ペットボトル革命
2022/3/16
お茶の変化
昔、ペットボトルは、なかった。
自販機の飲み物は、瓶か缶に入っていた。
1.5Lのコーラは瓶に入っていいたし、ジュースはカンカン、缶だった。
科学の発達によって、技術が進み、安価で大量のペットボトルが製造されるようになった。
瓶に入っていた1.5Lのコーラが、まず、ペットボトルになった。
そして、500mlペットボトルのコーラが誕生した。
ペットボトルが誕生するまでは、ジュースが缶の時代は、人は、自販機でジュースを買って、自販機の前で、ジュースを飲んで、空き缶をその場でゴミ箱に捨てていた。だから今でも自販機の前にゴミ箱がある。昔の名残だ。今は自販機でジュースを買っても、その場で飲むことも少ないし、そもそもその場で飲んでしまう系の飲料は少ない。「 自販機の前でジュースを飲む 」という文化は廃れてきている。
ペットボトルという技術革新は、飲み物の在り方を変えた。ペットボトルが起こしたイノベーションは「 その場で飲まなくても、持ち運べる 」という文化である。缶ジュースは飲みかけを持ち運びにくかったが、ペットボトルは容易に持ち運べる。
今、自販機の前でジュースを全部飲まなくていい。今でこそ、当たり前の文化であるが、それが人々の行動変容だけでなく、考え方まで変えてしまったのだ。
ジュースしかなかった自販機にペットボトルに入ったお茶が登場した。
それまで、お茶は家で飲む物で、どこかへ行くときには、お弁当のときは、水筒にお茶を入れて持って行くのが常識だったのだ。しかし、ペットボトルの登場で、いつでもどこでも、お茶が手に入るようになった。家から水筒で持っていかなくても、簡単に買えるようになった。
では人々は一斉に、お茶を買うようになったのか?
そんなことはない、これまで、お茶は家で飲む、ほとんどタダの飲み物だったのだ。それを「 お金を出して買うのはもったいない 」と考えるのは当然だ。
しかし、水筒を忘れたとき、水筒のお茶がなくなったとき、水筒のお茶がぬるくなったとき、何らかのきっかけで、お茶を買う。冷たくて美味しいお茶が100円くらいで買える経験をする。
人は、一度、経験してしまうと、ぐっとハードルが下がる。二度目のハードルはないに等しい。超えるべきは、最初の一歩目だけなのだ、あとは、なし崩し的に、受け入れられていく。
ペットボトルという文化によって、お茶は、まさにお茶の間を飛び出し、世間を圧巻した。
今では、 外で「 ペットボトルのお茶を買うことに抵抗がある」と言ったら「 常識がない 」と思われるに違いない。そうやって、人々は、常識を覆して反転させ、文化を形成していく。
お茶は「 家で飲むもの 」という常識は、ペットボトルの登場によって、いつでもどこでも飲めるようになり非常識となった。
ペットボトルの登場前は「 外で、お茶をお金を出して買う 」という常識は存在せず、「お茶は、家で、ほとんどタダで飲むもの 」というのが常識だったのだ。
常識と非常識が転換しているのだ。
人は自分の中に常識と非常識を内包させている矛盾した存在なのだ。
ペットボトルのお茶が登場してから、それを受け入れるまでの時間が長かったに過ぎない。
常識が非常識に、非常識が常識になった事実は変わらない。
時間を微分してしまえば、昨日と明日で言っていることが、昨日の常識と今日の常識が異なるということだ。
社会の常識
5年前に「 日本人は、花粉症でなくても風邪を引いていなくても、1年中マスクを付けるようになる、すべての人が 」と言ったら、笑われるのだ。
そんなことは、5年前には非常識だったのだ。
今は、マスクをつけていないことが非常識なのだ。
常識は誰が決める?
社会が決める。
社会とは何だ?
社会とは人の集団だ。
人の集団の様子を報道するのは、テレビである。マスメディアである。
人は食べる食べ物で、肉体が作られる。人は摂取する情報で、精神が作られる。
マスメディアによって作られた常識の中で
「 自分はオリジナルの価値観がある 」と言って、
「 自由意志がある 」と言っているのが、
社会人なのである。
そんなことは、社会の中の存在のまま、見えるわけがない。
② そして、多角的な視点を手に入れるために、ただ、ひたすらに、本に頼る。
③ 全ての本が良いわけじゃないが、少なくともマスメディアよりはいいだろう。
本を読んで成功した人はいるけど、テレビを見続けて成功した人はいないだろう?
