「いただきます」は ” 命 ” を「いただきます」
2021/9/30
人間の原罪
殺生はしないほうがいいけれど、わかっているけど、蚊が血を吸っていると、叩いて殺す。それは、これまでの習慣であるし、自分に害を及ぼすからである。痒くならないのなら「蚊に刺されても気付かない」それならば、勝手に血を吸ってくれである。蚊は、自分に「痒み」という不利益を及ぼすから、蚊を殺してしまう。
普段は意識してないけど、私たちは、間接的に殺生を繰り返している。魚や家畜を殺して、その肉を食べている。野菜や果物も食べている。植物は、動いていないように見えるけど、ゆっくり成長していて、生きている。
一時期、「生き物を殺したくないな」と考えて、ベジタリアン ( ヴィーガン ) について調べたことがあった。でも、それは、「偽善だな」という答えに辿り着いた。「動物の殺生はしないけど、植物の殺生はいいよね?」っていうベジタリアンの価値観に偏見を覚えたからだ。
あとは、魚や肉を食べない人生は、つまらない。食は人生の楽しみのひとつである。
私たち生き物は、与えられた食物連鎖の中で生きてきた。殺生というつながりの中で、殺生を繰り返しながら、生き、死んでいく。
自分が殺生を辞めても、親から受け継いでいる、原罪は、消えない。宿命には逆らえない。
原罪という運命を背負って生まれたならば、その原罪を背負い、また、罪を繰り返しながら生きるしかない。
いただきます
自分の金で買った材料で、自分で作った料理を、自分で借りた家で食べる。
全部、自分で稼いだお金だから、誰かから、「頂く」わけではない。
親から、父親のお金で買って母親の調理した食事を「頂く」わけではない。
だから「いただきます」を忘れていた。
何も言わずに、食べることが、日常となっていた。
- 「いただきます」は、人間の労力に対しての言葉などではない。
- 「いただきます」は、生き物に対しての言葉だ。
- 「いのちを頂きます」が「いただきます」なのだ。
「いただきます」を言う人間に戻ろう。
「いただきます」を感謝する人間になろう。
それが、罪への懺悔の言葉である。
いのちを頂いているのに、テレビやスマホ、何かをしながら、食事をしてはいけない。
いのちを通して、家族や友人や恋人との会話を楽しみ、いのちを大切さを知る。
生命の限り、いのちを頂いて生きていく私たちは、今一度、いのちと向き合う必要がある。

コメント