【本要約】Dark Horse「 好きなことだけで生きる人 」が成功する時代

【本要約】Dark Horse「 好きなことだけで生きる人 」が成功する時代

2022/5/14

ダークホース ( 型破りな成功をした人 ) の共通点は「 本来の自分であること 」を追い求めていたら、いつのまにか成功していた。

新しい時代の成功の地図である。

ダークホースには、共通点があり、再現性がある。

大量生産の時代 ( 標準化時代 ) から、変化が激しく正解がない現代 ( 個別化時代 ) への変遷ではダークホースこそがスタンダードとなる。

ダークホースは目指すものではない、結果としてダークホースになるのだ。

ダークホース的な成功への過程
① 自分の中の小さなモチベーションを見つける
② 一般的なリスクは無視して自分に合った道を選ぶ
③ 自分の強みを自覚した上で独自の戦略を考え出す
④ 目的地のことは忘れて充足感があるか自問する
人は、小さなモチベーションで動く。大きな情熱や大きな夢ではなく、自分の中にある「 ちょっとやってみるか 」という程度の小さなモチベーションがスタートである。

ロールモデルがいないから「 やらない 」ではなく、「 やりたい 」という欲求から、自分で道を切り開く。新しいものを創り出し世に出ていく起業家たちは、すべてこのプロセスを経ている。

目的や成功を求めるのではなく、ただ充足を求めるのだ。

社会では、変化を取り入れながら、社員一人ひとりの持ち味や可能性に、光を当ててマネジメントする会社や組織も明らかに増えてきている。

序論

成功法則は時代によって変遷するので、賞味期限がある。

近代は、工場、大量生産、階層組織、義務教育が一般的になった結果、消費者向けの製品や仕事、知名度のある大学と、日々の生活に欠かせないものが標準化した、標準化時代である。標準化時代の成功は「 出世の階段を登ることによって、富と地位を獲得する 」という定義である。

この概念を元に、自己啓発書が刊行される。

  • 1936年
    人を動かす
    デール・カーネギー著
  • 1937年
    思考は現実化する
    ナポレオン・ヒル著
  • 1952年
    積極的考え方の力
    ノーマン・ヴィンセント・ピール著

組織の上層部を目指す個人にとって役立つ習慣や技術が強調されている。

標準化時代は、自己啓発と科学とを結合させ、成功への手順を一本化した初めての時代として特徴付けられる。

「 自分の目的地を知り、目的地に向かって懸命に取り組み、コースから外れるな 」

ダークホースは、新たな成功法則の始まりの合図である。

私たちが小さな画面で日々接しているテクノロジーには、共通する特質がある。個人の興味・関心、行動に合わせてサービスを最適化する、個別化されたサービスである。私たちの社会は、今、個別化時代を迎えている。個別化への移行は、会社でも起こっている。階層組織である安定した大企業に支配された産業経済から、フリーランス、個人事業者が活躍する情報とサービスの経済に移行している。

「 個性が重要なのだ 」という概念である。

・他人については、金と力が成功の要件
・自分については、個人的な充足感や達成感が成功の要件

「 個人的な成功を収める人生 」という欲求に対して科学的な研究が追い付いていない。

成功に関する学問が、従来の標準化の時代に留まっている。

「 どこの誰か 」「 どういう生い立ちなのか 」は一切関係なく、それぞれの持つ能力を生かすことこそが、個性が重要だ。

「 自分を理解し、自分に決定権を与える 」ことが最善の方法である。

新時代の成功は、既存のゲームのルールの枠外にある。

既存のルートではなく型破りなルートで活躍するようになった人、ダークホースの共通点は、個人的な充足感にあった。ダークホースは、朝、目覚めると仕事に向かうのがワクワクするほど楽しみであるし、夜は自分に満足して眠りにつく。

充足感の追求という決断こそが、ダークホースを定義付ける。

ダークホースは、何より充足感を優先させて人生の選択をする。

私たちは「 目標を達成した見返りとして充足感を得られる 」と思い込んでいる。

・標準化時代は、成功を目指して努力を重ねれば、いずれ充足感を得る。
・個別化時代は、充足感の追求が成功を導く。

成功は個性の追求である。

充足感をもたらす環境は、人それぞれに異なる。個人の興味・関心・必要性・欲求はそれぞれに異なるからだ。ダークホースは「 何かに成功すること 」で充足感を得たのではなく「 自分自身にとってかけがえのないことに熱心に取り組むこと 」で充足感を得たのだ。充足感は画一的ではない。

充足感は、決して画一的ではないのだ。

「 どう生計を立てるか 」ということになると、私たちはよく「 したいこと 」と「 しなければならないこと 」の「 どちらかを選ばなければならない 」と思いがちだ。ダークホースは、それが誤った選択であることを教えている。個人的充足感を得る仕事に邁進すれば、自分のパフォーマンスを最大限に伸ばすことができる。

  • ダークホースは、自分に最も合う環境を選択することによって、自分の才能を開花させる。
  • ダークホースは、個別化時代に適した成功を再定義した。
  • ダークホースは、成功を追い求めるのではなく、充足感を追い求めることで、成功に到達する。
あまりにも激しい社会変動に直面すると、私たちは本能的に安定を求め、古いしきたりである標準化時代に約束された型通りの生き方に戻ろうとするものだ。 ( 現状維持バイアス )

古いルールに従うことは、もう安全な方策ではなくなっている。
古いルールでは確実に時代に取り残されてしまうのだ。

私たちを取り巻く世界は、目まぐるしいほどの勢いで急速に変化している。制度やしきたりなどが流動化している。ほどなく、個別化が社会の隅々まで行き渡り、単に実行に移すことが何よりも不可欠となるときが来るだろう。

個別化時代の到来を待つ必要はない。今すぐ、充足感と成功を目指して歩み始める。

充足感と成功を獲得するための重要な鍵は「 自分の興味や関心、能力に合わせて環境を選ぶ権利を持っていることに気づく 」ということだ。

個性を生かして、充足感と成功を目指す。

「 ダークホース・プロジェクト 」によって明らかになったのは、世界的に有名な成功者よりも、むしろ、ダークホースが辿った道から多くを学べるということだ。

充足感の追求こそ、情熱を煽り立て、最高の人生を歩むチャンスを増やすことになるのだ。

見えないルール

自分を縛る「 見えないルール 」に気付くこと

ダークホースが辿った道に共通したテーマが、自分の人生に対する違和感である。

「 自分のことを誇らしいと感じたことがなかった。自分だけの道を行こうと決めるまでは。 」

転機にさしかかる前は、ダークホースも社会が敷いたレールに沿ってひた走っていた。知らず知らずのうちにそうしていたが、転機を迎えてからは、自身の選択は新しい考えのもとに決断されていく。つまり、「 この道を行けば “ 充足感 “ に辿り着けるだろう 」という思いが、自身の選択の動機になったのだ。

「 いくつもあるチャンスのうち、本当の自分自身にピッタリと合うものを選んだ。」

・本来の自分であることを求めた。
・個性を死守した。
個性の反対が標準である。
  • 標準化の目標は、何よりも生産システムの最大効率化であり、この目標を達成するための最も重要なことは、多様性の排除である。
  • 標準化は、一定のプロセス、つまり一定のインプットを同一のアウトプットに ( 誤差も変動もなく ) 変換するプロセスを確立することなのだ。
  • 標準化という発想は「 個性的であるのは問題だ 」という考えに基づいている。
    製品を作るうえで標準化の考え方を適用するのは、道理にかなっている。
  • 標準化によって、低コスト・低価格を実現できる。
  • 標準化時代と共に個性は産業から排除された。
製品を標準化するのと同様に、人間の標準化もなされた。

工場の労働者は、歯車と化し、工場生産効率化に組み込まれた。

会社組織も標準化され、個性は不要という共通認識に到る。

標準化の波は、子どもたちにも及び、学校教育にも及んだ。教室は工場に似せて作り直され、始業と終業のベルまでが、工場のベルと同じように、校内に鳴り響くようになった。

学校では、原材料 ( 生徒 ) が生活の様々な需要を満たす製品に加工される。
エルウッド・カバリー
最初に「 働き方 」を標準化し、次に「 学び方 」を標準化した。

その後、標準化された職場と教育システムとを統合し、標準化された出世の道を樹立した。こうして、幼稚園の門を初めてくぐる日から定年退職の朝まで、私たちが通過する道のりのすべて、つまり人間の一生のすべてが標準化されてしまった。

