温泉と、お金と、温泉に行くという行為

温泉

2021/3/22

文字に起こしたいという欲求

朝から、ただ、温泉に浸かって、ゆっくりすればいい、何も考えずに。

でも、考えてしまうのが人という生き物である。

そして、「その思考を、文字に起こしたい」というのが、湯浅という生き物である。

思考を文字に起こして可視化しなければ、その思考は、思考のまま失われてしまう。

「その思考が、もったいない」と思ってしまうのだ。

もちろん、その思考が可視化されずに失われたとしても、記憶のどこかには残っていて、新しく何かを考えるときに影響を与える。

「文字に起こして可視化したい」という欲求は、「温泉にゆっくり浸かること」よりも強かった。

お金の価値は、めんどくさくないこと

部屋から出るのが、めんどくさいということを、極めると、部屋から出ないでも、モノゴトが完結するということである。

例えば、温泉では

  • 部屋の外にある大浴場の露天風呂に行かなくても、部屋に露天風呂があるということである。
  • 部屋から出て食堂に行かなくても、部屋に、ご飯を運んできてもらって食べるという部屋食である。

お金の価値は、そういった、ちょっとしためんどくさいからの解放である。

めんどくさいの向こう側にあったのは、お金だった。

温泉へ行くということ

「我々日本人は、シャワーを浴びるために、旅行する」と言ったら、外国人にビックリされるだろう。

正確には、シャワーではないが、1番近い表現はシャワーになる。湯船に浸かるという文化を持つ国の方が少ない。

温泉という非日常から、家の風呂という日常は、温泉の意義を形作る。

温泉は、生活の一部である風呂に入るという行為を、野外にする事で、非日常を演出する。露天風呂こそ、野外という開放感こそが、温泉の醍醐味である。

  • 温泉は、湯船が広い。
  • 家の風呂と違って圧倒的に広い。
  • 狭い湯船に体を縮こめて入るのではなく、おもいっきり体を伸ばして入ることができる。
  • 温泉なので、身体に良い気がする。湯治という言葉があるくらいなので、身体に良いはずだ。ただ、風呂に入っているだけで、健康になれた気がするのだ。

温泉という非日常は、野外のでかい風呂に浸かって健康になった気がするということである。

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