていた。そこで、アメリカは、日本の強さを研究して取り入れていった。反対に、日本は、国際競争力が落ちてくると、アメリカが脱しようとしていた一つのモノサシを取り入れた。

その結果、日本は、経済成長を果たせなくなっている。資本主義という、お金という一つのモノサシですべてを評価することは、私たち日本人には、感覚的に合わないのかもしれない。

  • 他人と比較できる量的な指標
    偏差値・年収・会社・職業・居住地
  • 一人一人に固有の質的な指標
    自分が自分らしくいられること、自分の心が生き生きと躍動する感覚

量と質の両方の指標のバランスを取ることが、人間の知性である。

自分が自分らしくあって心が躍動する場所に身を置くと人は能力を発揮する。自分の心が動かされるものと仕事をシンクロさせることが非常に大きな競争力を生み出す。外側から与えられるモノサシに囚われずに、自分がワクワクする仕事を探し、自分が活躍できる場所に移動する。

  1. 自分の能力を発揮させるためには、自分が今どんな固定観念や常識や文化に囚われているのか見極めることが重要である。
  2. 自分の制約を知るために、モノゴトを相対化させ、複眼的な視点が必要になる。
  3. 複眼的な視点に有効なのが、リベラルアーツである。

社会の常識が「1種の自然淘汰として落ち着いた結果のものなのか?」それとも「効率性を追求した結果、不自然ながら、まかり通っているものなのか?」リベラルアーツは、自分たちの固定観念を見抜く感度を養ってくれる。

不自然にまかり通ってる常識 ( =非常識 ) の中にこそ、イノベーションの種が存在している。

長い淘汰に耐えてきた知・古典を読んで、現代を相対化する視点は、未来が見えない時代だからこそ武器になる。

今、自分たちがやっている仕事が「世の中のどう言った意味につながっているのか?」「どうやって貢献するのか?」自分の中に、広い世界観を持ち、高い視座から思考し、共感を得ることが必要となる。

武器としてのリベラルアーツ

リベラルアーツを学ぶことは、人生において最も費用対効果の高い投資になる。

・リベラル = 自由
・アーツ = 技術
リベラルアーツは自由になるための技術

常識として信じきっている前提や枠組みを客観的な視点で、相対化してみる。問うための技術が、リベラルアーツの真髄である。

  • イノベーションには、相対化が不可欠である。過去のイノベーションは、それまでの常識の前提や枠組みが、取り払われて成立している。
  • イノベーションは、それまでの当たり前が、ある時から、当たり前ではなくなる。

リベラルアーツは相対化の技術であり、相対化することによって初めて人は「常識だ」と思う世界のありようについて「why?」という問いを持てる。

常識を疑う態度を身につけるのではなく、見送っていい常識疑うべき常識を見極める選球眼を、持つことこそが本質である。

リベラルアーツは疑うべき常識を見抜くためのレンズとなる。

目の前の世界を「そういうモノだ」と受け止めて諦めるのではなく、比較相対化する。今、この瞬間の世界の有り様を前提として、その中で「いかに功利的に動くか」という問題意識に現代人は囚われすぎている。世界の有り様は常に変化しており、昨日までの勝ちパターンは一瞬で無効化される。そんな時代で、リベラルアーツは強かに生きるための足腰になる。

「市場の需要を探査し、製品やサービスを開発し、利益を出す」という営みが、ゲームとしては終了している。

ビジネスゲームが終了した社会において、私たちは何をして生きていけばいいのか?