標準化というすべてを均一にする価値観は、工場と学校に引き続いて産業世界のいたる所に普及した。この非人間的なシステムを私たちが受け入れるようになった理由は、社会が暗黙の約束を標準化時代の市民と結んだからである。

目的地まで真っすぐな道を辿って行けば、雇用と社会的地位と経済的な安定が与えられるだろう。

この約束はやがて、アメリカ社会にしっかりと定着 ( そして、ヨーロッパではさらに強固に、アジアにいたっては完全に硬直した形で浸透 ) したため、基本的な「 社会契約 」という形をとるようになった。

「 社会契約 」の「 合意 」によると、社会はある条件を満たす個人に褒美を授けることになっている。その条件とは、個人が一人ひとりの充足感の追求を放棄し、成功を目指して標準化された道を突き進むことである。

なぜ、このような「 自己否定的な条件 」に合意などするのだろう?
おそらく、表面上は平等かつ公平に見えるからだ。

特に、以前に比べたら良さそうに見える。19世紀には、まともなチャンスは一部の特権階級にのみ与えられていた。適正な家系・適正な人種・適正な宗教・適正な性別・適正額の銀行預金などを既に持っている人々である。

それとは対照的に、標準化されたシステムは、正真正銘の実力主義を確立しているように見える。

この合意のもとでも、誰もが成功できるわけではなく、懸命に取り組み、才能を示す必要がある。それでも、チャンスの階段に誰でも一歩足をかけられるようになったのだ。これがあったから、表向きの約束が維持された。

「 他の皆がしなければならないことを、他の皆よりも上手にやってのける 」ことが、才能の評価である。

標準化されたシステム

  • 「 切なる望みを抑えつけ、幸福追求を後回しにせよ。専門性を極めるために、長く険しい道のりを脇目もふらず進むことが先決だ。」幸福は、コースから逸れずに必死に頑張った後に受け取る褒美なのだ。
  • 個人の成功を単純で直線的な思考法で測るように仕向ける強制力を持っている。
    「 どの高さまで上った?」と問いかける。
  • 決まったコースから外れたら「 苦労して頂点まで達した人が手にするのと同じ褒美を得られる 」と思ってはいけない。

標準化されたシステムは、保証された良い人生をつかむのに不可欠な方法として受け入れられる。

標準化されたシステムにおいては、何かで成功するためには “ルール ” に従わなければならない。何らかの充足感が得られるとすれば、それはあくまで成功してからのことだ。

一方、ダークホースは、それぞれの個性を生かして充足感を得ようとする。その充足感が、成功を得るうえで最適な条件をつくり出す。

  • 充足感の獲得を効果的にするには、徹底的に自己分析をする。
  • 自分の興味と欲求を把握することによってのみ、本来の自分自身に最適なチャンスを見極め、受け入れることができる。

ダークホースが「 充足感を追求する 」という選択をするとき「 富を得る見込み 」も「 自分がいつかその道で成功者になれるかどうか 」も重視しない。

標準化されたシステム

  • 与えられるチャンスは決して充足感を目指すものではなかったし、今後もそれはあり得ない。
  • 「 個性は問題である 」という理念に基づくシステムが、個性を生かすように微調整することもあり得ない。
    標準化から脱出する道を標準化することはできないのだ。
  • ダークホースは「 標準化から脱出する道を個別化することは可能である 」と示している。

個別的な考え方を信じるのはなかなか難しい。

  • 生まれてから、ずっと成功というものを標準化されたレンズを通して見るように育まれてきた。
  • 「 情熱 」「 目的 」「 粘り強さ 」「 達成 」といった観念さえ、標準化に基づく古い価値観に影響されている。
  • 個人的成功への旅路にある最も困難な部分は、新しい考え方を取り入れることではなく、古い考え方を手放すことなのだ。

一世紀以上「 組織 」が社会の正当な中心であり、「 私たち ” 個人 ” の生活を統治する存在である 」という真理を私たちは従順に受け入れてきた。

「 組織 」とは違う方式で社会が動いているなど、想像するのは難しい。だから急に何者かが「 個人が社会の中心だ 」と言い出し「 その新しい原理に基づいて、新しい成功法則を提示することが可能だ 」と宣言しても、それを呑み込むのが難しいのは当たり前だ。

コペルニクス的転回は、容易ではない。

広く受け入れられた標準化されたシステムは、私たちの前進を阻んでいる。
「 標準化された成功への道への到着地点が充足感をもたらす 」という考えに傾倒する社会に未来はない。

一方、個別的な考え方は、制約のない、達成感と喜びに満ちた社会への扉を開くものだ。目の前に、人間の潜在能力に対するひとつの見方が差し出されているのだ。

自分が好きなこと

「 自分が好きなこと 」を掘り起こせ

私が「 好きなこと 」「 本当にやりたいこと 」は、自分自身の感情面の ” 核 ” を成している。
私が何を求め、何を求めないか。
私という個人が、固有の存在として定義づけられる。

私の個性を守り抜く唯一の方法は、自分が心からの願望を尊重することである。自分が「 本当にやりたいこと 」と「 実際にやっていること 」が合致するなら、今後、辿る道は魅力的で満足のいくものになるだろう。

自分のモチベーションの本質を理解することが、充足感を得るために不可欠である。

自分独自のやる気を発揮することによってのみ、本来の自分の存在意義も、自己としての完全性も実感できる。

個別的な考え方から引き出される課題は、個性を生かすことであり、この課題遂行が始まるのは「 自分を本当にやる気にさせるものを見定めよう 」と自分が決めた瞬間だ。

モチベーション

科学者は、至高の「 普遍的なモチベーション 」を我先に見出そうとした長い歴史がある。科学者が追求したのも、どこの誰にでも当てはまるモチベーションだ。

  • フロイト
    「 性欲 」があらゆる人間の行動の根源にある
  • フロイトに師事したアルフレッド・アドラー
    「 権力への野心 」を強調した
  • フロイトの最も有名な信奉者であるカール・ユング
    「 生きるための欲求 」の優位性を説いた
  • 精神科医ヴィクトール・フランクル
    「 生きる意味を求める心 」が人間には普遍的にある
  • 心理学者エリク・エリクソン
    「 成長への欲求 」だと信じた

確かに、すべて広く受け入れられた本物のモチベーションではある。しかし、誰もが普遍的に突き動かされるモチベーションではない。誰かひとりの心の中に、あるべきはずの普遍的なモチベーションが見つからなくても、それは生物学的な異常でもなく、また、道徳的な欠陥でもない。単に「 人間には驚くほど多様なモチベーションがある 」ということを反映しているに過ぎないのだ。

個別的発想の第1要素

ダークホースは「 競争心 」や「 創造性の希求 」のような普遍的で漠然としたモチベーションとは対照的に、きめ細かく特定された、自分自身の偏った好みや興味に突き動かされていたことを明らかにしている。

(1) 個別的発想の第1要素
充足感を得るために、自分の中の小さなモチベーションを見つける

自分自身の好みや関心・興味を尊重せずに「 標準化されたシステムが考える自分の好み 」に沿って進むと良くないことが起きる。

●判定ゲーム
毎日、自分が直感的にやっていることを利用して、自分の中の隠れた小さなモチベーションを発見する。他者に対する自分の直感的な反応を使って、自分の琴線に迫り、その源泉まで辿っていく。

判定ゲームには3つのステップがある。

  • 第1のステップ
    自分が他者評価している瞬間を意識する。
    「 いつ評価しているか 」だ。
    人は誰でも、常に他者を評価している。
    郵便配達員・警察官・マッサージ師・近所の人・店員・政治についてツイートする人など。
    他者に反応するのは、人として当たり前のことだ。
    ただし、これからは「 どんなときに 」評価しているのか自覚する必要がある。
  • 第2のステップ
    他者を反射的に評価しながら「 どういう気持ちが湧いてきたか 」を見極める。
    肯定的だろうと否定的だろうと、
拍手を送りたい気分だろうと非難を浴びせたい気分だろうと、
とにかく「 強い感情が表われるかどうか 」を自覚する。
  • 第3のステップ
    他者に対して「 なぜそのような気持ちを抱いたのか」を自問する。
    自分に正直になることが大切だ。
自分自身を欺いてはならない。
そして、自分以上に欺きやすい人間はいない。
物理学者リチャード・ファインマン

判定ゲームの目標は、自分の強い感情的な反応を知り、それを使って自分自身の隠れた欲求の全容を探り出すことにある。自分の状況について、正確に「 何が好きか 」または「 何が嫌いか 」注目するように心がける。

