バンクシーとの出会い3
2021/2/22
もう、バンクシー展に行く理由とエネルギー充電は完了した。そして、これから、夕食までの時間は、ちょうど暇を持て余していたところである。
旅にとっての予定外は、日常である。旅の『情報』は、ポケットの小さな画面からではなく、人からもたらされるものである。
世界一周で、イギリス、フランス、アメリカなど、美術館に恵まれた国に行きながらも、一度も足を運ぶことのなかった美術館
そこに美術館があるから行くのではなく、興味がある作品が展示してあるから行くのだ。
展示されている作品に、バンクシーの世界観に引き込まれていく。美術館を見た後の小気味いい感覚は、これまで美術館で経験したことのない爽快感である。
バンクシーの作品は、パンクでロックでファンキーな世界である。これは、若者ウケするだろう。
ロッカーが、ロックで世間の常識を揶揄した。ラッパーが、ラップで人種差別社会をディスった。レゲエミュージシャンが、レゲエで世界平和を願った。
なるほど、意思表示する手段が、歌から、絵になったんだ。
言葉が本になって人に流通して、言葉が歌になって人に流通し、言葉が絵になって人に流通した。そこにあるのは、書物やCDや美術品といった物質にあるのではなく、クリエイターの思想である。
バンクシーは、警察、ディズニー、マクドナルド、アメリカ、戦争、消費社会、消費社会に惑わされている人間をディスった。
それが、絵だけでなく、言葉もあるから、わかりやすい。そうなのだ、バンクシーの作品は、わかりやすいのだ。
歴史とか絵画の技術とか知らなくても、その作品を見て感じることができる。美術品は、その時代の歴史や思想や宗教を知らないと正しく味わうことはできない。
これまでの美術品に、言葉が付随した作品があっただろうか?
日常の一部を切り取って、言葉という辞書を用いて、新しい世界を切り開いた美術界のイノベーターが、バンクシーである。
この新しい価値観に、パラダイムシフトを許容する若者が、熱狂するのも、頷ける。
バンクシー展は、全作品写真撮影OKとのこと。それはつまり、SNS投稿も許されていると考えていい。まさに、現代を生きるクリエイターである。そういった旧体質然とした世界からの逸脱も、新しい価値観の提供である。
美術館における作品の写真撮影が許可されているのは、彼の本当の作品が、額縁という日常ではなく、街中にある日常に、落書きかのように、表現されていることに、尽きる。
100年後にはきっと残っていない作品である。意図的に時代を超えないようにしている感がある。時代は変わる、そして、現代の変容のスピードは異常である。彼の現代社会を斬る思想も、時代が変われば廃れていくかもしれない。だから、あえて、本当の作品は、額縁という世界ではなく、日常の壊れゆく世界に於いた。もちろん、美術品として、額縁の作品も作っているが、それは、壊れゆく日常の作品のオマージュのように思えてならない。
バンクシーの作品自体に価値はなく、バンクシーというクリエイターが生み出す思想に価値がある。それが火種となって、ニュースになり、世論が湧き、論争が起こることが、作品の価値である。
新しいことを知ること。新しい価値観をインストールすること。こんな予定外があるから、旅がやめられないんだろうが!旅、最高じゃねーか!バンクシー最強!
人工物で、ここまで、琴線を揺さぶれたのは、スリープノーモア@ニューヨーク以来だ。
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