自分の当たり前とは?
2021/12/24

やりたいことがない世界
やりたいことがない人はイメージできないけど、やりたくない人がいるのは、人生の大発見だった。自分の中のコアには、自分では気付けない。私は、やりたいことがあるから生きている。
私は、親に「他人に迷惑をかけてはいけない」と育てられて大人になった。
その根本は何か?
渋沢栄一著『論語とソロバン』に代表されるような儒教である。
もちろん、故意に他人に迷惑をかけてはいけない。人に暴力を奮ったり、人のモノを盗んだりしてはいけない。でも、例えば、ちょっとしたことを頼むのは、迷惑になるのだろうか?
車椅子の人がいた。そこは、でこぼこ道のある観光地だった。彼女は俺に言った「ちょっと押してくれない?」って、私は、車椅子を押して段差を超えた。彼女は「ありがとう」と言った。
彼女は、私に「迷惑をかけた」なんて思っていない、頼って「助けてもらった」と思っているはずだ。そして、私も「迷惑をかけられた」と思っていない。それどころか、こうして記憶に刻まれ文章にするくらいは印象に残った出来事のひとつである。
彼女は「他人に迷惑をかけてはいけない」と言われて育てられていない。そんな風に育てらていたなら、一人で、観光地に来ない。誰か付き添いの人を連れてくるはずだ。彼女は「困ったら、誰かに頼ればいいし、困ったら、誰かが助けてくれるはずだ」と信じている。だから、どこへでも、一人で行ける。車椅子という制約はあるけれど、日本ほどの不自由さはない。彼女は外国人で、多分キリスト教徒で、観光地とは、オランダだ。
私は、宗教を勉強した。
私は、自分のルーツである根本思想を探した。
私は、自分のルーツである根本思想を探した。
だから、わかる。
自分自身を知るためには、疑うことが必要だ。
疑うということは、自分の中にある固定概念を疑うことであり、固定概念を創った親を疑うことであり、そして自分自身を疑うことである。
そして、自分を疑うためには、自分の中の当たり前に気付くためには、他人との比較である。他人という鏡を通して自分を疑うのだ。自分と他人の差異に気付くことで、初めて自分を知ることができる。
私は「やりたいことがないという人がいること」を知って驚いた。
自分の中の当たり前は、自省しても気付かない。当たり前は、無意識だからだ。
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