判定ゲームのコツ
・感情が動いたときにメモに記録する
・感情が動いたときになぜを繰り返す

ダークホースにとって、情熱は多次元的で動的なものであり、なおかつ、常に本人の意志で制御される。

情熱は、自分が従うものではなく、自分が自分でつくり出し燃え立たせることが可能なものだ。

情熱を生み出し燃え立たせる鍵は、自分の中で最も熱く燃えるひとつのモチベーションに従うことではない。むしろ、意図的にできるだけ多くの異なるモチベーションを活用することだ。

自分が認識し活用できる、独特で細分化された「 好きなこと 」「 小さなモチベーション 」が多ければ多いほど、自分は思う存分、自分の人生を切り開いていける。

自分で生み出し燃え上がらせた情熱は絶えることのない原動力であるだけでなく、泉のように湧き出る、本当の自分として生きている実感である。

自分に合った道

「 自分に合った道 」を選択する
  1. 選択することで、自分の個性が行動に表われる。
  2. 情熱を目的に変換するための手段、それが選択だ。
  3. 社会が個別化するにつれて、私たちの選択肢は爆発的に増えた。

私たちは今、消費者に選択権がある「 黄金の時代 」に生きている。
しかし、学校や職業など、人生に関わる重大な「 選択 」ということになると、事態はほとんど変わっていない。

私たちは、標準化によって選択のチャンスを奪われることで、私たち自身の個性を失っている。

私たちにチャンスを提供する側の組織は「個人に選択権がないこと」を批判されると、個人にも一握りの選択権があることを指摘して切り返してくる。

  • 自分は、どの大学に行くか選べる。
  • 何を専攻するか選べる。
  • そして、手にした卒業証書で何をするかも自分次第だ。

標準化されたシステムのもとでは、確かに、選択は、個人の決断として最も重要な問題だ。しかし、これは選択ではない。実際のところは「 選択 」を「 二択か三択 」にすり替えている。

例えば「 どの大学に進学するか 」という自分に選択の自由がありそうな場合でも、実は「 どの大学が実際に自分に入学許可を出すか 」で、すべてが決まる。自分は「 どの大学に行くか 」選択するのではなく、自分に入学許可を出した大学のリストからひとつ指定するだけだ。この違いは「 レストランのメニューからメイン料理を指定する 」ことと「 スーパーマーケットにある食材を自由に使って夕食に何をつくるか選択する 」こととの違いと同質のものである。

「 選択 」は本来、能動的なプロセスだ。
自分に選択の自由がある場合、自分は自分自身のチャンスをつくり出すことができる。 他の誰も思いつかないような選択肢も含めて。
「 指定 」は、受動的なプロセスである。
自分が提示された選択肢からひとつ指定する場合、既に他の誰かが本当の選択を済ませ、自分は単に差し出されたチョコレートの箱から一粒だけ摘み上げているに過ぎない。

「 選択権無視による自主性の縮小は、自分自身のためなのだ 」と権力者に思い込まされている。

本当の選択権とは、
自分自身の中にある「 好きなこと 」「 小さなモチベーション 」が、より多く生かされるチャンスを見つけて選ぶ権利である。自分が目的をつくり出す権利、ひいては、充足感を得る権利なのだ。
もし、自分の個性に一致する選択肢を自由に探せるなら、自分は今まで誰も気づかなかったチャンスを発見するかもしれない。

確実に探し出す唯一の方法は、自分自身の「 能動的な選択 」だ。

(2) 個別的発想の第2要素
自分の個性と一体化した選択を探し出す
  • 自分のことについて誰よりも詳しいのは、自分自身である。
  • この「 自分を理解すること」こそが、何よりも力を発揮する。
「 私は、親指を突き出して道端に立つなんてこと、一度もしなかったのよ。私はね、歩いたの。そして、第一線で活躍している人たちは皆、しばらくの間、歩いていたのよ。 やがて誰かが拾ってくれるまでね。私たちが助けてもらえるのは、歩いている姿が誰かの目に留まるから。そして、誰でも人が前に向かって進んでいるのを見るのは好きだから。だけど、親指を突き出して拾ってもらうのを待ってるだけの人を見るのは、誰も好きじゃないはずよ。」

ダークホースは、ひとつのチャンスに巡り合うと「 チャンスの特色 」と「 自分の個人的なモチベーション」がどれくらい一致するか判断する。「 チャンス 」と「 個人 」との多次元的な相互作用で、一体感がつくられる。

自分にとって、特定のチャンスで生かされる「 小さなモチベーション 」が多ければ多いほど、そのチャンスを選択することによって、自分の情熱は大きくなり、その結果、自分の選択のリスクは低くなる。「 チャンスの特色 」と「 自分のモチベーション 」が一体化すればするほどチャンスは低リスクになり、バラバラになればなるほど、チャンスは高リスクになる。

自分が「 自分の小さなモチベーションを把握している 」限り、自分は他の誰よりも正確に選択のリスクを判断できるようになる。自分自身を知り、それを基に自信をもって行動を起こすことによって、自分の運命をコントロールできるようになるということだ。

ビジネスの基本中の基本
得意なことだけやって、残りは外注すべし
何か自分の好きなことをやっていると、人はそれを本当に上手にできるようになる。

ダークホースは、
自分の小さなモチベーションを理解し生かすことによって、情熱を生み出す。
自分の目的は、他者から与えられることもない。
大胆な行動を起こすことによって、目的も生み出すのだ。

「 自分の小さなモチベーション 」と「 目の前のひとつのチャンス 」との一体感を見積もった上で、自分が重大な選択をするなら、その都度、自分の目的を確固たるものにつくり上げていける。人生の意味と方向性を、自ら決定できるようになる。

自分の個性と最も一致する選択肢を能動的に選ばなかったら、自分の目的意識を自分自身から奪うことになる。ダークホースが自分の選択した道に全力で挑めるのは、自分の目的意識が明確だからだ。

戦略

独自の「 戦略 」を考え出す
(3) 個別的発想の第3要素
自分に合った戦略を見つけること
  • 戦略とは「 うまくなる 」方法のこと。
  • どの戦略も、時の経過と共に自分が上達していくことを目指す。

自分に適した戦略を見極めることが、成功するための秘訣なのだ。

「 自分に合った戦略を見つける 」ことは、誰か他の人から教えてもらった上達法ではなく、自分自身の強みを案内役にして、独学法やトレーニング方法や習得法を探し出すことだ。

自分にとっては至って自然なのに、他人から見れば風変わりな方法を思いつくこともあり得る。

標準化されたシステムでは、個人が自分にとって最適な戦略を見定められるようになってはいない。反対に、万人が従うべき戦略をひとつだけ選定している。いわゆる「 唯一最善の方法 」である。

今や、無意識に自分の価値や実力を、既成の習得法に照らして判断するようにさえなっている。

標準化されたシステムにおいては、様々な形で個人に自分の能力を過小評価するように仕向ける。その中でも、私たちから徹底的に自信と意欲を奪うのは、組織が「 自分に合わない戦略でも採用すべきだ 」と主張した上で、実際、うまく適応できないのを見ると「 自分の失敗は、才能の欠如に起因する 」と言って私たちを叱責する場合だ。しかし、自分が「 唯一最善の方法で何かができない 」からといって、必ずしも「 自分にとってそれが不可能だ 」ということにはならない。

自分独自の戦略を探し出すのに、必要なのは「 自分の強み 」についての新しい考え方である。

「 人の強み 」と「 やりたいこと 」は、基本的に全く別のものである。

自分の小さなモチベーションは、自分のアイデンティティの核を成すものであり、そのため、行動の原動力になるし、また、容易に変わることがない。私たちの脳は、自分の「 やりたいこと 」を直接的に知る。あるいは体感するようにできている。実際に「 ○○をしたい 」という欲求は、私たちの意識に自然発生する。

例え、自分の内にある憧れや願望の一つひとつに名前をつけられなくても、内省によって小さなモチベーションの微妙な意味合いを知ることはできる。

「 やりたいこと 」とは違って、個人の持つ「 強み 」は、捉えどこかがなく、状況によって左右され、そして動的でぼんやりしている。「 強み 」はハッキリしない。

私たちの脳は「 自分の強み 」を直感的に知るようにできていない。私たちが個人的な強みと見なすものは、ほとんどすべて、外的な要因によって形成されるものであり、内的な要因によって自然に生まれるものではないからだ。私たち持つ個人の能力は、文化的に定義付けられる能力であって、個人にもともと存在する能力ではない。強みとは、学びを通じて構築される能力、たゆまぬ努力によって得られる能力、後天的能力である。

