福沢諭吉から渋沢栄一への変化が描く日本の未来

社会

「 日本教の社会学 」からの思考

2022/3/15

正義のない社会

【本要約】日本教の社会学 ( 山本七平 )
日本人は「 安全と水は、タダである 」と思っているように「 自由と平和も、タダである 」と考えている。宗教とは、行動様式 ( エトス ) なので、日本人には、日本独特の行動様式がある、日本教がある。
【 引用 】
カルヴァンの予定調和説で決定的に重要なことは、神という絶対的な座標軸が社会から完全に分離されている。社会が相対化されている。だからこそ、絶対的原点に立てば、社会は何とでも自由に動かし得ることになる。この考え方があって初めて、伝統主義社会を変革して近代資本主義社会を作ることが可能になる。
神が絶対ということは、人間の関係が全部相対化することだ。
日本の場合は、それがないから、人間の関係が、絶対的なのか相対的なのかわからなくなる。
  • 一神教の人々、キリスト教やイスラム教といった世界中の半分以上の人々には、座標軸があって、神という座標系の原点がある。
  • 私たち日本人には、絶対的に信じている何か、座標軸の原点が存在しない。
    しかも、私たちには、聖書のような座標軸も存在しない。
私たち日本人は、軸も座標もない、空気のような世界の住人である。

正義の定義は、存在しない、世間で醸成される空気によって定められる。しかも、正義の定義は、空気上に存在するから、ゆらゆらと動いて、定まることはない。せめて、中心となる座標軸の原点が固定されていれば、まだ、対処のしようがある。

しかし、風に舞うティッシュのように、ゆらゆらと定まることがない。風に舞うティッシュの上に定義された正義なんて意味がない。ゆらゆら揺れるティッシュの上に正義という文字は書けない。私たちは、何が正義かもわからない社会で生きている。

学校教育

そんな私たちを形作るのは、学校である。

学校で、小学校から大学まで16年間、正義を叩き込まれる。
学歴社会に勝利し、有名で大きな会社に入ることで、裕福で安定した暮らしができる、それが正義だと。

時代は転換期を迎えている。

「 学問のススメ 」の福沢諭吉から、資本主義の父である渋沢栄一に変化する。
日本の最高額紙幣、いわば、日本の顔が、変化する。

識字率が今みたいに100%ではない中で、当時約3000万人の日本で約300万部のベストセラーが「 学問のすすめ 」である。現在の日本に換算すると1200万部売れた本である。

スマホやテレビはおろか、雑誌、新聞といったメディアが普及していない最中なので「 学問のすすめ 」の影響は計り知れない。

そうやって、私たちの日本人のDNAの奥底に、福沢諭吉の思想が、学歴信仰が、刻み込まれた。

私たちは、親に育てられるので、一番の影響を受けるのは親である。親もまた、その親から、私たちから見た祖父母に影響を受けている。その親のまた親の親も、ずっと、ずっと上の祖先の影響を受けているのだ。

私たちが、当時の日本社会を包み込んだ「 学問のすすめ 」の学歴信仰の影響を受けていないわけがないのだ。だから、ずっと、日本の顔、一万円札は福沢諭吉だったのだ。それが、渋沢栄一に変わる。それは、これまでの日本の絶対的信仰であった、学歴社会の崩壊の兆しである。

渋沢栄一は資本主義、金儲け主義であるから、日本は、学歴社会から、本当の資本主義社会への転換しようとしている。

学歴などなくても、金を稼ぐ能力が高い人が尊敬され、評価される社会である。

もはや、学歴は意味がなく、若くして、金を稼げない人が、学校へ行く時代の到来である。小学生でも、中学生でも、金を稼げる人が、素晴らしいとされる。学校へ行かなくても、金を稼ぐことができれば、生活できるのが、現代社会である。学校へ行かなくとも生きていけるが、金を稼げなければ生きていけない。

これまでは、えせ資本主義であり、資本主義風であり、資本主義的な社会だった。これからは、完全実力主義である、実力とは金を稼げる力である。どうやって、金を稼げるかを考えることができるかである。

これからの未来は、人工知能が、どんどんと、人間の仕事を奪って行くのだ。単純作業からはじまり、だんだんと複雑な事まで。

人工知能が、人間の学力を超える日も遠くない、そうすれば、学歴などに何の意味があろうか?

