【リバタリアニズム】⑤ポイ捨てと国家

リバタリアニズム

ポイ捨てと国家

2020/10/9

『ポイ捨ては、公共の場所で起こる。』
これは事実ではなく、定義である。

私的な場所でのポイ捨てと同様な事象が起こっても、それはポイ捨てとは呼ばない。野球場、映画館、コンサート会場で、ゴミをその場に置いて帰っても、それは、ポイ捨てと言わない。

公共の場所に、ゴミを残していくことと、私的な場所に、ゴミを残していくことに、本質的な違いはない。

私的な場所では、その所有者が、方針を決める。

  • 労働者を雇って、ゴミを清掃する。
  • ゴミを出す人は、入場禁止とする。

私的な場所において、ゴミを出すことが禁止された場合は、その場所に行かない消費者も出てくる。ポップコーンの箱や、氷の入ったコーラの紙コップを捨てれない映画館に、少なくとも、湯浅は行かない。

「消費者の利便性を取って、ゴミを清掃する人を雇うか?」「ゴミを出す消費者は、あくまで、入場禁止とするか?」は、所有者が金銭的メリットを天秤にかけて判断するという 市場の原理 が働く。

国家は市場外に存在 する。
政府は市場での自由な取引から利益を得るわけではない。国家の収入は税金であり、それは、消費者を満足させることと何の関係もない。公共の場所においては、市場の原理は働かない。公共の場所は、国家の一部であり、国家は、国民(消費者)から強制徴収した税金を、国民の需要に対して、供給することはない。

国家が、ポイ捨て禁止とするならば、私的な場所と同様に、市場の原理が必要である。市場の原理を導入した時点で、国家の存在価値はない。市場が全てを決める世界では、国家は必要ないというのが、リバタリアニズムである。

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