私たちが「 何か 」を欲するとき、私たちは「 その何か 」を感じるのだ。

「 自分に適性があるかどうか 」を判断するのは極めて難しい。確実に知るには、経験してみる他ない。自分の強みを、内省を通してではなく、行動を通して見定める。

強みは、また、状況によって変わるものである。どのような個人的資質も、状況次第で適性にもハンディキャップにもなり得る。自分の個人的な資質を今日の状況で強みとして発揮できても、明日になったらそれは強みではなくなるかもしれない。なぜなら、強みは動的なもので、鍛錬によって向上し、放置されれば劣化する。

自分に合った戦略を選ぶポイントは、現在のスキルを向上させ、知識を深め、自分の強みを変化させることにある。

強みとモチベーションは基本的に異なるので、戦略を選ぶときには、チャンスを選ぶときとは、異なるアプローチをとる。

得意とやりたいは違う。

自分の小さなモチベーションを知っていれば、確信を持ってチャンスを選ぶことができる。なぜなら、自分のモチベーションと与えられたチャンスとのフィット感はすぐわかる。しかし、自分の強みは、ぼんやりしているので、戦略を選ぶことは難しい。

・モチベーションに基づいて選択するときは「 これだ 」
・新しい戦略を選択するときは「 これをやってみよう 」

戦略を選ぶことは「 どのように試行錯誤するか 」という問題である。

「 戦略を次から次へと変える 」という発想は、我慢強さに欠けるのか?

  • 科学は、仮説と検証を繰り返す、永遠の試行錯誤ゲームである。
  • 科学の発展は、いろいろと試していった結果である。

現代の科学は、試した結果「 今のところ一番確からしい 」ということだ。
ピラミッドの頂点である、下にはおびただしいほどの試して失敗した過去の結果がある。未来には「 別の一番確からしい 」というピラミッドがあるかもしれない。

「 戦略を次から次へと変える 」という手法は、科学の生存戦略である。

自分に合った戦略を見つける過程では「 実行に移して失敗する 」ことを想定する必要が生じる。失敗を歓迎しよう。失敗は、スキルを伸ばすプロセスにおける前提だ。

失敗せずに、自分のぼんやりした強みの輪郭を浮き彫りにすることはできない。

試した戦略はすべて、個人的な実験である。

・このアプローチは私に合う?
・これは私が成長するの役立っている?
・もしそうなら、それで私のどういう強みがわかる?
・もしそうでないなら、この失敗から私は何を学んで次に生かしたらいい?

自分に合った戦略を見つけるプロセスは「 発見と修正を何度も繰り返す 」という点で、極めて動的である。

自分に合う戦略をひとつ見つけたとしても、それで終わりにはならない。その戦略で向上し、その結果、自分の強みは変わる。その繰り返しである。

標準化されたシステムにおいては、試行錯誤の余地はない。「 唯一最善の方法 」があるだけだ。

哲学の教授から「 選択式テストに答えて読解力を示せ 」と言われたのに、テストに回答するかわりに小論文を書いたら、不合格になる。自分にとっては、小論文が自分の知識を伝えるのに最も効果的な方法だったとしても。

多様化に対する消極的な姿勢には、非効率性への組織的な嫌悪感が表れている。

マスターソムリエ試験

マスターソムリエの資格保持者は世界中にも300人程度
日本人は一人だけで、高松亨さん。※ 田崎真也さんではない。つまり、激ムズ。

● イメージ先行戦略

「 エイミー・カディ ( 米国の社会心理学者 ) のビデオを観たのよ。体の姿勢と心の姿勢の両方の大切さを彼女は話していたわ。それで気づいたの。マスターソムリエ試験に臨むとき『 マスターソムリエになりたい 』と望みながらではダメなのよ。『 自分はもうマスターソムリエなんだ 』って思って臨まなくちゃならないの。試験に向かう直前に、私は両腕で勝利のポーズをとった。あのときからずっと、自分の意志で体の姿勢をコントロールするようにしているの。特に、お店のフロアで注文の厳しいお客様や疑り深いお客様の相手をするときにはね。」

● 生理学的戦略

「 ワインの味見をすると、僕は人一倍敏感に反応するのがわかってきた。それは、もう生理的な反応でね。だから、それを利用することにしたんだ。ワインが僕の体に『 どんなふうに影響を与えるか 』ってことをしっかりと意識することにした。アルコールが胸のあたりまでくると焼けるようにヒリヒリするとか、下顎に酸味が残るとか、口蓋にミネラル分が張りついた感じがするとか、二酸化硫黄が目に染みるとか。なんだか全身でワインと対面している感じだったな。口だけじゃなくてね。ああいうのが悟りとか至福の境地っていうのかもしれないけど、とにかく、ついにワインが僕に語りかけてくるようになったんだよ。『 君が何者か、もう僕からは言わないよ。僕はただ君の話に耳を傾けるだけ。』っていう感じだね。」

一歩ひいて「 こういうことすべてが何を意味しているか 」を考えてみよう。ワインの技能をマスターするには「 まず自分自身についてマスターしなければならない 」ということだ。

マスターソムリエになるための一本の真っすぐな道は存在しない。いかなる場合においても自分の個性を生かすことが必要なのだ。

自己充足

  1. 自分の小さなモチベーションを突き止めたとき、自分は情熱を生み出し燃え立たせることができる。
    その情熱が、自分にエネルギーと本当の自分らしさを与える。
  2. 自分に合う選択肢を突き止めたとき、目的意識が明確になる。
    その目的意識が、自分に人生の意味と方向性をもたらす。
  3. そして、自分に合う戦略を突き止めたとき目標を達成することができる。
  4. このすべてを実行したとき、自分は心の底から誇りを感じ、自分が価値ある存在であることを実感する。
    なぜなら、自分は本来の自分でありながら、意義深い偉業を成し遂げたのだから。

この個人的成功という究極的な領域に達したいなら、素晴らしいパフォーマンスと充足感とを手に入れたいなら、まず、自分がよく知っている教訓のひとつを忘れ去る必要がある。

No目的地!

人生の目的地に到達するには、目的地を探してはいけない。

従来の成功戦術と個別的な成功戦術の最大の違いは、おそらく目標設定に関することだ。

(4) 個別的な発想の第4の要素
目的地は忘れろ

標準化されたプロセスでは、まず、自分の目的地を見定めなければならない。

目的地を設定することは、標準化されたシステムにおいては素晴らしいものだ。だが、充足感を目指す個人にとっては、悲劇に繋がる。

標準化されたシステムからは標準化されたものしか産出されない。そもそも、そのために標準化システムは存在するのだ。合う・合わないは当然である。「 既存の成功 」はまるで「 既製服 」なのだ。

標準化時代において、自分が自分のキャリアの最終目的地が気になって仕方がないのは当然だ。なぜなら、学校教育からスタートする出世の階段は人生の早いうちから始まり、そして、その時点で目的地を定めなければならないからだ。

標準化されたシステムにおいては、自分が選んだ既存の成功の形が最終目的地ということになる。

ダークホースは違った視点に立つ。

「 自分の才能を伸ばす 」ことを考えるとき「 個性が重要である 」ことを前提にするのだ。

「 ダークホース・プロジェクト 」で発見した最も重要なものは、驚くほど多様に存在する個性的な専門技能かもしれない。個別の成功を辿っていくと、本人の個性に行き着くことがわかる。

自分のぼんやりした強みと多様な成功を信じるなら「 自分が今後どのような種類の高等技術を手にすることができるか、誰にも予知できるはずがない 」とわかるはずだ。

もし自分が最終的にどこへ行き着くかわからないなら、ひとつの目的地に向かって脇目もふらず突き進んでいくのは意味がない。

早々と一本の真っすぐな道を辿ることを決めてしまうと、はるかに充足感を得られる成功へと導かれる、無数の道を閉ざすことになるかもしれない。

しかし、標準化システムにおける「 目的地を見定めよ 」という指令は、もっと目立たない形で、自分から充足感と成功に至るチャンスを少なからず奪おうとしている。

自分を誘導して「 時間 」という有毒な概念に従わせようとするのだ。

学校教育が表現するのは、個別の進捗度ではなく「 どれだけの時間が経過したか 」である。
学校教育のシステムや企業の年功序列のシステムは、私たちに「 上達するのは単に時間の問題だ 」と信じ込ませようとしているだけだ。

システムの制度が時間を標準化するのは「 標準化された成功を生み出すためだ 」ということは間違いない。時間の標準化に利益がもたらされるのは、システムの制度だけであり、自分には何の利益ももたらされない。

  • 科学者もまた、この魅力的な強い信念に感化されやすい。
  • 科学者自身が、学校教育のシステムを通過し、学校の中で研究している。

その結果、個人の技能習得度を調査する研究者たちのほとんどが、時間を独立変数として扱い、従属変数として扱わない。時間を専門知識の原因と見なす。

そして最後に、科学者たちは一見無邪気な質問を投げかける。「 すべて習得するには、どれだけの時間が必要なのか?」これに対して、研究者が整然と「 マスターするには、平均して8,000時間の演習が必要です 」とか「 専門家になるには、だいたい12年間の通学を要します 」と答えると、私たちは無抵抗にこの数字を受け入れる。

何はともあれ、この結論が、技能習得と時間との因果関係についての私たちの理解と合致しているからだ。

しかし、ダークホースはこうした結論をあっさりと拒否する。個別的な発想において、時間は重要ではない。

マスターソムリエ認定試験に合格するために、何時間の学習と練習が必要だろうか?
「 場合によりけりだ 」というのが正解である。

それぞれのソムリエの個性によって異なるのは当然だが、何よりも、技能を習得するためにそのソムリエが選ぶアプローチ法によって変わる場合が多い。

最も重要な時間的要因は、マスターしようとしていた課題にある固有の難易度でもなければ、総合的な学習能力でもない。

何よりも決定的なのは、マスターソムリエ志望者それぞれが「 自分の個性に合わせてカスタマイズした戦略が必要だ 」ということを認識して「 それぞれのハードルを越えなければならなかった 」ということだ。

そして「 その認識に至るまでの時間 」と「 自分のぼんやりした強みに適した具体的な戦略を見つけるまでの時間 」の方が「 正攻法が選択され実際に熟達するまでに要した時間 」よりも、はるかに影響力が大きい。

個別的な発想では、時間は「 相対的 」なものだ。

上達のペースは、個人が選択するそれぞれのチャンスと、本人が試してみる個々の戦略によって決まる。自分が上達するのにかかる時間は「 常に自分の下した決断に比例する 」ということだ。

時間が必然的に自分を上達へと導くことはない。メトロノームが刻む音ではなく、自分自身が選ぶ選択肢こそが、自分を次のステージへと押し上げるのだ。

どのような「 標準的な達成スケジュール 」にも疑いを持つべきである。そのスケジュールは単に、静的かつ一次元的な平均値を基につくり出されたものであり、自分個人の動的かつ多次元的なモチベーションと強みを一切考慮に入れたものではない。

  • 水泳がうまくなるには、平均してどれくらいの時間がかかりますか?
  • ゴルフが100を切るのに、どうして私は他人よりこんなに時間がかかるんだろう?

無意味な質問をするのはやめて、ただ、こう自問すべきだ。

  • これは、自分にぴったりな戦略だろうか?

標準化されたシステムは「 自分の意識をこの極めて重要な問いかけから逸らそう 」とするだろう。状況に応じた個々の相対的な時間など考えず、あくまでも自分の目的地を知り、コースから外れずに進む上での標準的な時間だけを念頭に置くべきだ。これは、真っすぐな道を進むことを選んだときに、私たち自ら合意する内容だ。そして、多くの場合、かなり不利な合意である。

自分のペースで独自の選択をすることによって、時間を相対的なものとして考えられるようになると、自分にとって時間は重要ではなくなる。なぜなら、自分は一歩ごとに充足感を最大化し、やがて、その充足感が上達のペースを最速化することになるからだ。

シリコンバレーの起業家やプロのスポーツ選手や医学部の卒業生の平均年齢が書かれた記事を目にして、自分は「 自分のビッグチャンスを逃した 」と思うだろうか?

「 現役引退 」という社会通念に「 世間が自分の退場する日付へと追い立てている 」として、恐怖を感じるだろうか?

将来への可能性を信じる内なる思いにストップをかけられたかのように。
要するに、標準的な時間は、私たちの注意を間違ったところに向けさせる。
しかし、対処法がひとつある。それが「 目的地は忘れろ 」という指令だ。

 旅路の果てを見通すのではなく、目の前にあることに集中する。
「 時間 」から自由になる考え方である。

なりたい職業

「 大人になったら何になりたい?」

「 何か希望の仕事を答えなければならない 」と感じる多くの少年少女は、期待に添いたい一心で宣言する。

「 僕はエンジニアになりたい 」あるいは「 私はジャーナリストになりたい 」と。

最初のうちは、こうした言葉は単に口から出たものに過ぎなくても、ことあるごとに家族やカウンセラーや教師から「 目的地を見定めておきなさい 」とプレッシャーをかけられるにつれ「 この大人になったらなりたいもの 」は確固たる計画になることが多い。しかし、将来の職種をあまりにも早いうちに決めてしまうと、結局「 果たせなかった夢 」として終わる危険性が高くなる。それは、現実を踏まえていないからだ。 変化の必然性を。

成功したいなら、自分は目的意識をつくり出さなければならない。目的意識をつくり出すには、自分の小さなモチベーションと自ら選ぶチャンスとの一体感を最大化しなければならない。こうなると、専門職に就くためのチャンスを追求するうえで、明らかに二つの問題が発生する。

  1. 自分がそこに到達するまでに、自分の小さなモチベーションについての理解が変わり得ること。
  2. そのチャンス自体が変わり得ることだ。

標準化されたシステムによって、自分の小さなモチベーションについての理解は抑え込まれる。そのため、標準化されたシステムのもとで本当に自己認識ができるようになるのは、常に苦しい登山を続けるようなものだ。

高等教育という厳密な階級制の中へ盲目的に突き進むのは「 自己認識を深める 」というよりむしろ「 自己認識を封じ込める 」ことになりかねない。しかし、極めて、個別化した教育システムを持つ世界でも、個々のモチベーションの局面すべてを洞察するには、多くの大胆な行動と有益な失敗が必要になる。

自分本来の小さなモチベーションの組み合わせが、目指す目的地に最適なのか判断できない。

もし、自分が幸運にも自分のモチベーションを正確に把握できたとしても、そのモチベーションが時の経過とともにどう変化するか予知することは不可能である。「 成功を追求しよう 」とするその過程こそが、自分を予期せぬ形で成長させ上達させる要因であり、ひいては、異なる組み合わせのモチベーションを導き出すことにもなるだろう。

目的地が遠ければ遠いほど、そこへ到達する前に、自分の個性についての理解が深まり進化する可能性は高まる。しかも、自分だけが変わるのではない。鉄壁の保証があるのは、自分が目的地へ着く頃には世界様変わりしている。真っすぐな道を歩み始めたときには存在しなかったチャンスが新たに出現するだろう。

10年前には、ソーシャルメディア・コミュニティ・コーディネーターも、スマートカー専門のエンジニアも、ブランド体験デザイン担当者も、さらには3Dプリンターを扱う起業家もいなかった。10年後に、どういうチャンスが現れるかなど誰にもわからない。

ダークホースは「 目的地を知ることなく成功を収めることが可能だ 」と教えてくれる。ただ、自分自身がどういう人間かを知らないと、そこへ辿り着くことはできない。

「 大人になったら何になりたい?」は呪いの言葉である。

目標

「 目的地 」と「 目標 」はどう違う?

ダークホースは「 目的地 」を無視する。しかし「 目標 」は無視しない。この二つに明確な違いがある。

目標は、常に個性から出現する。さらに厳密に言うと、能動的な選択から生まれる。

対照的に、目的地は「 自分以外の誰かが考えた目的に個人が同意し目指す 」と決めた地点のことだ。目的地は、標準化されたシステムに与えられたチャンスによって決まる。

目標は、直接的・具体的に達成可能なものだ。目標に達するために、自分は直ちに色々な戦略を試みることができる。出版社の締切に間に合うように小説を書き上げることも、来年度の営業成績を伸ばすことも、次のサッカーの試合に勝つことも、すべて個別的な発想に即した正当な目標である。

対照的に、目的地に達するのは常に不確かなことだ。目的地へ行き着くまでの途中にあるもの、未知のもの、予測不可能なものに左右される。目的地が要求するものは、数多くの未来の戦略である。そして、それらはすべて、戦略を実行した結果次第で変わるものだ。目的地が未来の出来事によって左右されればされるほど、自分の充足感は損なわれる。なぜなら、自分が現実の変化を無視しなければならなくなるからだ。

「 目的地を忘れる 」ならば「 何とかなる 」と信じて無謀な道に進む必要はなくなる。

山登り

自分に合った戦略を見つけるための試行錯誤の根底にある、数学的な論理を捉えたプロセスがある。自分のぼんやりした強みに一体化する戦略を探すのは、上達を目指して、登ろうとする山の最も険しい急斜面を探すことだ。

自分の個性に適した戦略を選べば、あっという間に急斜面を登ることができる。自分に合わない戦略を選んだら、ゆっくりと時間をかけて登るか、あるいは、少しも上に進めなくなってしまう。

① ひとつの戦略を決めて、しばらくの間、実行してみる。
② 一旦、立ち止まり、もっと望ましい戦略、もっと望ましい斜面がないか周囲を見渡す。
③「 自分の小さなモチベーション 」と「 自分に合った選択肢 」を把握する。

成功へのグランドデザインには、ある決定的な特質がある。その特質によって、私たちは、なぜ個別的な発想のほうが「 目的地を知り、懸命に努力し、コースから逸れるな 」と提起する標準公式よりも、個人を成功へと導けるのか理解することができる。

あらゆる個人の成功のグランドデザインは、それぞれに特色のある固有な地形を呈している。なぜなら、個々人がそれぞれに独自のパターンの小さなモチベーションとぼんやりした強みを持っているからだ。

自分にとってアクセス可能な頂上や谷は、隣人にとってアクセス可能な頂上や谷とは違う。そして、二人として同じ成功へのグランドデザインを共有することがないのなら、当然、成功への普遍的な道などあり得ない。

専門知識を身につけるための、万人に適する「 唯一最善の方法 」が存在するという考え方は、数学的に言って、まったくのデタラメなのである。

新しい方向に進もうと選択した場合、自ら目標を設定したことになる。

「 山腹のいくらか高い地点、今、自分がいるところから見えている地点まで到達しよう。」「 真っすぐに、山頂を目指す 」ということではない。既にそこに近づいていない限り、頂上がどこにあるかも、またそこまでの最適なルートも、わからないからだ。

もし、状況に合った意思決定を繰り返し、コースを臨機応変に変えながら短期目標を目指して進み続けるなら、常にさらなる高みへと上昇するだろう。

対照的に、自分が目的地を選ぶのは、自分のグランドデザインを完全に無視し「 何が何でも、X地点へ向かいます!」と宣言することだ。X地点は、空中のどこかに垂れ下がっているだけの、アクセス不可能な、現実を無視した場所かもしれないのに。

目標と目的地の違いは明らかである。

成功の多様性と、小さなモチベーションとぼんやりした強みにある個性を信じるなら、自分の目的地をまったく知らずにそこへ到達できる。そして、目標達成への情熱と目的意識とを自ら生み出すことに焦点を置き続けるならば、いずれ自分の才能を極められることに確信が持てるようになる。

このプロセスは、どのように個別的な発想が自分だけの成功へと導き得るか、明確に示している。しかし、個人的成功のもう片方の側面、すなわち充足感の追求についてはどうなのだろう?

充足感:潜在能力を充分に伸ばした結果として得られる満足感や幸福感
オックスフォード英語大辞典

どのようにすれば、自分の潜在能力を充分伸ばし、満足感と幸福感を得られるのか?

  • 標準化の考え方は、充足感に対して何の役にも立たない。
  • 標準化されたシステムでは「 目的の追求が、やがて充足感に繋がる 」

「 どのように 」という問題を考えるとき、個々人の潜在能力が開花する。

「 自分にとって最も大切なことで上達せよ 」

これが、ダークホースから出された個人的成功のための処方箋だ。
ここに、ダークホースの発想の四要素が簡潔に集約されている。

「 自分にとって最も大切なこと 」
・” どの山に登るか選択する ” こと ” 
自分の小さなモチベーションを探り出す ” ことによって、情熱を生み出し燃え立たせる過程
・自分に合う選択肢を見極めることによって目的意識をつくり出す過程

「 上達せよ 」
・山頂まで登っていく過程
・独自の戦略を探り出し、目的地を無視することによって、目標を自ら創出し達成する過程

この処方箋は、充足感と成功が密接に関係し合うことも示している。
・充足感を優先させることによってのみ、自分の成功という頂点へと上昇していける。
・成功の域まで上昇することによって、充足感を得られる。

  • 成功という山を踏破するには、自らつくり出した情熱から生まれるエネルギーと、自ら生み出した目的意識から生まれる方向性とが必要である。
  • 湧き起こる充足感に満たされるには、自ら設定した目標を達成して得られる誇りと自尊心と充実感が必要である。
個別的な発想の四要素を人生に適用したとき、充足感と成功は、自分が意識的にコントロールできるものになる。

もはや運に翻弄される操り人形ではなく、自分の運命を支配する主人になるのだ。「 自分にとって最も大切なことで上達しよう 」と重点的に取り組むとき、もはや不安げに彷徨うこともなくなり、山腹に道を切り開きつつ上へ上へと登っていける。本当の自分という明るい光を放つ標識灯に導かれて。

曲がりくねった道は、決して当てのない道ではない。ただ、真っすぐでないだけなのだ。

「 今は、とっても幸福よ。でも、あえて言うなら、私はある程度の犠牲を払わなければここまでこられなかったってことね。かなりの苦痛を味わったわ。皆が皆、そんな辛い思いをしなくてもいいはずよね。でも、とにかく、今は自分の選択に満足してるの。何よりも、それが私自身の選択だったから。」
  • 標準化された成功を目指すのではなく、多様化した成功の中から、自分の成功を掴みとる。
  • 標準化された時間を生きるのではなく、相対的な時間の中に自らを埋没させる。

才能開花

誰でも、何歳からでも「 才能 」は開花する

・天動説は「 たったひとつの特別な天体である地球が、引力を持っている 」
・地動説は「 すべての天体が、引力を持っている 」

・標準化思考は「 特別な人間だけが、才能をもっている 」
・個別的思考は「 すべての人間が、才能をもっている 」

・双方の主張が、ともに真実であるはずがない。
・どちらか一方の立場を選ばなければならない。

・引力に対する二つの対立する理論が、宇宙の物理現象に対する解釈を二分させた。
・人間の潜在能力に対する二つの対立する理論も、社会における個人と組織の相対的な役割に対する解釈を二分させる。

・標準化の考え方によると、ごく少数の人間だけが特別な才能や能力をもっているから、組織がそのような才能をもった個人を特定し、権力を与える。
・個別化の考え方によると、誰もが特別な才能をもち、充足感を得ることができ、組織は個人がそれぞれの潜在能力を余すところなく伸ばすことができるよう手助けする。

古い考え方から新しい考え方への飛躍を妨げる唯一最大の障害は、400年前も今もまったく変わらず、「 一見して明らかに見える事柄から脱皮できない 」ことである。確かに、一見すると地球だけが引力をもっているように見えていた。 ちょうど、一見すると特別な人だけが才能をもっているように見えるのと同様に。しかし、ガリレオが自分の望遠鏡で示したように、これは単なる目の錯覚である。

私たちは、思考の錯覚を起こしている。

私たちの社会を支配する「 才能の定員制 」

「 才能は稀なものだ 」という考えに、私たちは疑問を感じない。ごく少数の人しか階段の一番上まで上っていけないからだ。

有名大学の入学者数は、志願者たちの能力に基づいて増減しない。
入学する資格を持った志願者をすべて受け入れることはない。
予め決められた数の学生だけを受け入れる。
大学は「 才能の定員制 」を強要している。

大学が「 何人の才能のある人がいるか 」を知る前に、才能を開花できる可能性のある人の数に上限を置いている。「 何人の志願者が才能を持っているか 」は重要ではない。大学は自ら決めた定員に縛られている。

ごく少数の人しか成功する潜在能力を持っていないのは、人間の不変的な本質であるかのように見える。なぜなら、ごく少数の人が才能を開花させるところしか目にしないからだ。確かに、特別な人だけが才能を持っているように見える。しかし、それは錯覚に過ぎない。

標準化されたシステムのもとでは「 経験則として才能が稀だ 」というわけではない。才能は、組織の規定によって、稀なのである。

才能を評価する基準には、絶対に欠かすことのできないものがある。予め決められ、固定化された『 境界線 』だ。この線を超えれば「 才能がある 」と見なされ、超えなければ「 才能がない 」という。これが、基準の定義である。この固定した尺度によって、才能が判定される。この一貫性がまさに、基準を客観的で正当なものにしている。

マスターソムリエ認定試験が、その完璧な例である。マスターソムリエとして認められるためには、一定の線より上の得点を挙げなければならない。基準は、評価される個人によっても、他の受験者がどういう様子かによっても、変わることはない。

志願者を一貫した公正な基準に照らして評価することによって、私たちにチャンスを与える各機関は、一般市民からの信頼を獲得している。「 才能が稀である 」という考え方を受け入れるのは「 各機関が入念な基準をもって、その基準を満たす人を判断している 」と想定していることにある。

私たちは、基準の高さと、競争率の高さを混同している。

基準をクリアした人には、マスターソムリエの資格を与えるのは容易であるが、大学では、そう簡単なことではない。

  1. 大学が基準を設定すれば、予め決められて固定化した基準値を超える志願者を全員受け入れなければならない。
  2. この数字を前もって知ることは不可能だ。
  3. 定員を設定すれば、予め決められて固定化した数の志願者を受け入れればよい。
  4. 才能ある受験者が何人申し込もうと関係ない。

客観的基準を持っているように見せることによって一般市民から信頼されたくもあり、定員制を使うことによって効率化でき、ブランドイメージを保持できる。

入学しようとする他の志願者によって変わり、大学ごとの差し迫った必要性によって変わり、さらに、教育機関ごとの審査官の主観的な意見によって変わる。ただし、公正に評価された志願者の実力によっては変わらない。客観的な基準によって左右されることはない。

いずれの場合も「 その都度変わる 」というのが共通の答えだ。

実力を客観的に判断する基準がない場合、才能の評価は「 見る人によって決まる 」ということになる。

地球が全宇宙の中心という間違った仮説が長く維持されたのは、社会全体がそう信じたからだ。一般の民衆も窓から空を眺めては、自分の目で太陽が地球の周りを回るのを見ていた。それと同時に、学者は、民衆の確信を裏づける特別な公式があると発表した。

コペルニクスが真実を暴露しただけでは、 天動説の理論を一掃するには不十分だった。社会全体が天動説から地動説へ大きく転換するには、必要な事柄が二つあった。

  1. 天動説が間違っていることを証明する具体的な証拠である。「 地球の他にも引力を有する天体が宇宙にある 」と証明しなければならなかった。
  2. 天動説に代わる理論である。「 どの天体にも引力がある 」というのが真理なら、宇宙の動きを実際に予測する理論がなくてはならない。

「 才能は特別なものだ 」という考え方が「 間違いである 」と見抜くには、宇宙にある星のように、社会にいる人間を観察してみる。

私たちに必要なものは「 標準化された組織の中に見た目よりもっと多様な才能があること 」を裏づける確かな証拠だ。

幸い、その証拠は、既に揃っている。ダークホースだ。

標準化の考え方が間違っていることを示すのは、簡単なほうだ。既存のシステムに否定されながら、数多くの男女が才能を開花させたことを指摘しても、あまり驚くべき新事実として受け入れられない。「 もっと公平にチャンスが提供されるようにシステムを改善したい 」と望むなら、必要なことは、誰もが才能をもっていることを論理的に説明することだ。「 特別な人だけでなく、万人に才能があること 」を説明する新システムを設計し、定式化することだ。

IQスコアのような単一の一次元的数値ではなく、多次元的な能力パターンを用いることで、個人の能力・個性を把握する。五角形や六角形で性格診断をしたときの星の形のようなイメージだ。単純に一律で比較できなくなる代わりに、個人の能力が可視化されて、個性の理解が進む。

個人の才能は、多面的な特異性にある。一方で、個人の求める成功に最も大きな影響を与えるのは、個人の才能ではなく、個人の小さなモチベーションのパターンである。

科学は、感情の多様性に再現性を与えられないから、科学的に感情を説明できない。

多次元的な能力パターンは「 人間の才能には多様性がある 」という概念の基礎となる。あらゆる人間には才能があることを証明する論理的な定式化となる。

「 誰もが何かに秀でている 」というのは、希望的観測ではない。人間科学が個人の肉体的・知的・感情的なプロファイルを、多くの側面に分解していくなら、あるレベルの精度で、やがて万人に平均以上の能力をもつ側面がいくつかあることを発見するに違いない。

誰もが何かによって極めて意欲的になり、そして、誰もが何かによって極めて非意欲的になる。誰にでも生まれながらに得意な課題があり、同時に、生まれながらに苦手な課題がある。こうしたことを発見するには、自分に能力のある側面を広げていくことである。

「 私たちの強みが状況によって変わる 」という特質に着目することによっても、誰もが才能持つ可能性を理解することができる。

無限なまでに多様な、多面的な才能プロファイルと、急速に、多様化する職業選択のチャンスとが揃っていれば、自分の個性に最高に一体化する仕事が保証されているも同然である。

世界は確実に変わってきている!

「 定員ベースの才能選別システム 」は「 能力主義 ( meritocracy ) 」という。能力に基づき、懸命に努力する才能ある者は誰でも頂点まで登れることを表現する。

好きなだけ懸命に努力することはできるが、本人の持つ才能が既存の鋳型に収まらなければ、その努力は何の意味も持たない。才能に定員制があること自体が、能力のある多くの人々を確実に底辺に押し留めている。

このシステムが「 能力主義 」ではなく「 才能の貴族主義 ( talent aristocracy ) 」と言われていたら、私たちは、このシステムに対してもっと警戒心を抱いていただろう。

「 メリトクラシー ( 能力主義 ) 」で「 アリストクラシー ( 貴族主義 ) 」を暗示したつもりだったが「 メリット ( 能力 ) 」ばかりが耳に残り、公平と平等主義を表している言葉のように受け取られた。

権力者の主張
「 特権化社会から能力社会へ変えようとしている 」
「 社会の最も恵まれない階級の中にさえ能力を見出し、業績と地位への階段を提供する 」

『 能力主義 』の賛同者たちは、才能はどこに隠れていようと、この新しいチャンス提供システムが必ず見つけ出し、選び、育てるとした。人々は「 『 能力主義 』こそが、チャンスを平等に提供するシステムだ 」と確信した。

しかし、個人の判断による定員枠内でしかチャンスを提供しないシステムなど、真の能力主義であるはずがない。それはむしろ「 定員主義 ( quotacracy ) 」である。そして、定員主義では「 成功するかしないか 」は、常に「 ネガティブサム・ゲーム 」になる。

テニス、サッカー、相撲などはすべて「 ゼロサム・ゲーム 」だ。これは、一方が得点すると他方が同じだけ失点するゲームを指す。相手が勝てば、自分が負ける。自分が勝てば、相手が負ける。これがゼロサム・ゲームだ。

「 定員主義 」においても、勝者と敗者が50%ずつであれば、これはゼロサム・ゲームである。自分の才能を伸ばしたい人の半数が、その才能を開花させるだろうが、残りの半数はそうならない。この場合、どちらが勝者でどちらが敗者かは問題にならなくなる。なぜなら、成功する人ひとりにつき、別のひとりが成功しないだけのことだからだ。

しかし、実際の定員主義はまったく違う事態を引き起こす。ごく少数の勝者と大多数の敗者を生むのだ。

定員制である限り、成功するチャンスを掴めるのは、誰かのチャンスを奪っている。いや、誰かひとりのチャンスだけではなく、多くの人のチャンスも奪うことになる。

定員主義では、ごく少数の人がチャンスを得るのは大多数の犠牲の上に成り立っている。これが、ゼロサム・ゲームより悲惨な、ネガティブサム・ゲームの実体である。

定員主義の世界では、社会の構成員の半数よりはるかに多くが、その能力・才能を生かせるチャンスさえ得られない。

個別化によって、ネガティブサム・ゲームからポジティブサム・ゲームに移行できる。太陽が地球を周回する宇宙から、地球が太陽を周回する宇宙へと移行できるのだ。

個別化の時代は、私たちにチャンス提供の新システムを構築する力を与える。根本的に公平なシステムを構築できる。成功するための個人の努力は必要だが、チャンスは ( 従来の鋳型に合う人だけではなく ) 誰にでも平等に提供され、一人ひとりに充足感が約束される。初めて、真に民主的な「 能力主義 」を確立するために必要なものすべてが揃った。

  • 私たちには、真に民主的な能力主義に適した「 経済 」がある。

かつてない豊富な種類の仕事が出現した。私たちに必要なのは、多様化し個別化した柔軟な経済である。この柔軟な経済によって、民主的な能力主義が生み出す多様な成功へのチャンス提供が可能になる。

