私のスタートライン
2022/3/31
人生
あっという間に過ぎてしまう。
人はこの世界に生まれ落ちた瞬間に、死というゴールを設定される。私たちはそのことを知りながらも、死を意識して、毎日を過ごすことはない。怖いからだ。日常生活の中で、常に死を自覚しながら、生きてはいけない。
ただ、なんとなく、敷かれたレールの上を走る。いい大学、いい会社、結婚、子ども、家、、、そういう、何かの指針がなければ、生きてはいけない人が、ほとんどだ。ほとんどの人は、自由を欲していない。
自由の刑

自由とは、何が正しいのかわからないのに「 好きにしろ 」と放り出されてしまった不安定な状態のことである。
人生において「 何をすべきか 」という重大な問題について「 あなたは、これをしなさい 」という正しい価値観を、神様も国家も学校も誰も教えてくれないのだ。だから、私たちは自分で決めなくてはならない。失敗や間違えに怯えながらも、不安の中で、正しいかどうかもわからない何かを決断して生きていかなくてはならない。そして、その決断は、自由である。
これから先の10年後、20年後に、過去の決断を後悔しているかもしれない。
でも、それについて、誰にも文句は言えない。なぜなら、自分で選んできたことだからだ。自分の選択で失敗しようが後悔しようが、その選択の全責任を負わされる。
人間は自由の刑に処せられている。
私の自由
「 人間の自由は、刑である 」とした。
私は「 自分の人生に選択の全責任を負うということが、人生の醍醐味である 」と捉えている。
全部自分のせいだから、全部自分の好きなようにできる。自分の好きなようにして、他人のせいになるならば、それは、自由ではない。他人の自由を侵害しない限りにおいては、全部自由にしていい。全部好きにできるから、全部自分のせいだ。間違えても、失敗しても、うまくいっても、成功しても、すべて自分のせいだ。自分のせいだから、自分の好きにできる。
誰かに決められた人生なんて、クソ喰らえだ。
誰かに決められた人生で、不都合が起きたら、誰のせいにすればいいのか?
誰かって誰だ?
だから、自分で決める。自分の意志で決めるのだ。
しかし、自由意志は、幻想である。

人間は「 自分の行動や判断を自由に決定している 」と思っているが、社会や文化の影響を受けて、支配されているので「 自由に決定している 」わけではない。
- 私たちは、ひとりで大きくなったわけではない。
誰かの力を借りて、親に育てられて成長した。
学校へ行って、仕事をして、これまでの人生を歩んできた。 - その間に、様々な人たちから、テレビから、マンガから、本から、影響を受けている。
誰からも何の影響も受けずに、大きくなることはできない。 - その影響によって、私たちは、コントロールされているわけだから、本当の意味での自由意志は、そもそも存在しない。

それでも、私は自由を欲する。それが、誰かに刷り込まれた自由であっても構わない。本当の自由でなくとも構わない。私は、私の自由を得たい。私の自由を得るためには、私の自由の定義が必要である。
・肉体的自由 ( 健康 )
・人間的自由 ( 家族・友人、すべての人間関係からの解放 )
・生活的自由 ( 好きなときに、好きな場所で、好きなこと )

そして、「 私がなぜ、自由を欲するのだろうか 」ということについても思考を深めなければならない。
「 私は、何を不自由に感じていて、なぜ自由を求めるのか?」
自由を渇望する理由まで、掘り下げることで、はじめてスタートラインに立てるはずだ。
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