  • その問いに答えるには「そもそも人はどのように生きるべきか?」という問いへの答えが必要である。
  • その問いに答えるには、自ずとリベラルアーツが求められる。

リベラルアーツは数千年という時間のヤスリにかけられて残存している人間の叡智である。数世紀に一度の大転換期を迎えている時代では、強かに、かつ、自由に思考し行動するために、リベラルアーツは必須の素養である。

歴史

リベラルアーツを「自由になるための技術」と捉えたとき、歴史的知識は、とても有用な示唆や洞察を与える。

  1. 社会でどのような変化が起こったとしても、その変化の中心には人間がいる。
  2. 「人間とは、どんな振る舞いをする生き物なのか」ということは、歴史から学ぶことができる。
  3. 歴史に嘘はない。
  4. 過去の歴史を振り返って継続的に観察される事象には必ず人間の本性が浮かび上がってくる。
  5. どんなに不合理で非科学的な事象でも、それが繰り返し現れるのであれば、そこには必ず何らかの真実が宿っている。
liberalの解釈の拡張】
liberal:自由

disciplinary:規律・訓練・体系化

liberal:非規律・非訓練・非体系化

イギリスでは貴族階級のエリートの仕事は、統治にあった。だから、自国や現地の歴史・文化を知っておく必要があった。歴史は哲学と紐付くので、歴史と哲学を土台として、その上に、政治や経済がくる。それらの総合的に学ぶことがエリートの基本である。

世界には、新しいモノを、上に積み上げていくストック文化圏 ( 日本、イギリス ) と、新しいモノを取り入れるときに、古いモノを捨てるリプレイス文化圏がある。

日本人

「文明という良いモノ・便利なモノは、取り入れるけど、実は、通底している文化・精神性は不変」というのが日本のあり方だった。1990年前後のバブル時代に世界を席巻し、経済・社会活動において、歴史上初めて「目指すべきお手本がなくなる」という状況となった。エリートは、本来、お手本を考える存在である。お手本がなくなり迷走したのが、平成という時代だ。

日本人でも、その中身は時代によって違う。

人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映している存在である。

そう考えると、「今の日本人は、戦後の製造業の工場モデルの下で高度成長社会の意識を反映した存在」である。正しくは「今の時代の日本人は、戦後の製造業の工場モデルに過剰反応して現在の特質を持つようになった存在」である。

イノベーション

「イノベーションとは、既存知の新融合」である。

  • 既存知間の距離が遠いほど、おもしろいイノベーションが生まれる。
  • 既存知間の距離を遠くするのが、ダイバーシティである。

多国籍の人が集まれば、それだけいいアイデアが生まれる可能性が高まる。混ぜると強くなる。成長の鍵は「国籍・性別・年齢フリーの社会に転換できるか」である。

「国の中央は洗練が進むがゆえに保守的になり、異質なモノや新しいものは辺境から生まれる」のは、歴史の法則である。

考える力は、問題を解く力ではなく、問題を立てる力であり、常識を疑う力である。

AI技術が進んでいく中で、人間に問われる本質は、考える力である。

物事を正確に見るための方法論として、縦・横・算数がある。

  1. 縦は歴史
    昔の人から物事についてどう考えたのかを知る
  2. 横は他の国や違う業界
    日本社会の常識的・業界の常識と思っていることが、世界ではどう見られ考えられているのかを知る
  3. 算数
    データやエビデンス「縦・横」で学んだことを具体的な数字・ファクト・ロジックで把握する。
  • 同質社会ほど、忖度や空気を読むために意思決定が遅くなる。
  • 様々な意見や価値観の混在する異質な社会は、数字・ファクト・ロジックに基づいて考えるほかないため、意思決定が速くなる。

自分は、今の置かれているポジションで「何をすれば、世界を変えることにつながるのか」を考え続けていくことが働く意味・生きる意味である。

宗教

日本人は宗教に疎い民族である。身近な生活文化の多くが「仏教・神道の影響を受けている」ということも、意識していない。世界の国々では、宗教を基盤とした文明や社会が成り立っていて、宗教を知ることはグローバル社会を読み解くことにつながる。

  • 日本では、宗教と「経済・政治・法律・科学技術・文化芸術・社会生活」は、別モノと捉えられている。
  • 日本以外の国では「経済・政治・法律・科学技術・文化芸術・社会生活」を全部ひっくるめたモノが、宗教である。

