「 心に成功の炎を 」からの思考
2022/5/19
私が瞑想しているとき腸が動き、屁が出る。瞑想中は、頭で考えていないので、腸が考えているのかもしれない。
腸が考えた結果、腸が動いて屁が出る。
酒を飲んだり食べすぎたり内臓に負担をかけたときは、体は睡眠を欲する。よく眠る。頭もよく働かない。それは腸がダメージを受けていて、私の本質が疲れているのかもしれない。
そもそも脳はパソコンのCPUやメモリの役割を果たしていて、計算をするところだ。
パソコンはツールなので、私の本質じゃない。
- 私はパソコンを使う人だ。
パソコンというハードウェアが私の肉体である。
パソコンが電気で動くように、私は食料で動く。
ソフトウェアが私かというと私じゃない。
ソフトウェアはハードウェアを使って処理を命令する機能なので、肉体を使う心になる。
- 心も私の本質ではない。
パソコンはツールなので私の本質じゃない。パソコンを使う人が私なのだ。
- 「 私は捉えることができない 」とブッダが言っている。
パソコンは物質なので見ることができるけど、パソコンを使っている私は見ることができない、捉えることができない。私は捉えられないだけで、存在している。私は腸という物質の中に存在しているわけではなく、腸のあたりにある。私の本質は腸のあたりにある気のようなものかもしれない。
科学は真理に辿り着けない。科学は仮説でしかないからだ。天動説から地動説のような大転換もあったのだ。
科学は便利だけど、万能じゃない。科学は世界の一部しか捉えられていない。意識や理解の仕組みは謎のままだ。
科学がすべてじゃない。私たちは小さな頃から学校教育で科学を学んできたから、科学が絶対的なものだと思い込まされているだけだ。学校教育による洗脳である。それは科学を信仰した方が、社会の歯車となる人間を量産できるからだ。資本主義には科学が相性がいい。
キリスト教を信仰した方が社会がまわる時代もあったし、日本でも将軍を信仰した時代や天皇を信仰したも時代もあった。その当時は科学は絶対的存在でなかった。
- 科学は確かに便利だ。だけど、科学がすべてじゃない。
- 科学は便利なので、科学以外の思考も便利ならばそれでいい。
キリスト教を信仰して幸福になれるのなら、キリスト教も便利なツールだ。
パソコンが仕事のツールの人もいれば、鍋や包丁が仕事のツールの人もいれば、車が仕事の人もいる。どんなツールを使って便利にするかでしかない。

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