私の真理
2022/3/25
私の感覚
・他者にできて自分にできないことは「 自分の努力が足りない 」と思っていた。
だから、私にできて他者ができないことの問題は「 他者の努力が足りないのだ 」と理解していた。
でも、実は「 努力できるということも、遺伝だ 」と知った。
確かに、身長が高低や、体型が痩せ型か太り型かは、遺伝の影響が大きい。
そして、学力も遺伝の影響が大きい。
「 努力できるという能力 」も、遺伝の影響じゃないはずがないのだ。


- 私は、他者と自分が違うことを知っている。
- 私は、自分が変わっていることを知っている。
- 私は、他者から「 私が変わっている 」と認識されていることを知っている。
私の世界はずっと歪んでいたのだけど、私は世界が歪んでいることにすら気付かなかった。
- 私は「 自分が他者から変わっている 」と認識されていることを知ってはいたが、理解できていなかった。
- 私は「 自分ができることは他者にもできるはず 」と考えていること自体が、他者との違いであった。
他者と自己を同一視していたのだ。
「 やればできる 」
自己と他者は違うのだ。
「 やってもできない 」
「 そもそもやれない 」
そういう人がいるんだって、知ってはいたけど、理解できていなかった。
努力とかじゃなくて、そういう問題じゃなくて、例えば、生物的に、人間が空を飛べないように。
「 できない 」
「 私にはできることでも、他者にはできない 」
反転させると、私は「 他者にできて自分にできないことはない 」と無意識で自覚しているのだ。
私は、プロ野球選手になれない。
それは、時期を逸したからに過ぎない。
小さな頃からプロ野球選手になりたかったなら、なれた。
何の疑いもなくそう考えることができる。
同じ人間は「 やればできる 」が、私の感覚なのだから。
その私の感覚自体が、他者との違いであることを、自覚するには難易だった。
長嶋監督
野球の長島監督である。
知っていることを知らないから、他人に打ち方を教えられない。
「 ボールがきたら ” バーン ” と打つんですよ 」という表現になる。
ボールの打ち方を知っているんだけど、知っていることを知らないから説明できないのだ。
努力なんかじゃ辿り着けない世界である。
長島監督の場合は、きっと、体が知っている、体が覚えている感覚なのだろう。頭で知っているのでないのだろう。
世界一周
「 お金と時間があったら、誰でも世界一周できる。問題はお金と時間だけなのだ。」と私は考えるのだ。
違うのだ。
「 お金と時間があって、世界一周したい 」と思いながらも、できない人間が存在するのだ。
「 世界一周したい 」のにできないって、どういうことなのか理解できないのだ、私は。
私の思考の枠組みの外にあったので、全然、理解できなかった。
今でも、半信半疑である。
だって、お金と時間があったら、私は、永遠に、世界一周し続けるのだ。
世界のどこかで、野たれ死ぬまで、世界を体験し尽くすのだ。
だって、世界があるんだったら、見たいじゃないか。
そもそも、世界一周なんてしたいと思わない人がいることは、理解できる。
ピラミッドやモアイやサクラダファミリアやマチュピチュを見ずに死ねる人がいることは、理解できる。
そもそも、やりたいと思わない人はいる。
ディズニー
私は「 ディズニーに行きたい 」と思わないから、そんな人もいる。
ディズニーに行きたくないことを理解できない人もいるかもしれない。
「 ディズニーに行きたい 」と思いながら、行けない人がいるんだ。
これが、私が辿り着いた真理である。
『 世界一周 』を『 ディズニー 』に変えただけである。
『 世界一周 』と『 ディズニー 』
私にとっては、世界一周の方が近い。
多分、他者にとっては、ディズニーの方が近いのだろうことは、知っている。
世界一周とディズニーと、どっちも遠い人もいる。
行きたいと思う人と行きたいと思わない人がいる。
- 行きたいと思って行ける人
- 行きたいと思って行けない人 ← NEW
- 行きたいと思わなくて行ける人 ← 誰かに誘われた人
- 行きたいと思わなくて行けない人 ← 知らない人
コメント