キリスト教

  • 「人間は、そもそも間違いを犯す、困った存在である」としていて、これを「原罪」という。
  • 「困った存在の人間がしっかり生きるには、神・教会の助けが必要だ。」というのが根本である。

そして、聖書に書いてないことは「予め人間が決めておく=法律」である。法律は「すべての人が合意して決める=契約」である。契約だから、拘束力がある。自分が契約に合意したのだから、契約に従属しなければならない。

契約に従属 ≠ 他人に従属

人間は神だけに従属する存在だが、それでは社会が成り立たないので、契約によって人間の集団を構成する。

  • 人と神とは、1対1で聖書を通して契約で結び付く
  • 人と人とは、法律を通して契約で結び付く。

「契約=法律」によって、すべてを動かすのが、キリスト教社会である。

  • 旧約聖書は、ユダヤ教の聖書で、信仰の生活に関する律法である。
  • キリスト教は、新約聖書が旧約聖書の効力を停止しているので、律法はない。
    だから、人間が作る。
  • イスラム教は、イスラム教の聖書コーランに基づいた律法である。

宗教を知ることは、宗教に帰依している人々の思考・行動様式・価値基準を理解する上で有用である。

言葉

イノベーションを生み出す力とは、未来を想像することである。

そして、現在と未来の差を取ることで、何が足りないのかがわかってくる。足りなければ作ればいいというのが、イノベーションである。

  • 人間には脳があり、脳の機能は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの知覚である。
    知覚によって、目の前の現象を理解する。
  • 人間には、言葉が与えられている。
    言葉によって、目の前の現象だけでなく、知覚できないことも理解することができる。
    人の話し、本、ニュースである。

言葉を使うことによって、自分の世界を言葉の到達する範囲まで広げることができる。言葉は人間に与えられた大きな能力である。だから、人間は「言葉を使って物事を考える」ことによって「自分を超えていきたい」と考える。ただし、よく考えると、ここには矛盾がある。

言葉で考えている以上は、自分の頭で考えているわけだから、自分を超えてはいないことになる。しかし、その言葉は本当に自分の中から出てきたものなのか?

もし「何かの本に書いてあった」「誰かが言っていた」ということであれば、他の人の頭の中にあった言葉が形を変えて自分の中に入ってきていることになる。

本当に自分を超える可能性というのは、そこにしかない。だから「今の自分を超えて、もっと大きな世界に行きたい」「より正しく、より多くの人々の役に立つことを考え、実行したい」と思うのであれば、本や会話を通して「他の人の言葉に触れる」ということが必要になる。

ソクラテスやキリストや釈迦は、書物や文字を書いていない。しかし、彼らの言葉が現代に生きているのは、後世の人たちが書物にしたからだ。

書物や文字のデメリット
・書かれた言葉は誤解される危険がある
・文字によってモノゴトが概念化してしまう

マインドフルネスや瞑想をメンタルトレーニングに取り入れるグローバル企業が増えている。世界のビジネスリーダーの間で「禅」への関心が高まっている。国内でも「禅の精神を学び、実践し、ビジネスや生活に活かそう」という動きが盛んになってきた。

坐禅は、「自分が何者であるのか」を知る方法・自分の心と向き合う方法を教えてくれる。外側ばかりに向いている意識を、自分自身の内側に向ける。

他人から評価された時に、感情が動き、喜怒哀楽を表現するのは、自分のことが本当にわかっていないからだ。本当に自分のことがわかっているのなら、他人の評価に一喜一憂する必要がない。だから、坐るのだ。自分は何者であるか、わかるために坐る。

禅とは、人が人になるための修行である。人として「どう生きるか」を考える。そのために自分の心と対話し、自分を見つめ直す。自己との対話は、自分の心を感じるだけでなく、古代から自分にまで連なる生命のつながりを感じることだ。

  • 己を見つめることで、自立して一人で生きられる力を養う。
  • 己を通じて生命のつながりを知る。
  • 「自分が」という思いを捨てることで、争いを失くし、人と和合していく。
  • 人らしく生きる。

