【本要約】起源 [ ルソー ]
2022/5/5
- 『 人間不平等起源論 』
自足して生活する自然人は孤立の中にあり、言語を持たなかった。 - 『 言語起源論 』
言語によって積極的に他者との関わりを持つ。
「 人間と人間が相互に関係を結び、多くの労苦と我慢を重ね、しがらみに縛られ、ときには大きな犠牲を払いながらも、共同体を形成し、また形成し続ける 」ことに、一体どのような意味があるのであろうか。人間の共同性についての問いかけは、今も繰り返し論じられる政治思想の中心問題である。
『 人間不平等起源論 』
『 人間不平等起源論 』は、懸賞論文の課題として執筆された。
人間の間の不平等の起源は何か?それは自然法によって認められるか?
- ある土地に囲いをして「 これは俺のものだ 」と最初に思いつきで始まる「 私的所有 」である。
- 私的所有に限らず「 法律や国家 」「 貨幣や市場 」「 家族や言語 」ですら、人間の自然本性に根差すものではなく「 人為的に成立した制度 」である。
「 人間の間の不平等は自然法によって認められるか否か 」というアカデミーの問い自体を根本的に組み替える力を持っていた。
自然人 ( 未開人 ) は、自然の恵みだけで自らを養うことのできる頑健かつ充足した存在で、他者と関わることなく孤立して生活する。肉体を維持するための自然な欲求としての「 自己愛 」と、自分と似た存在が苦痛を覚えるのを見るのが辛いため、自己保存の欲求を緩和する「 憐れみの情 」を持つだけで、人間は本能のみに従って行動する他の動物と大差のないものである。
自然人は「 完成能力 」を持つという一点で動物とは異なる。
・自己を完成させる能力
・環境の助けを借りて、次々と別の能力を発展させる能力
人間は完成能力を持つため、自然的な本能に支配される段階から脱し、自然に働きかけ、世界を変化させることができる。完成能力は、人間精神の進歩の原動力として賞賛されても不思議ではない観念だが、不幸の源でもあった。
- 完成能力が偶然の力によって、休眠状態から解き放たれ、作動してしまった。
- 自然人は理性を発達させ、共同性を身につけ、社会を形成し、抑圧と不平等で特徴づけられる文明化への道に踏み出す。
・他人と協同することを覚え、さらに生産技術を発展させる。
・心情も発達し、情愛 ( 夫婦愛や父性愛 ) で結ばれる家族が形成され、言語による交流も始まる。
- 冶金と農業が発明され、文明化の勢いは止まることはなく、突き進む。
- 「 分業 」と「 私的所有 」が認められるようになると、人間の間に不平等が生まれる。
- 「 貨幣 」が発明され、貧富の差は加速度的に拡大する。
- 富者と貧者の間には、支配と隷従、暴力と略奪が生まれる。
” ホッブズが描き出した戦争状態 ” に相当するこの無秩序状態は、所有の安全を脅かすので、富者に都合の悪い状態である。
- 富者は、貧者に言葉巧みに国家の設立を呼びかけ、支配する者に有利になる形で政治社会と法律が形成される。
- 国家ができあがると「 富者と貧者 」の関係は「 強者と弱者 」の「 支配者と奴隷 」の関係となる。
- 一人の専制君主の下で、他のすべての者は奴隷となる。自然人の「 無 」から再び、奴隷の「 平等 」になるという転倒した事態に至る。
『 人間不平等起源論 』は、徹底的な社会批判・国家批判である。
逃げ場のない社会の堕落ぶりを突きつけられた状況への回答は、「 悪 ( 病 ) そのものから、悪を癒す治療薬を引き出す 」『 社会契約論 ( ジュネーヴ草稿 ) 』
それは『 社会契約論 』 で示されたようなプロセスであった。
- 人間同士の結び付きは、決して自然に根ざすものではない。
- 「 人為的に形成された社会 」や「 自然に基づかない人間の共同性 」が人間を不幸にする。
- 不幸を正すのは、自然に復帰することによってではなく、人為を別の形で完成させることによってである。
不完全な形で作動してしまった「 完成能力 」を、正しく完成させる以外に道はない。
→ 最初の人為が自然に加えた悪を、完成された人為が矯正する。
『 言語起源論 』
『 人間不平等起源論 』と『 言語起源論 』の対比
「 憐れみの情 」は、人間の心に自然に備わっているが、その働きを引き出す想像力がなければ、活動しない。
- 『 人間不平等起源論 』
「 憐れみの情 」は、動物と大差ない自然人に備わっている - 『 言語起源論 』
「 憐れみの情 」は「 社会的な感情 」であり、知識で発達していく。
言語の原型:緊急時に本能的に発せられる「 自然の叫び声 」
原始的な自然言語が、人間の観念が拡大し、相互の交流が活発化するにつれ、声の抑揚や身振りによる言語を経て、音声の分節化へと発展していく。
言語は、動物としての人間の欲求に由来するもので、当初は動物の言語と大差のないものであった。
言語自然起源説とは異なる方向を打ち出す。
