損失回避思考
2022/4/1
損失認識の反転
「 損したくない 」というのは、ひとつの価値観である。私は、利得が支配するこの世界で、「 損したくない 」と思って生きてきた。損失ではなく利得を求めた結果に今がある。利得を求めた結果、IT業界で、就労してきたし、それが自分の能力にも適合していた。利得 = 損したくないは、私の精神の根本というよりも、「 私である 」という前提のようなもの、私を為す根幹の価値観である。
私にあるモノは、当然、他者にもあるはずだ。
私は、自分の中に、巡っている血液を意識することはない。それは、絶えず体中を巡っているからこそ、私は、生存していられる。血液なしに、私は存在しないけれど、当たり前過ぎて、そんなことは意識していない。
私にとって「 損したくない 」は、血液に近い。
私にあるモノは、当然、他者にもあるはずだ。他者にも血液が流れているはずだ。しかし、そんなことはない。
価値観は人それぞれだ。
私にとっての血液は、損したくない。だけど、万人とって、損したくないが、血液足りうるわけではない。
「『 損したくない 』って考えたことがない 」と言われた。でも、その言葉の意味はわかっても、理解して腹落ちすることなんて全くなくて、ただ、空中にブラブラと浮いていた。「 何を言っているんだろう?」としか考えられない。「 損したくない 」って考えないことはあり得ない。
私にとっての血液なのだ、絶対的な価値観なのだ。
同じ人間なのか?
私が「 損した 」と言うのを、不思議に思っていたらしい。私は「 損した 」「 損したくない 」といつも考えている。だから、無意識に言葉に出るんだろう。
どういう心境なのだろうか?
私には理解できない世界である。
「 損した 」とか思わない。そういう出来事が起こった。ただ、その事実があるだけで「 そっか 」といった感じである。そこで感情は動かない。
「 花を見てキレイだ 」と思う人もいれば「 ただ花がある 」という事実と受け止める人もいる。「 花はキレイだ 」というのも価値観で「 花は、ただそこにある事実 」というのも価値観である。「 花にキレイだ 」という価値を与えなければ、花は、その辺の木や草と変わらない。 木や草に感情を持つ人は、少ないという前提だと。
自分なりの解釈を付加させることで、理解が捗る。しかし「 なるほど!わかった! 」なんてことにはならない。頭ではわかっても、それは腹まで落ちてこない。
私の「 損したくない 」という意識は、影響を与える。
「 今まで、何とも思わなかったのに、最近『 損した 』と考えることがある 」と言われた。
私の価値観が、他者へと影響し、他者の思考回路を変化させてしまった。
その事実に、驚愕した。
私は、他者に知らず知らずのうちに影響を与え続けた結果、他者に新しい感情をもたらした。
「 損したくない 」という感情は、ないならなくてもいい感情だ。必要なければ、必要ないでいい。私は「 損したくない 」と利得を考えて生きてきたので「 損したくない 」と考えたことがない人生はどんなものか想像がつかない。
だけど、損とか得とか、足の先から頭のてっぺんまで資本主義の世界に浸かった人生よりも「 損したくない 」と考えたことのない人生の方が、豊かな気がする。「 幸せ 」というよりも「 豊か 」という表現が適切だ。「 損したくない 」が存在しない世界は、資本主義に急かされて生きていくよりも「 豊かな人生 」である。「 豊か 」であることは、資本主義的に、お金があることよりも「 損したくない 」という感情すらない世界なのかもしれない。
でも「 その不要な感情を与えてしまった 」という事実である。一度、芽生えた感情は、消し去ることはできない。私と過ごしたことが、余計な感情のキッカケになったことは、疑い得ない。
私たちは、そうやって、良かれ悪かれ人に影響を与え、そして、与えられて生きていく生き物である。人から影響を受けずに生きることはできないし、人に影響を与えずに生きることもできない。私たちは一人では生きていけない。寂しい生き物なのだ。
だとするならば、人にいい影響を与える人間になりたい。豊かさを奪うのではなく、豊かさを授ける。そのためには、自分が豊かにならなければならない。自分が豊かにならなければ、他者に豊かさを与えることはできない。資本主義に造られた豊かさ、富や地位や名誉ではなく、もっと、内面的で本質的なもの。それは、幸福のひとつの指標であるかもしれないし「 豊か 」が幸福そのものかもしれない。「 損したくない 」を反転させると「 豊かさ 」という概念へと辿り着いた。
損失回避思考
そんなに気に入ってはなかった。
気に入って、大切にしていたら、多分失くしてない。
結局、気持ちは、モノであっても、伝わる。
気に入ってなかったから、どこかへ行ってしまった。
「 損した 」と思ったけど、私の損は、誰かの得だ。私が損した分、誰かが得している。私があんまり気に入ってなかったものを、とても気に入って使ってくれているかもしれない。それなら、モノとしても、喜ばしいかもしれない。私だけを見ると損している。だけど、全体から見れば、誰も損していない。
それは、奪い合う資本主義の世界では、戯言 ( たわごと ) かもしれない。その思考は、頭ではわかっていて、腹落ちしていない。まだ、身に付いてはいない。でも、少しは、見える世界が拡張した。新しい視点を手に入れた。ちょっとだけ豊かになった。
でも、やっぱり、損した。
人の生き方は、すぐには、変わらない。
私たちは、そんなに単純な生き物ではない。
私は、いきなり、あんまり上手くできないあたりが、私らしい。
コメント