ビジネススクールでは、セルフウェアネスが、最重要のエグゼクティブ育成の課題としている。「セルフウェアネス=自己認知」とは、自分の状況認識・自分の強みや弱み・自分の価値観や志向性など、自分の内側にあるモノに気付く力のことである。

神経学の科学的見地から、坐禅や瞑想の効果として、「注意力・集中力・ストレス管理・衝動の抑制・自己認識といった自己コントロールの様々なスキルが向上する」が挙げられている。

組織の不条理

日本型組織では、不条理が起きていることを理解する。不条理とは、人間や人間組織が合理的に失敗することだ。

個人個人が「合理的・論理的だ」と判断して行動した結果、組織全体が非合理的・非効率的になってしまい、失敗・不正が起きる。

人間は、何か「行動しよう」とするときに損得計算を行い、そのコストの中に、人間関係上の無駄な駆け引きも取引コストとして含めて計算する。そして、その計算結果が「+」なら行動し「−」なら行動しないという行動原理がある。

日本組織の不条理は、無知・非合理的な思考ではなく、一人一人が、取り引きコストの見えないコストを忖度して損得計算し、合理的に行動した結果として起きる。

「損得計算をして合理的に判断しよう」とするが、人間には認識能力の限界があるために、ある目的に対して限られた合理性しか持ち得ない。

リーダーは、主観的に価値判断して、それに対する責任を取る覚悟が必要だ。

戦後、科学万能主義で、客観性が無条件によいとされ、哲学を非科学として疎かにしてきたことに根本の原因がある。ビジネスの現場では、客観的データに基づいていることはポジティブに捉えられるが、主観はネガティブな意味で用いられる。

  • 主観とは、主体でもあり、自由で自律的である。
    主観だからこそ、責任を伴う。
  • 客観は、主観じゃないから、責任を取らなくていい。

+

  • 客観的意見は、同一性が高いから、意思決定も楽である。
  • 主観的な意思決定や価値判断が、自律的人間たる証左である。
    主観的判断ができないなら人工知能でいい。
    客観的判断なら人工知能の方が優れている。

儲かるどうかの損得計算と「正しいか、好きか、おもしろいか、楽しいか」といった価値判断が、起業家に必要な資質である。

・儲かる正しい
 → やる
・儲からない正しくない
 →やらない
・儲かる正しくない
 →やってはいけない
・儲からない正しい
 →イノベーションの芽

ビジネスには、「自然資源を利用する」「環境に負荷をかける」「ゴミを排出する」「組織の中に格差を作る」といった原罪性を有している。そして、現代は、ビジネスの持つ原罪性に厳しい眼差しが注がれる時代である。

  1. 「利益が大きい」「効率がいい」といった理論・理性だけで判断するのは厳しい時代になっている。
    社会の常識が解体されていく現在においては、コレまでの常識・社会通念に忠実で、周囲の空気を読むことに長けている人材は、判断ミスをする。
  2. 社会における様々な領域において「法の整備が追いつかない」という問題が発生している。
    システムの変化に対して、ルールが事後的に制定される社会において、明文化された法律だけで判断を行う思考は、時代遅れになる。
  3. 現在のようは変化の速い世界においては、ルールの整備はシステムの変化に引きずられる形で後追いでなされる。

普遍的価値ー幸福

分業が過度に進展する近代社会では、機能を統合する相互作用の営みが欠如し、共通の基盤が育たない。

  • 社会の規制・規則が緩んでも、個人は必ずしも自由にならず、かえって不安定な状況に陥る。
  • 個人は、組織や家庭への連帯感を失い、孤独感に苛まれながら、社会を彷徨う。
変化そのものに抗おうとするのではなく、変化にポジティブな意味付けをしながら、新しい社会の在り方を構想できるかである。

