所有という概念は、不自由の証である。
2021/8/12
高速道路のサービスエリアで、目の保養をしようと思って、バイクの駐輪場に行った。
バイクを見て、ハーレーを見て、「やっぱり、ハーレーってかっこいいなー」とおもう。
コレがベストである。
ハーレーは、目の保養である。
ハーレーは、所有するモノではない。
乗りにくいし、駐輪場は中々ないし、燃費も悪い。
ハーレーは、愛でるモノだ。
ハーレーは、目の保養である。
ハーレーは、所有するモノではない。
乗りにくいし、駐輪場は中々ないし、燃費も悪い。
ハーレーは、愛でるモノだ。
所有についての概念の変容である。
所有するということは、そのまま、荷物が増えるということである。
服やバックは、ひとつひとつは小さいが、量が増えると、大きな荷物になる。
車・バイクは、大きい。存在するだけで、駐車場が必要である、固定費がかるし、税金もかかる。乗ればガソリンが必要だ。便利な分、費用がかかる。そして、売ったり、処分したりする際にも、手間がかかる。すぐに、簡単には、できず、時間がかかる。
家は、大きいし、人生最大の買い物というくらいには、高い。大衆は多額のローンを背負って、家を買う。家も存在するだけで、税金がかかる。売ったり処分するのも、1番手間がかかる。
世界一周前に、身軽になるために、車・バイク、家具・家電、本当にいろんなモノを手放した。時間も手間もかかった。その時から、所有の概念が変化しはじめたのかもしれない。
人によって物欲の強度は異なれど、多くの人々が持つ欲求である。
今、物欲がなくなってきた。
物欲を刺激する情報に触れないようにしていることも、関係あるんだろう。
そして、たくさんのモノを所有することは、自由度を下げる行為だなとおもう。
例えば、リュックひとつで旅行するのと、大きいスーツケースで旅行するとき、どちらが自由度が高いかは自明だ。
だから、モノが少ない方が、自由度が高く動き回ることができる。逆に、モノが多いと自由度が低くなってしまう。自由度が低いというのは、不自由であるということだ。
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