「命は大切」ではない「命は必要」

幸福

「命は大切」ではない「命は必要」

2021/10/11

蚊が伝える命のバトンタッチ
蚊は、食物連鎖を伝えてくれているのかもしれない。蚊を殺すことで、チクリと無意識に感じる痛みは、普段、何気なく生きている私たちへの命の警鐘である。

命という価値観

例えば「命は大切だ」という価値観の否定から、モノゴトの視点を始める。

「命は大切だ」としたら、私たちは、人類全体を否定しなければならなくなる。
私たちは、命を奪うことで、生き長らえてきた。
  • 動物を狩って、その命を食べてきた。
  • 植物を育てて、その命を食べてきた。
  • 一部の動物を家畜として育てて、その命を食べてきた。

今でも、牛・豚・鳥などの動物を、稲・小麦・野菜などの植物を、私たちは、毎日、食べて暮らしている。命を食べて生きている。

そんな私たちに、命の大切さを謳う権利があるのか?

ベジタリアン?ビーガン?動物の命を食べていない。でも、植物の命を食べている。

動物は動いているから、生きていることを認識しやすいが、植物は動いているが、そのスピードが遅過ぎて、生きていることを認識しづらい。ただ、それだけだ。「動物はダメで、植物はいい」というのは、偽善の産物であり、ひとつの価値観でしかない。

すべからく人類は、命を食べることによって生きてきた。
本当に命を大切にするのならば、私たちは何も口にすることはできない。

すると、私たちの命が途絶えてしまう。私たちは、自分の命が大切なだけだ。「すべての命が大切」というような装いをして、命を食べる。「自分の命が大切」だから、他の生き物の命を食べる。

自分の命が大切で、他の生き物の命は大切ではなく必要なのだ。
自分の命をつなぐために、他の生き物が必要なのだ。

命が必要なのに、私たちは「命が大切」という。

「他の生き物の命が必要で、自分たちの命は大切だ」という欺瞞の中で、私たちは生きている。矛盾を抱えながら生きているのが私たち人間だ。

「命が必要だ」と認めてしまうことは、「命が大切だ」という信心の自己否定につながる。自己否定には苦痛が伴う。だから、できない。

でも、「命を必要だ」とする。

私たちは、食物連鎖の頂点にいるから、私たちの命を差し出して、他の生き物の命をつなぐことはできない。私たちの命は、食べられることが目的とならない。

「私たちの命の必要な理由とはなんだろうか?」という問いに行き着く。

命を使って生きる意味

私たちが、生きる意味って何?

「そんなの自分で決めろよ。」

でしかない。

生きる意味を考えること自体が、生きる意味である。
  • そもそも、生きる意味を考えないまま、死んでいく人がいる。
  • 生きる意味を考えたけど、生きる意味がわらないまま、死んでいく人がいる。
  • 生きる意味がわらないから、自分の外側に答えを求めて、宗教にすがり、宗教の生きる意味に従って、死んでいく人がいる。
  • 生きる意味を自分の中で見出して、生きる意味を実践して、死んでいく人がいる。

生きる意味を考えなくても私たちは生きていける。

私たちは、本能で生きていける。
生存と繁殖という本能だけでも、この世界を、楽しく生きていける。

本能だけで生きていくのであれば、それもまたひとつである。

しかし、私たち人間は、本能だけで生きている動物ではない。だから、私たちは、人間だけに与えれた理性を使って、動物ではできない何かをする必要がある。命の必要性は、動物にはできない、人間にしかない何かである。

幸福である。

命の意味は私の幸福

私たちは、幸福になるために生まれてきた。
「みんな幸福になりたい」と願う。

幸福とは何か?

幸福の形が、お金だったり、家族だったり、仕事だったり、恋人だったり、家だったり、友人だったりする。幸福の形は、人それぞれで異なる。

そもそも、幸福とは、どういう状態か?

幸福になるためには、幸福の定義が必要である。

私たちは、快の本能がある。快適に暮らしたい、快適に生きたい。快適とは、美味しいとか、贅沢とか、気持ちいいとか、心が安らいで、嫌な気持ちがしないことである。
だから、私たちは、「本能的に快を求めて、快を幸福だ」と感じる。

快から幸福への道は、どうなっているのか?

快の遷移
快 = 気持ちいい → 楽しい → 幸せ

快は、自分が気持ちいいこと、楽しいことに変容していき、幸福へ誘う。

  1. 気持ちがいいのは、一瞬、例えば性的な快楽
  2. 楽しいのは、起きてから寝るまでの間、遊園地に行く、友達と会う、旅行に行く、恋人とのデート
  3. 幸福なのは、寝ても起きても、ずっと気持ちいい、楽しいと感じられる状態

こうして、私たちは、幸福を得ることができる

私たちは、幸福だけでは足りない。自分ひとりの幸福だけなら、動物でも、理性がなくとも可能かもしれない。

命の意味は私たちの幸福

私たち人間が、動物にはない理性を使って、幸福を求めることに、私たちの命の必要性がある。私たちは、自分だけでなく、自分の周りの人々を含めた幸福を求めるのが、理性である。自分という概念すら超えて、社会の幸福である。国を超えて、世界の幸福である。世界の人類の幸福を超えて、地球すべての幸福である。世界平和によって、最大多数の最大幸福を目指す。

でも、私たちは、世界平和を、願うけれど、世界平和のためには、何をしていいのかはわからない。

原点に戻る、まずは、自分を幸福にする。自分が幸福になったら、家族を幸福にする。自分だけの幸福ではなく、家族全体の幸福度を考える。そして、家族を全体から、社会へ、国へ、世界へと広がっていく。

幸福が、私たちの命の使い方である。
幸福が、人の命の意味である。
幸福が、人間の命を必要とする理由である。

幸福であるならば命は大切だ。
逆に、幸福でないならば、命は大切ではない。
  • 命を無駄遣いしてはならない。
  • 幸福にして命を大切に生きる。

私たちは、「たくさんの大切な命を食べて生き長らえている」という罪を背負っている。
その罪は、幸福であることで償うしかない。
幸福になりたいではなく、幸福であらねばならない。
たくさんの屍の上に立つ人間としての宿命である。

【本要約】不食という生き方
感情によって、ストレスによって、食欲が生まれる。過食は、ストレスを紛らわせるための代償行為である。

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