私の世界

湯浅

私の世界

2022/4/20

私たちは生まれたとき、
泣いた。

  • この世界に産み落とされ、これから待ち受ける運命に、喜びにあふれて泣いたのだろうか?
  • この世界に産み落とされ、苦が起こる宿命に、悲しみにすさんで泣いたのだろうか?

私は、
未来に期待して生まれたのか、
未来に悲観して生まれたのか、
覚えていない。

でも、確かに、泣いたのだ。

私たちが、この世界に誕生して、最初の行為が、泣くことだった。

誰にも何にも習ってない私たちは、まず泣いた。
自然と泣いた。

私たちは生まれたとき、
何も持っていなかった。
言葉も持ってなかった。

だから、
私たちは、快のとき、笑った。
私たちは、不快のとき、泣いた。

不快のとき泣くのだから、私たちは生まれたとき、不快だったのか?

人生のはじまりが「 泣く 」という行為しか、持っていなかったに過ぎない。
初期設定が「 泣く 」となっているだけだ。

だから、そこから、快・不快を判断してしまうのは、危うい。

私が、泣いたときの感情は、わからない。

私たちは、泣いて、笑って、そして、少しずつ、様々な感情を獲得していった。

その感情の集積に今がある。

私たちは生まれたとき、
何も持っていなかった。
今は、感情だけでなく、
何かいろいろ持っている。

言葉や知識や物、カネ、人間関係、社会的地位、そのすべてを司っている私が存在する。
いろんなものを抱え過ぎたせいで、何だかもう、頭がこんがらがってしまっている。
私たちは、失うとき、得るときの何倍もの苦しみを味わう。
だから、私たちは、失うことを極端に恐れてしまう。
それが大切なものであれば、あるほどに、命とか。

私たちは生まれたとき、
何も持っていなかった。
そして死ぬときも、
何も持たずにこの世界からいなくなる。

「 命は大切だ 」ということすら、私たちが生まれて得た価値観に過ぎない。

私たちは生まれたとき、
何も持っていなかった。
「 生きている 」ということすら、わからなかったし、意識すら、在ったかどうか、わからない。

私たちは、無だった。
私たちは、生まれる前は、無だった。

私が、生まれたとき、世界が形作られた。
世界は、最初からあったのではない。
私が生まれることで、世界も、また、誕生したのだ。

私は、生まれる前の無のときに、世界を認識することはできない。だから、私にとっての世界は、存在しなかった。私は生まれることで、世界を認識することができるようになった。私が認識できない世界などは、存在しようはずがない。私が認識できてはじめて世界は存在しうる。世界は、私に認識されるために存在する。

私の認識する世界と、あなたの認識する世界は、一緒であることはありえない。

私の認識する世界も、昨日の私が認識する世界と、今日の私が認識する世界は、異なる。

世界は、個々人ごとに存在する。
そして、時間軸ごとに存在する。
世界は、パラレルワールドである。

そして、私が現在、認識している世界だけが、唯一無二の世界である。
そして、私が世界を認識しえなくなった瞬間に、世界は消滅する。

生とは世界の誕生であり、死とは世界の終焉である。

私たちは、生をコントロールすることはできない。
私たちがコントロールしうるのは、死だけだ。

だからといって、死をコントロールしうる人は少ない。
人は、死を恐れるから、自ら死をコントロールしようとしない。

死は、私たちにとって、究極の最後の未知の世界である。
死んだ人は現世にいないから、わからないままだ。
死ぬまで、死んだらどうなるのかわからない。

人類が辿り着けない唯一の未知、死んだらどうなるのか?

人生最期に用意された未知の答えは、死ぬことでしか知りえない。

その欲望に抗えなかった人が、死をコントロールする。

私は、人生最大の未知を味わうのは、人生最期でいい。

世界が閉じる瞬間という未知まで、私は世界を認識し続ける。

この世界は、私に認識されるため用意された世界なのだから。

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