人間の言語は、動物とは決定的に異なり、「 人間に固有の能力に根ざすものだ 」という立場をとる。
言語の起源
■「 視覚に訴える身振りの言語 」と「 聴覚に訴える声の言語 」とを区別する。
- 視覚に訴える身振りの言語
人間の身体的欲求に由来するもので動物にもみられるもの - 聴覚に訴える声の言語
約束事としての言語で、精神的欲求 = 情念に由来する人間に独自のもの
■ 身体的欲求と精神的欲求の違い
- 身体的欲求
男女が自然的本能で場当たり的に交配する - 精神的欲求
恋愛感情によって交配する
- 身体的欲求は、人々を離ればなれにし、精神的欲求は、人々を近づけ結びあわす。
- 人間の言語は、身体的欲求ではなく、精神的欲求を起源とする。
- 言語は、人間の社会形成と同時に成立した。
言語も「 憐れみの情 」と同様に自然に根ざすが、自然人の間に存在したものではない。
- 言語は、人間の完成能力が作動し、人間が社会を形成し、精神的な欲求を持つようになった後に、誕生した。
- 人間同士が、お互いを意識し「 関係を切り結びたい 」という欲求を持つに至ってはじめて、相互の交流を実現し促進する言語が発達した。
「 自分自身の外に出て、苦しんでいる者と一体化する 」という高度に知的な能力である「 憐れみの情 」が発達し、人間の共同性を支えていく。
『 言語起源論 』の冒頭
「 言葉は、動物の中で人間を特徴づけ、発話は、諸国民を互いに特徴づける 」
人間の精神的欲求を元に形成された言語
・欲求の種類が異なるのに応じて、その性格を異にする。
・欲求が変化するのに応じて、変質する。
- 過酷な風土に生きる北国の人々の最初の言語は「 手伝って 」である。
- 穏やかな南国の人々のの最初の言語は「 愛して 」である。
感覚への手段
- ある人間が、他の人間に「 自分が感じ考える存在で、その人の同類だ 」と認められる
- すぐに「 自分の感情や考えをその人に伝えてみたい 」という願望や欲求が起こる
- 自分で、その手段を求める
- この手段は、感覚しかない
- 感覚は、人間が他の人間に働きかけることのできる唯一の道具である
- 思考を表現するための感覚記号が確立されてくる
そんな推論を立てて、人々は言葉を使い始めたのではなく、本能がそういう結果を思いつかせたのである。私たちが、他人の感覚に働きかける手段は「 動作 」と「 声 」の2つに限られる。
「 動作 」の場合
- 触れることでは直接的に作用する
腕の長さが限界だから、離れていては伝えられない - 身ぶりでは間接的に作用する
視線の届く限り、遠くまで送ることができる
「 声 」の場合
- 音の届く限り、遠くまで送ることができる
「 身ぶりの言語 」も「 声の言語 」も、どちらも自然に生まれた。
「 身ぶりの言語 」の方がより簡単であり、約束事が少ない。耳よりも眼の方に、たくさんの事物が訴えてくるし、音よりも形の方が、はるかに多様だからである。形は、表現力に富み、短い時間でより多くのことを表わす。
- 眼に見える記号は、事物をより正確に写しだす。
- 音声は、感情により訴えかける。
もし、私たちに身体的欲求しかなかったとすれば、私たちは一言も話すことなしに、ただ「 身ぶり言語 」だけで完全に理解しあうことが、十分できていただろう。そして、今、現にあるのとほとんど変わらない社会をつくりだしていたであろう。
人間に固有な能力があったから、器官を伝達に役立てるために用いさせている。もし、それらの器官が人間に欠けていたとしたら、人間に固有な能力は、同じ目的のために人間に別の器官を用いさせたはずだ。
動物には、伝達のための身体組織が十二分に備わっているが、どの動物もそれを役立ててはいない。動物の言語は、いずれも自然のままであって、習得されるのではない。自然の言語を語る動物は、生まれたときから、その言語を所有し、また、その種全部が、どこでも同一の言語を持っている。動物たちは自分の言語を変えないし、ちょっとした進歩でさえも見られない。
言語起源前
言語の起源は、どこに発しているのか?
精神的欲求 = 情念からである。
生きていく必要に迫られて互いに遠のいていく人々を、あらゆる情念が近づける。飢えや渇きではなく、愛や憎しみが、憐れみや怒りが、人々に初めて声を出させたのである。
- 果実は人々の手から逃げ去るものではなく、何も言わなくても、果実を食べることができる。
- 捕まえて腹をふくらませたい獲物が現れても、黙って追跡できる。
心を動かしたり、不当に攻撃してくる者を撃退したりするためには、抑揚や叫び、あるいは呻き声が自然に出てくる。それこそが、最も早くつくりだされた言葉である。最初の言語は、単純で整然としたものであるより先に、歌うような、情熱的なものだったのである。
もっとも、すべての言語が区別なくそうであるわけではない。
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