組織における人と人とのつながり・コミュニケーションの在り方と幸福に相関関係がある。

  • 人は、一人では生きていけない、人類は、集団で協力し合うことで繁栄してきた生物である。
  • 「人と協力することによって幸福感が高まる」という生化学的な仕組みを、進化の過程で獲得してきた。

科学とは

  • 「変化」と「変化をもたらす力 = 変化の力学」に注目するのが科学である。
  • 多様なモノに普遍的・統一的な法則性を見出していくのが科学である。
【予測不能な時代に対処する3つのP】
・Predict
 過去のデーを用いて過去の延長ではどうなるか予測する
・Perceive
 過去の延長と現実との乖離を特定する
・Prioritize
 乖離が起きている対象に対して優先的に行動を起こす
人間よりも人工知能の方が、問題解決能力が優れている時代には、人間には問題を認識する力が求められる。

問題をどのようなフレームワークで捉え、どのようなストーリーを描けるかだ。

生産とは、形のあるモノを外に生み出すということだけでなく、人の能力を高め、成長させることだという見方もできる。人間の成長は、試行錯誤や、実験と学習によって得られる。モノではなく人をつくるという視点が、企業や経済の成長には必要である。

予測不能な未来に向き合うとき「人が生きる目的」「企業や社会が成長する目的」という軸を置くことが最重要である。

社会の変化

リベラルアーツとは、自分を縛る固定観念や無意識的な規範から自由になるための思考技術を指している。これは、自分が今いる場所・時間における常識を、相対化できるという点に関わっている。

イタリア人的思考
病気は感染するモノだから、みんな1回罹って、治して、強くなる。
もともと、人間は動物、動く物なのだから、移動する能力や欲求がバーチャルの利便性に完全に淘汰されてしまうことはあり得ないだろう。
  • 欧米ではキリスト教と聖書が行動の規範になっていて、それに背くことが罪であると考え、「罪」を犯さないよう自分の行動を律する。
  • 日本では神や仏よりも、他人の目、世間に対する意識の方が強いために、世間の常識からはみ出した「恥」とならないように行動する。
倫理や道徳が「神との関係で決まるのか」「他者との関係で決まるのか」という違いがある。
  • 「最後は、宗教的倫理観に則って判断すれば間違いない」と言える絶対的な基準を持っている文化圏は、ある種の強さがある。
  • 常識や世間体といった事態や状況によって揺らぐ基準に従っている文化圏では、危機のときは、弱さが露呈する。
日本では、世間が倫理基準となっていて「人に迷惑をかけない」ということが、最重要な行動規範となっている。
  • 日常から、多様なモノを受け入れ、寛容性・臨機応変性を培っている人々は、冷静に向き合える。「モノゴトは思い通りにならない」とわかっていれば、もっと楽に受け入れられる。
  • 異質や自分の気に入らないモノを排除することに懸命になり過ぎると、生きにくくなるだけでなく、危機への対応力も下がる。

異質を社会組織の危険分子と捉える日本のメンタルは、海に囲まれ移動の可能性を育まない島国という土壌によって象(かたど)られたモノかもしれない。

寛容性は、多様性に接続される概念で、いろんな考えがあるからこそ豊かさになれる。

専門家でなければ「職種が違う」と狭窄(きょうさく)的な視野でシャットダウンするのは、思考停止の状態で、多様性を受け入れない価値観の現れである。

「誰がそう言ったか」を尋ねないで、「言われていることは何か」、それに心を用いなさい
トマス・ア・ケンピス

日本は「誰が言っているのか?」に重点を置く。

他者の意見に飲み込まれず、自分の頭で考えるためには、知識や教養が必要である。それが面倒だと自分の頭で考えることを止めてしまい、世間体で生きている人々がたくさんいるのが、日本の現状だ。

【本要約】自由になるための技術リベラルアーツ 〜 スピンオフ 〜 宗教
イノベーションを生み出す力とは、未来を想像することである。 イノベーションが、アメリカ人は得意で、日本人は得意ではない。「それはなぜか」と言えば、アメリカには「神」がいるからだ。

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