【本要約】現代の社会と宗教
2022/5/25
完全自殺マニュアル
鶴見済は、何で『 完全自殺マニュアル 』という本を書いたのか?
「 まえがき 」で彼は「 平坦な人生への絶望というのが現代の大きな問題である 」と言っている。しかし、彼は、「 じゃ、死んでしまおう 」と言っているのではない。
いつでもこの私の「 生 」をリセットできる、「 死 」というものを自分の手に入れた瞬間に、ようやく「 生 」の実感というものを手にできる。
そんな「 薄い薄い生の時代 」というのがやってきたんじゃないのか?
そのためには、「 いつでも死ねる 」という死をポケットの中に入れなければ、私たちは「 生 」というもののリアリティを獲得することができないのではないのか?という問いかけが『 完全自殺マニュアル 』である。
戦争論
小林よしのり『 戦争論 』は「 平和である 」という言葉から始まる。
そこには「 生きている 」ことの意味や実感があったんだ。
今の人々には、死ぬことに生きがいを感ずるなんていうことは絶対にわかるまい。
それどころか、君たちは生きることにすら生きがいを感じられないんじゃないのか?
この国を思って死をかける者に、国は物語を用意した。
アジア解放大東亜共栄圏の物語を信じて戦った兵士たちも確実にいたのである。彼らは英雄であり、神になる。
ゴーマンかましてよかですか。
戦後のあらゆる物語を相対化させ、少女は売春、少年は殺人が流行の国になった。
本当にこの国には物語が要らぬのか?
今の時代、私たちには生のリアリティ、生きている実感がない。それに対して、あの戦争の時代は、死が突きつけられていたから、生きている意味という物語をみんなが獲得することができた。
この生の浮遊、生のリアリティの欠如、そういうものに対して自殺とは違う物語を与えようとしたのが『 戦争論 』である。
国民性
1995年を境にして、日本は極めて宗教的な問いに直面した。
「 生きている 」という実感がわかない。どういうふうに生を支えたらいいのか。
・宗教教団に束縛されることない、スピリチュアルという個人的な宗教意識が芽生えた。
・非宗教的なカルチャーが、宗教の代替物になった。
「 自由 」と「 支え 」というのは、コインの裏表である。
- 新自由主義の中で言われる「 自由 」は「 社会的な支えがないところでの自由 」である。
- 「 人の支え 」を外して、経済的な利得の追求だけは「 自由 」にやりましょう。
「 お天道様が見ているから 」といった大きな支えの世界がなくなり、目に見える人間関係だけが生きる生きる世界になってしまった。
私たち、日本人の自己肯定感というのは、とても低い。 「 なんでそれでも暮らせているのか 」というと「 私たちの属している集団がそこそこうまくいっている 」という安心感が、かつてはあったからだ。「 個人的にどうなのか 」ということは、ほとんど問われなくて、集団に属していると安心する。
丸山眞男の『 日本の思想 』の中に『「 である 」ことと「 する 」こと 』という有名な章がある。日本人の場合は「 する 」ことよりも「 である 」ことのほうが決定的に重要である。 東工大で何を「 する 」かよりも、東工大に入った、東工大生「 である 」ことという集団の帰属のほうが重要だ。 士農工商のどのランクにいるか、所属している集団がとにかく重要である。
そうなってくると「 その中で個人的にはどうなのか?」という疑問が生じる。
- 個は、徹底的に交換可能になる。
- 「 こんな私じゃなくたっていいじゃん 」となる。
常に、日本社会というのは、個の次元が出てきても、それを集団の中にからめ取る。そして、いつのまにか同調圧力や社会的慣習といった集団性の中に埋没させる。その中で、いかにもう一度「 個の救いというものを取り戻していくのか 」ということが重要になる。
日本では「 あの集団に属していれば自分は救われるんだ 」という発想が、しみついていて、それはナショナリズムにつながる。「 とにかく、大きな集団の中に属していれば安心 」という、私たちが常に落ち込んでしまうところに牽引していくのは、非常に容易なことです。
しかし「 東日本大震災では遺体があがらなくて、お葬式すらできない 」ということがどれだけ人の心を痛めつけたか。
遺体を見つけてほしい
そして、お葬式をあげたい
死者への弔いをしたい
そのことがどれだけ救いになるか?「 非業の死に対しては、いいお葬式、本当にいい弔いが、私たち日本人には必要なんだ 」ということをあらためて突きつけた。
そして「 ご遺体は尊いものだ 」という伝統的な観念がまだこれだけ生きているんだと痛感させられた。
苦悩の中で、個人個人が真に求めるもの、そして日本社会の基底をなすものが再び見えてきた。
戦場や宗教
「 生きづらい 」という者たちは、戦場に行けばアドレナリンがどっと出て、それで自分が「 生きている 」という実感をする。
私 ( 池上彰 ) も紛争地帯に行くとアドレナリン中毒になって「 ああ、これが一番危険なんだな 」と感じる。ある意味、紛争に憧れる。
私 ( 池上彰 ) は、これまでダライ・ラマ14世とは5回会って話を聞いている。チベットや、ダライ・ラマが亡命しているダラムサラに行ったときに、チベット仏教の信者たちの心の平静ぶりを感じた。
「 輪廻転生があるんだ、自分の命は永遠なんだ 」という思いがあると「 今はかりそめの人生でこの後があるんだ 」ということになると、簡単なことでは絶望しない。「 輪廻転生や永遠の命というのがある 」という思いがあれば、心の平安が得られる。
例えば、キリスト教も同様、宗教というのは、信仰で、心の平安をもたらす。
ボランティアは、現代社会が抱える生きづらさが動機となっている。自分の生活や人生を誰かのために投げ出すことで、生きがいを感じる。ある意味これも、宗教のひとつである。
ボランティアという金銭を介在しない社会参加システムに生きがいを求めている。
「 日常の壁をぶち抜いて、俺はこうやって生きてるんだ 」あるいは「 この一瞬のために僕は生きていたんだ 」というような、平凡な日常の意味を超えるような、「 光が天から差してくる瞬間を得たい 」という渇望を常にもっているわけです。
ニーチェ
人間悪い種を蒔くと、どこかで悪いことがある。しかし、良き種を蒔いていれば、必ずどこかで良きことが起きる。
その良き種は必ずや、いつか、どこかで芽をふいて花を咲かせる。だから、そのことを確信して、絶望のど真ん中にあっても、良き種を日々蒔いていく。その幸せに対しては、100%笑顔になれる。人に慈悲をかけることで、自分の心の安定が得られる。
人間、この劇的なるもの
福田恆存は『 人間、この劇的なるもの 』で、演劇論の中から、人間を構成している論理を説く。
人間は演劇的な動物である。人間はどういうときに自分の意味を獲得するのか。それは何からも自由になった瞬間ではない。そうではなくて「 拘束されている 」ということである。
自分がいなければ、この場が回らない。自分がいなければ停滞する。私がいるから、この家族は安定している。
何らかの、そういう私というものを、ある種の「 役割 」によって認識する。そして人間は、その役割を演じて生きている。 役割を演じ切れたときに、その役割を味わう自己というのがいる。
父親としてあるいは母親として子どもに果たすべき役割を果たしたら、この役割を自分でうまく演じたなあと思った瞬間、それを味わう自己というものがある。人間というのは、永遠にそうやって自分というものを獲得していく演劇的な動物である。
ボランティアの論理も同じだ。つまり、私が、そこにいる意味、ここにいる意味というものを失ってしまったら、生の流動化が起こる。 意味というものを失ってしまった人たちがボランティアに行くと、他者のためになる、何かのためになる。
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