「 世界に一つだけの花 」という解釈

社会

「 世界に一つだけの花 」という解釈

2022/3/2

車輪の再発明

ネガティブな例として、
「 新しく発明した 」と思ったら、既にあるものだった。実は、無駄なことをやっていた。その例として、車輪の再発明が用いられる。

車輪の再発明をポジティブにしてみるという試行

私は、本を読んで、文章を書いて、日々を過ごしている。私は、本から学んで、自分で考えたことを、こうやって文章にして、アウトプットすることで、自分の知識にしている。ただ、楽しいからやっているだけだ。人から言われたわけでも、お金をもらうためでもない。ただ、書きたいから、書いている。遊びだし、生き方だ。

私は、本を読んで、自分の頭で考えて、文章を書いている。
それは、例えば、お金の在り方とか、所有の在り方とかである。

お金

お金の本質
お金の本質は、銀行に表示される数字の羅列に過ぎない。私たちの仕事は、自分の時間という数字を銀行の数字に変換する作業に過ぎない。人間の行動は、数字の移動へと帰結する。
お金持ちは働いていない。働いている人はお金持ちではない。
お金をたくさん持っている人がお金持ちではない。 ましてや、お金をたくさん稼ぐ人がお金持ちでもない。 お金の無限増殖機能を使って、お金を増やし続けている資本家が、お金持ちなのだ。

所有

所有欲やモノの価値
豊かさの定義が、モノからライフスタイルへと変容している。モノから「どこで誰とどんな生活を送っているのか」ということに価値が置き換わってきている。
仕事の歴史 〜 仕事という遊び
狩猟採集時代は、すべてが共同体の共有財産であったが、農業によって所有という概念が生まれた。所有は、分業を生み、貨幣を生んだ。

私は、本をインプットとして、そこに自分の思考をプラスして、アウトプットしている。だから、私の思考は、ある意味でのひとつの発見であり、発明ともいえる。

車輪の再発明の試行

私は、様々な本を興味の赴くまま、読んでいる。すると、あるとき、私が以前、書いた文章と同じのようなことを書いている本に出会うことがある。「 私が、考えていたことは、以前に、本の著者も考えていたんだ 」と気付く。そうだ、車輪の再発明である。

私は、私の思考を通さずとも、この著者の本を読むことで、その知識を手に入れることができたのだから、私の思考は不要だったのだ。コレはネガティブな車輪の再発明である。

本当にそうなのか?

私は想う。私は、この著者の本に書いてあることを思考していた。つまり、私は、本の著書の思考の領域に達している。誰でも本は書けない。本は権威だから出版には規制がある。だから、本の著者と同等の思考を手に入れている自分を、ポジティブに捉えられる。

「 俺ってスゲーかも 」しかも、その本の著者が、自分が尊敬する人ならば、なおさらである。ましてや、歴史の偉人となれば「 えっマジで?俺、もうそこまで達した?」とかなってくる。歴史の偉人と同じ思考回路を持っているのだ、ポジティブどころじゃなくて、時空を超えたポジティブ、もう神ポジティブである。車輪の再発明は、ネガティブではなく、神ポジティブへと移管された。

私が「 車輪の再発明 」を解釈したに過ぎない。
しかし、それは、ネガティブから、ポジティブという全く正反対の結果をもたらした。

どちらかが間違っているのだろうか?

否、そんなことはない。どちらも正解なのだ。

間違いとか正解とかは、存在しない。
すべては解釈しかないのだ。

世の中は解釈次第

アンパンマンが好きな子どももいれば、バイキンマンが好きな子どももいる。バイキンマンが好きな子どもを怒るだろうか?

アンパンマンが「 正義の味方だから正しい 」というのは、大人の解釈でしかない。

  • いつも怒っているアンパンマン
  • いつも笑顔のバイキンマン

どちらが幸せな人生なのだろうか?