  • 私たちには、真に民主的な能力主義に適した「 テクノロジー 」がある。

一世紀前には、最大手の企業が、誰もが認める標準化の主だった。今では、最大手の企業がますます個別化した経営を進めている。インターネットこそ、究極の個別化テクノロジーだ。インターネットによって、民主的な能力主義に不可欠な、個別化した学習形態と個性に合う選択肢の提供が可能になる。

  • 私たちには、真に民主的な能力主義に適した「 科学 」がある。

著者が提唱する「 個性学 」は、個人の特性を理解・評価・育成する新しい方式と数学を提供するものとして誕生した。科学者たちが、新しい研究プログラムを開発し、各分野のグループが個人の特性を理解・評価・育成することに専念している。個性学によって、真に民主的な能力主義を支える基本構造を、絶えず改良し純化することが可能になる。

時代遅れの定員主義から、真に民主的な能力主義へと劇的な移行を遂げるために必要な、ほとんどすべてのものが揃っている。欠けているものは、新しい社会システムである。新しい社会システムを受動的に受け入れるのではなく、私たちが能動的に選択しなければならない。

ある社会システムが広く受け入れられるには「 能力に対する社会的な概念 」及び「 能力のチャンス提供システム 」に大いに関係する。

社会システムの歴史

  1. 貴族社会というシステム
    「 特別な血統のみが能力を持つ 」という信念に基づき「 伝統 」を重んじ、ひいては「 誰も成功できない 」チャンス提供システムである。
    このシステムは貴族階級によって実施され、他の誰からも承認されなかった。
  2. 標準化されたシステム
    「 特別な個人のみが能力をもつ 」という信念に基づき「 効率性 」を重視し、ひいては「 不特定の誰かは成功するが、万人が成功することはない 」チャンス提供システムである。
    この定員主義は組織によって実施され、個人から承認された。
  3. 個別的な新しいシステム
    「 万人にそれぞれの多様な潜在能力がある 」という信念に基づき「 充足感 」の価値を承認し、ひいては「 万人が成功できる 」チャンス提供システムに道を開く。この民主的な能力主義は、個人から承認を受け、個人によって実施される。
  • 「 平等なアクセス 」
    標準化された成功へのアクセスを提供することに重点を置く
  • 「 平等なフィット 」
    充足感の追求を普遍的な権利として保障し、個人の成功を最大限に多様化することに重点を置く

自分が個別的なシステムを承認するには「 平等なフィット 」を個人的な公平の概念として取り入れる。しかし、民主的な能力主義が充分に機能を果たすには、私たちの組織が「 平等なフィット 」を分配することに全力を挙げる必要がある。

実際のところ、組織はどのように「 平等なフィット 」を提供できるのだろうか?

その答えは「 個別化の時代 」にある。「 平等なフィット 」こそ、正真正銘の個別化を万人に保障するものだからだ。

「 平等なフィット 」を原則とする社会では、組織は私たちの教育や労働を含む生活全般を支えるすべての対人システムを個別化しなければならなくなる。組織的なシステムやサービスは、生い立ちや年齢に関係なく、いかなる個人のバラツキのある多面的なプロファイルにも対応しなければならない。

  • 個別的なシステムのもとでは「 効率性 」ではなく「 適応性 」が組織に義務づけられる。
  • 「 平等なフィット 」と充足感を得る普遍的な権利を保障する、唯一の方法である。

個別化が真に約束するものは「 平等なフィット 」を社会全体に提供するために必要不可欠なシステムとサービスの構築である。これが実行されれば、誰もが思い通りに成功できる権限を持つようになる。

「 平等なフィット 」提供の困難さとは、個人の選択を保障することだ。

  • 選択は、充足感に欠かせないものである。
  • 選択がなければ、一人ひとりの小さなモチベーションにフィットする異なるチャンスを、発見し比較し選び取ることはできない。
  • 選択は、一人ひとりのぼんやりした強みに合う異なる戦略を自由に探し出すために必要不可欠なものだ。
  • 選択は、山登りのプロセスのナビゲーションである。

いかなる組織のシステムやサービスについても、それが「 平等なフィット 」を提供しているかどうかは、こう問うだけで判断できる。

「 それは個別化システムと個人による選択の両方を提供しているか?」

真の選択を提供するには、組織は目に見える何らかの支配権を放棄しなければならない。これによってもたらされる恩恵、個々の能力の拡大や、従業員の就労意欲と生産性の向上などは、極めて大きい。しかし、恩恵の享受には組織の首脳部が理念上の大きな転換をしなければならない。

これは、私たちが全力で促すべき転換である。さもないと、定員主義よりはるかに悪いシステムが出来上がってしまう。

個別化の時代は、かつてなく希望に満ちた画期的な時代であるが、同時にまた、とてつもない危険をはらんだ時代でもある。「 個別化を抜きにした選択 」よりはるかに抑圧的なもの、それが「 選択を抜きにした個別化 」である。

システムが自分の個性に合わせ、なおかつ、自分に本物の選択をする余地を与えない場合、そのシステムは自分をコントロールできる無限の力を持つ。

民主化に通じるはずのインターネットの潜在的な威力が、いくつかの全体主義政府によって、国民をモニタリングし、操り、抑制する前代未聞の手段として悪用されている。このまま何も手立てを講じなければ、現在の西側諸国がまさにこの状態に突き進んでいく。

大手企業は既に、個人情報を集めた巨大なデータバンクを保有している。その用途は、個人に買わせたい製品を売るために個別化した広告を流すこと。個人を特定のサイトへ誘導することだ。個別化したニュースは、個人が何を考え、どの候補者に投票するかに影響を与えている。

そして、その保有するAIシステムが、個人の知らないうちに、あるいは、個人の同意なしに、ますます風大な事柄について私たちに代わって選択する世界をつくり出している。

このような組織は、明らかに多くの点で個別化を提供したがっている。組織が個別化を与えるのは、それぞれの組織の思惑通りに、それぞれの目的を果たすためである。個別化は与えたいが、それに応じた選択権は与えたくないということだ。

民主的な能力主義においては、自分がどのような専門職に就くか、その運命をコントロールするのは自分自身である。なぜなら、自分には自分の道をコントロールする権限があるからだ。自分の思う通りに、自分流の成功を追求できる。しかし、このような自由から、ある不安を抱くようになるかもしれない。

「 自分の道を辿っていくと、最後は、たったひとりで道に立つことになってしまわないだろうか。ひとりだけの職業に辿り着いたりしないだろうか。」

標準化ではなく個別化を選択するのは、専門職のコミュニティに所属するチャンスを捨てて、ひとりきりで道を極めることのように思えるかもしれない。実際は、その逆である。真に民主的な能力主義においては、人間の多様な才能に対して、社会的な門戸が開放される。そのため、個人同士はこれまでより容易に共通の職業上の関心事で結びつくようになるし、その情熱を反映させた共同体を自発的につくれるようにもなる。

  • 充足感は、授けられるものではなく、獲得するものだ。
  • 「 平等なフィット 」を実施する真の民主的な能力主義だ。
  • 自分は、もはや、機械の歯車ではない。

本物の選択肢を提示されるとき、自分は自分の人生を本当にコントロールする権利を手にする。しかし、このように権限が増大すれば、それに伴い責任も増大することになる。

自分で選択肢を探り出す権限をもつと、自分は同時に、充足感を目指すうえで自分が下した決断に対する責任を全面的に負うことになる。

個人がそれぞれの充足感の追求を社会に対する義務と見なすことができる場合のみ、民主的な能力主義は機能する。これが、様々な組織に「 平等なフィット 」を提供するように働きかける個人的な方法なのだ。

結論

幸福の追求は、生存と自由に並ぶ至高の権利である。

幸福とは、ダークホースが定義する充足感と同義である。

  1. 幸福の追求は、人間の本質である。
  2. 人間の本質に基づく法則は、必然的に道徳的な法則になる、つまり、権利となる。
  3. 個人の権利であれば、政府によって守られるべきものだ。
  4. 幸福の追求は、あらゆる社会契約によって守られるべき個人の権利である。

ある個人による幸福感の追求は、必ずその隣人たちに利益をもたらし、その一方で、隣人の幸福感を増加させるその行為が、その本人にさらなる幸福感を実感させることになる。

「 人間には善意の原理があり、それが人間を社会全体の平等な幸福の追求へと駆り立てる 」
哲学者ヘンリー・ホームケームズ卿

「 幸福の追求 」は自分自身を知ろうとする内面への旅と、他者のために役立とうとする外界への旅とに関係がある。

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