計算機が発明されるまでは、そろばんができる人が重宝された。計算機どころか、エクセルでの自動計算が前提の時代に、そろばんや計算機が使えることに意味がない。

人工知能の進歩は、学歴を無効にする。ただ、人工知能にはない、発想力を活かして、どうやって、金を稼いで生きていくかである。

時代はすぐに変わらない、そこにはキャズムが存在するからだ。しかし、時代の転換は、目の前に迫ってきている。人工知能にできない、クリエイティブを発揮して世界を作っていく。

教育とは?

無用な学歴は不必要であるが、教育全般が不要なわけではない。確かに知識は陳腐化した、調べればわかる知識には価値がない、そこで必要なのは、思考する力である。問題を解く思考力は人工知能にかなわない。

問題を変化させる力であり、問題を見つけ出す力だある。
「イラつく、かわいいね」と「イラつかない、かわいいね」
私たちは、わかりあうことができないことを前提として、わかりあえない人たちと、わかりあえない関係の中で、わかりあえないまま生きていくことを強制された社会にいる。

想像して、創造する力である。

【本要約】史上最強の哲学入門
科学という学問とは「 その経験上の思い込みを絶対化している 」だけに過ぎない。人類が滅んでしまったら、私たちが世界と呼んでいるこの世界は、存在しなくなる。世界は、存在しない。
【 引用 】
自由とは、何が正しいのかわからないのに「 好きにしろ 」と放り出されてしまった不安定な状態のことである。
① 人生において「 何をすべきか 」という重大な問題について「 あなたは、これをしなさい 」という正しい価値観を、神様も国家も学校も誰も教えてくれないのだ。
② だから、私たちは自分で決めなくてはならない。
③ 失敗や間違えに怯えながらも、不安の中で、正しいかどうかもわからない何かを決断して生きていかなくてはならない。
④ そして、その決断は、自由である。
教育とは、自ら思考して、未来を見通す力を得るために存在する。
  • 国語は、文章を読む力、本を読む力、すべては文章を理解できないと、知ることはできないし、考えることもできない。
  • 算数は、公式から解を導くことで、論理的思考力を鍛える、合理的な道筋で考えゴールまで辿り着く。
  • 理科は、算数をある条件に従って、一般化したものである、現実の世界での算数を利用する。
  • 社会は、歴史や現在の在りようを知ることで、人類の歩みや歴史が繰り返す普遍性や法則を導く。

国語・算数・理科・社会の力を、組み合わせて使うことで、未来を見通すことができるようになる。
自分の未来、不明瞭な道に、光を与えてくれる存在が、学校教育で得た基本的な思考技術である。

私たちは「 学校で学んでいることが、実社会にて全然役に立たない 」と気づいている。
もちろん、直接的に役に立つことはほとんどない。

  • 古文なんて誰かが現代語に訳してくれている。
  • サインコサインどころか複素数とか現実社会で、扱うことはない。
  • 理科、すいへいリーベから E = mc² なんて、現実世界で有用に活躍していても、触れることはない。
  • 人類は、殺し合い ( 戦争 ) によって進歩してきたことを知っても、もう戦争は起こらない。

表面だけをなぞっていたら、本質にたどり着けない。

  • 古文は、言葉は変わりゆく生き物であることを知り、言葉という生き物の扱いの難しさを経験する。
  • 複素数によって、論理的思考は、現実を超え、人間は論理だけで現実空間ではない異空間を造成する想像力があることを経験する。
  • 理科の実験によって、実験はうまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。
    そして、現実の事象と算数がつながることを経験する。
  • 歴史によって、いつの時代も戦争の原因は、権力・名声・富といった人間のエゴを経験する。
歴史は変わる、あの写真の聖徳太子は存在しないし、鎌倉幕府は1192年ではない。

教育とは、こういった経験を通して得た思考技術、考えるための技である。

私たちが生きている現代社会は、私たちが学校で学んで来た、国語・算数・理科・社会のように一様ではない。だから、役に立たないと思ってしまう。私たちが学んで来たのは、思考技術なのだから、役に立つわけがないのだ。

私たちは、思考技術を応用して、社会に適用していくのだ。
そのための基本を学ぶために学校教育はある。
① これまでは、知識に価値があったから、学歴社会でもよかった。
② 今は知識には価値がなく、知識の応用であり、思考であり、思考技術に価値がある。
③ 思考技術を用いて、いかに、金を稼ぐかである。
思考技術を、金に変換できるかどうかである。

本能として、遺伝として、思考技術の金銭変換能力があれば、学校に行かなくてもいい。
大多数の人々は、そんな特異な才能がないから、学校へ行って、思考技術を学ばなければならない。

思考技術

例えば「 あなたはロボットではないことを証明しなさい 」という問いである。

「 そんな当たり前のことを、、、」ではない。
当たり前だからこそ、自分が普段考えないことにこそ、真理がある。

こういった「 無理難題とも思える問いにどうアプローチしていくか 」ということが、思考技術である。

国語と算数と理科と社会、自分が教育で得た知識を使って対処するのか?

きっと、自分の得意分野から考えていくだろう。自然と手を伸ばすのは自分の得意分野なのだ。

ちなみにこの問題は世界一の大学のオックスフォードの入試試験の問題である。

あなたはロボットではないことを証明しなさい

【 湯浅的思考技術 】

お絵かきからスタートする。( 算数 )

「 ロボットでない 」の反対を考えると「 ロボットである 」
ロボットであることを否定すること = ロボットでないことの証明 ( 社会、哲学 )

ロボットの定義って何だろう? ( 国語 )
ロボットは、機械は、いつも正確で論理的に動く ( 理科 )
→ 人は、いつも正確で論理的に動けないことを証明すればいい。

ロボットは、いつも正確で論理的に動く。
人は、いつも正しく動けるわけではない、朝寝坊はする、遅刻する。
そして、人は、論理的ではない、遅刻したら、自己保身のために嘘をつく。( 国語?社会? )

そんな感情のままに行動するロボットを作るのは、現在の技術では困難を極める ( 理科 )。

だから、私は、ロボットではない。

【 湯浅的回答完 】

この問題に正しい回答などない。

  • そもそも「 すべての問いに正しい回答がある 」と考えてしまうことが、学校教育に囚われている。
  • そもそも、面接官は、答えではなく、思考回路を、思考経路を、思考技術を問うているのだ。

日本式受験形式マークシートの中に、思考技術は存在しない。問いとその回答だ、そんな知識に価値があろうはずもない。そんな知識は、ロボット = 人工知能がとっくに上回っている。そろばんで計算機に勝負しても仕方がない。

学校 ≠ 社会

私たちが生活している社会には、正しい答えがあって、それに向かってみんなが進んでいるわけではないのは、わかっているはずだ。

社会は学校じゃない。

問題と正しい答えがあるわけじゃない。
問題に対する答えもそれぞれだし、正しい答えもそれぞれだ。

そもそも、問題すら、自分で見つけなければならない。

例えば、どんな仕事するか?
何をしたら、私は、幸福になれるのか?

人類に共通の幸福など定義されないのは、答えどころか、問題すらそれぞれなのだ。そもそも「 幸福になれるのか 」という問題を提起しない人もいる。そもそも問題すら考えていない、何となく生きている人がいるんだ。でも、それぞれに、みんな正しい。みんながそれぞれの正解の中で生きている。

ただ、生きるためには、金がいる、だから、金を稼ぐ必要がある。
思考技術が優れているほど、それが、マスであれ、ニッチであれ、金に変換できる。

教科書の本質

私の生き方は、教科書に載ってない。

だから「 学校で習ってないよ 」ってみんな思っている。

「 大人になったら、仕事をして、結婚して、子どもを為して、家を買いなさい 」と教科書に書いてある。

学校で習ったから、みんな「 それが正しい 」と思って、その通りに生きる。
決まったレールの上を走る。
先駆者もいるし、その方が安全だ、安心して生活できる。

教科書とは、何のためにあるのか?

大多数の人々が、安全で安心して、暮らせる社会を育むためにある。
それはそうだ、小学校から大学までの16年間、教科書を勉強して、社会人になるのだ。
そのための教科書は、社会に対して最適化されていなければならない。

大多数の人々に最適化されている学校の教科書が、全員に適しているわけではない。

ひとつだけわかっている絶対的な事実がある。

  • 教科書通りに生きる人は、お金持ちにはならない。
  • 教科書には、お金のことは書いてない。
    学校でお金のことは習わない。
  • 教科書通りに生きる人は、成功者になれない。
  • 教科書には、成功法則は書いてない。
    教科書には、安心安全な生活のためのルールブックだ。
  • 教科書通りに生きる人は、教科書に載らない。
    教科書に載らない生き方をした人が、教科書に載っている。
大多数の人々は、教科書に載る生き方の難しさを知ることで、逆説的に教科書通りに生きるのだ、反教科書的に生きるのだ。

それがつまり、教科書通りに生きることになる。偉人を知ることで凡人として生きる術を学ぶ。

新しい教科書

私はこれまで、教科書通りに生きてきて、教科書通りのレールに乗っていた。そのことに疑問を持っていなかった。しかし、教科書通りに生きていても、自由を得られないことがわかった。サラリーマンは「 小金持ちにはなれても、本当のお金持ちにはなれない 」という事実に気づいてしまった。

気付いたからには、自由への道を探すしかない。自由への道を歩むしかない。
気付かなければ、不自由の中で生きられたかもしれない。
でも、気付いてしまったのだ、人生の未来に自由がないことに。

もう、後戻りできない、知らなかった頃には、戻れない。

リセットだ。

これまでの自分の人生をすべてリセットだ。

・何がおかしいのか?
・何が間違っていたのか?
・どうすればよかったのか?

過去を疑い、過去の問題点を整理し、モノゴトの本質を捉える視点を磨く。
それは、社会を疑い、学校を疑い、親を疑い、自分を疑うことである。

自己否定、自分の人生の否定から、すべてを見直すのだ。

そうやってはじめて、未来が見通せる。

・これからどうすればいいのか?
・どうすれば自由が手に入るのか?

真似だ。自由を手にした人 = 自由人の真似をすればいい。だが、表面だけをなぞっていても意味がない。それは「 学校の勉強は社会で役に立たない 」と言っているのと同じだ。

自由人の手法を真似するのではない、自由人の思考を真似するのだ。

自由人の思考技術を学ぶのだ。それは、どこにある?

身の回りには自由人はいない。現実世界には自由人がいない。

では、どうすればいいのか?

そう、私は、学校で習った。
「 教科書 」で学べと。

そうだ、本を読む。
自由人の本を読むことで、思考技術を学ぶのだ。
自由人が「 いかにして自由を獲得したのか 」という思考回路を組み込むのだ。

自分の思考技術を捨てる覚悟を持って、私の頭の中の知性を入れ替える。「 自分のこれまでの生き方、考え方、そのすべてを捨てよう 」と決意する。私は、自由人になりたい。そのためには、自分を捨てなければならない。だとしたら、すべてを置いていこう、自由人を目指そう。

自分という人間のOSのアンインストールから始めるのだ。それは、とてつもなく、手間がかかる作業である。なんせ、アンインストールしながら、インストールするのだから、OSが異なるのだから、不具合が起こる。矛盾が起こって、フリーズすることを繰り返しながら、新しいOSをインストールしていく。

私の未来は、私にしか作ることはできない。
そして、私の未来は、私の思考がつくる。
私の思考は、私次第である。
私が、何を求め、何を学び、どう考えるのか?

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