  • 悪に対していつも怒らなければならないアンパンマン
  • いつも自分が楽しいことをして笑っているバイキンマン

ただの解釈に過ぎない。

モノサシ

この世の中は、たくさんの人がいる、そして、それぞれが、自分のモノサシを持って世界を解釈している。しかも、そのモノサシは、一人一人違う、世界中に70億のモノサシが存在する。

マッキーこと槇原敬之は、そのモノサシを花に例えて「 世界に一つだけの花 」として、日本を圧巻した。マッキーの解釈が日本中の人たちの心を捉えた。日本中の人たちが「 確かに 」と共感した。マッキーが歌うんじゃなくて、歌が下手な中居くんがいて、歌が上手いキムタクがいて、上手くも下手でもない人もいて、そんなSMAPが歌ったから「 世界に一つだけの花 」に日本中が共感した。

私たちは、共感はできるけど、同感はできない。モノサシが違うのだから。同じモノサシはこの世界に存在しない。

私たちは「 世界に一つだけの花 」を持って生活していないけど、私たちは「 世界に一つだけのモノサシ 」を持って生活している。そして、そのモノサシは、日々、変化している。

私のモノサシでは、この服装がかわいい、私のモノサシでは、このブランドがイケてる。私のモノサシでは、、、。世間では、この服装が流行っている。世間では、このブランドが流行っている。インスタやTik TokやYouTubeからの情報で、私のモノサシは、変化していく。私たちは、一日たりとも情報なしで過ごせない、スマホなしで一日生活できない。私は、情報によって、自分のモノサシを変化させることを止められない。

  1. 昨日までの1mm幅は、今日の1mm幅と違うかもしれない。
  2. 昨日までの30cmサイズのモノサシは、今日は30.1cmと1mmだけ違うかもしれない。
  3. モノサシの変化は、私たちの変化である。私たちは、毎日、変化している。

私たちは、自分のモノサシと、他人のモノサシを比較して生活している。

  • 私のモノサシとあなたのモノサシが似ているから、楽しい。
  • 私のモノサシの幅とあなたのモノサシの幅が合うから、気が合う。
  • 私のモノサシの色とあなたのモノサシの色が近いから、仲間だ。
  • 私のモノサシとあなたのモノサシは全然違うから、興味がある。

私たちは、まず、見た目というモノサシで、他人を判断する。服装や髪型、化粧、清潔感、全体の雰囲気である。

次に、私たちは、自分のモノサシを、言葉を通して、他人に説明する。見た目だけではわからないモノサシの詳細を説明する。自己紹介のようなものだ。

私は、どこで生まれて、どんな大学を出ていて、どんな仕事をして、どこに住んでいて、どんな休日を過ごしているのか、といった自分のモノサシである。その人が「 どんな人なのか 」というモノサシは、自己紹介で話す内容からも伺える。

そうやって、私たちは、自分のことを、自分のモノサシを言葉を使って、他人に話すこと、そして、他人から言葉を通して聞くことで、理解を深める。

私たちは、言葉を使って、他人との関係を構築し、言葉を使って、仕事をして、言葉を使って、物事を考え、言葉を使って、情報を得ている。

言葉なしでは、私たちの生活は成り立たない。

私たち人類は、言葉を作り、多様化させたことで、動物を支配し、この地球の頂点へと君臨している。

私たちは、毎日、言葉を使って暮らしているけれど、解釈のモノサシは、人それぞれである。分かり合えない人たちと、分かり合えないなりに、分かり合えない中で、分かり合えないと、分かり合いたいと、毎日、思っている。でも、分からないから、自分と違うから、自分と違うモノサシという新しい視点を得ることができるのだ。

この世の中に、正解はない、解釈は、人それぞれなのだ。
でも、解釈が違う人がいるから、この世の中はおもしろい。

この世の中が全員自分と同じ考え方の人しかいなかったら?

世界は回らない。
私は恐怖しか感じない。
荒廃した世界しか想像できない。

もうひとつの視点

車輪の再発明ポジティブ論を
事実を元に客観的視点で解釈すると?

私が読んでない歴史的著書Aがある。
著書Aに感化された人が書いた著書Bがある。
私は、著者Bを読んで思考して文章Cを書いた。

A → B → C

私は、著書Aを読んだときに、私が書いた文章Cと同じ内容であることに驚く。

A = C

私は、A→Bを知らないだけだ。

A → B → Cの結果、C=Aの一部となっただけである。

転回しただけだ。

【本要約】史上最強の哲学入門
科学という学問とは「 その経験上の思い込みを絶対化している 」だけに過ぎない。人類が滅んでしまったら、私たちが世界と呼んでいるこの世界は、存在しなくなる。世界は、存在しない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました