裸が「恥ずかしい」という価値観

社会

裸が「恥ずかしい」という価値観

2021/10/1

裸の銅像を見て、子どもが言った。
「なんでこの人は、裸なの?」

大人は、なんで銅像が裸なんだろう?」という疑問を持てない。「銅像は、芸術は、裸もある」という価値観を持っているからだ。それは、いろんな芸術に触れた経験によって得た価値観だ。

子どもは、そんな価値観などない、服を着ている自分や周りと比較する。服を着ていない大きめの人形が建っていることに疑問を持つ。だから「なんで裸なのか?」という疑問が生まれる。

そこには、「なんの価値観もないのか?」「大人が芸術に触れた経験から生まれたような価値観はないのか?」

ある。

価値観なくして、疑問は生まれない。

服を着ているのが当たり前、服を着ていないのは「恥ずかしい」という価値観である。だから、裸に疑問を持つ。

この子どもがもっと小さかったとき、赤ちゃんだったとき、「裸が恥ずかしい」という価値観を持っていなかったとき、裸でも平気で動き回っていた。風呂上がりに楽しそうに裸で走り回っていた。

大人が教えた。
服を着ないと「恥ずかしい」という価値観を与えた。

アダムとイブが、禁断の実を食べたことによって、裸であることを「恥ずかしい」と思った。

禁断の実というのは、価値観である。

私たちは、親から、社会から、学校から、禁断の実を与えられ続けて、成長する。そして、出来上がったのが、私たちだ。私たちの価値観だ。

「裸でいることを恥ずかしいと思え」という価値観を植え付けられる。

私たちは、服を着ることに、疑問を持たない。そして、裸で外を歩いたら、社会のルール違反として、警察に捕まる。

ルール違反だから、服を着るのではない。「恥ずかしい」という価値観を持っているから、服を着るのだ。

日本では温泉は裸で入る、みんな裸だから、「恥ずかしい」と思わない。

日本以外のほとんどの国では、温泉は、水着で入る。「温泉だ」と思って裸になったら、まるで、裸で街を出歩いているかのような驚愕した目で、係の人に見られ、「クレイジーだ」と注意される。

私たちが持っている価値観というのは、100%正しいわけではない。温泉は裸という価値観は、世界に出れば、99%間違いである。クレイジーである。

価値観というのは、ただの禁断の実である。
禁断の実は、文化や国や社会によって、種類が違うだけだ。

私たちは日本で生まれ育ち、日本の禁断の実しか食べていないから、周りに同じ禁断の実を食べた人しかいないから、違和感に気付かない。それが、多様な価値観の1つであることに。それが、1番「恥ずかしい」ということに。

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