テレビを見て成功するならば、今頃、すべての人がお金持ちだ。
私は、子どもの頃「 皇太子の結婚相手の家にはテレビがない 」と聞いて、非常に衝撃を覚えたことを記憶している。その当時の私にとっては、テレビは常識中の常識だったのだ。今の私にはテレビは非常識である。大衆扇動のためのプロパガンダのテレビが「 皇太子の結婚相手の家にはない 」のは当然だろうと、今ならわかる。
私も昔はテレビが常識だったし、今はテレビが非常識だから、常識と非常識を内包する矛盾した存在である。
私は、テレビという常識を捨て、マスメディアから離れ、本という常識を得た。昔から、知識人・偉人は、本を読んでいたし、そして、歴史に名を残した人たちの本は時代を超えて、数千年の時を超えて、現代へと受けつがれている。昨日、今日変わる常識などではなく、人間の芯を食った本だから、時代を超えて読み継がれている。
ただ、少なくとも、世界はピラミッド型で形成されている事実は、時代を超えない。ピラミッドの底辺の大衆によって、その上の権力者が支えられてるのは、どんな時代も変わらない。そして、これから先の時代も変わらない。権力者はその影響力を手放さない。
ピラミッドの中にいたんじゃ、ピラミッドを見ることはできない。少なくとも、ピラミッドを映す鏡が必要である。その鏡を探すことが、自分の精神を取り戻す方法である。
無料が有料になるということ
やがて、それは、無料の水へと波及していく。
水道水が、水が無料じゃなくなった。
スーパーで、水を買うようになった
米を買った水で、炊くようになった。
「 無料のモノを、お金を出して買う 」という文化への改変ほど、難しいモノはない。
政府の力
今、自分が「 無料だ 」と思っていたモノにお金を払わなけばならない。
コンビニやスーパーで無料だったビニール袋にお金がかかるようになった。
② 過重包装が、簡易化されることへの民の影響は少ない。
③ 民に影響を与えてこそ、政府なのだ。
だから、本質は問題ない。
弁当の箱、肉や魚の下の白い皿は、問題にしない。そんなことをしたら、コンビニや弁当屋やスーパーから、総スカンを食らってしまい、次の選挙に影響する。そんな暴挙には出ない、政治家も、人の子だ、我が身は大切だ。
ビニール袋を狙いを定めた。
ビニール袋と食べ終わった弁当の箱のどちらが、環境に影響があるのかは、言うまでもないことだろう。
正しさとか、本質とかは、問題じゃない。
政治家も所詮、資本主義の住民だ。別に、この世の中をよくしたいわけじゃない。
本当に環境のことを考えるなら、過重包装を、弁当箱を、白い皿に焦点を当てなければ、意味がない。でも、そんなところには、手を出さない、火傷するからだ。影響が大き過ぎるからだ。
買い物袋を持ち歩くようになった。
人々の生活が変化した。
「 無料だ 」と思っていた、コンビニの袋が、有料になった。
コンビニは、コンビニエンスストアじゃなかったのか?
便利な店じゃなかったのか?
どこか一つのコンビニが、ビニール袋を無料にしたら、少し離れていても、そのコンビニに行くだろう。コンビニは至るところにある。そして、人はビニール袋のことなんか気にして買い物をしたくない。ビニール袋をくれる便利な店に行くだろう。
コンビニの再定義は簡単だ。
ビニール袋を無料にすれば、そこは、便利な店、コンビニである。
その分、言い訳が必要になるから、過重包装をいくらか、マシにすればいい。
本質に切り込めばいい。
本来の正しいアプローチである。
② 私たち現代人の精神は、情報によって作られる。
③ その情報は、政府の管理下のマスメディアによって、統制されている。
④ マスメディアの情報は、事実だけではなく、必ず価値判断が含まれる。
- 温暖化という事実だけではなく「 温暖化は良くない 」という価値判断がセットになって伝えられる。
- SDGsだけじゃなく「 ビニール袋は環境に良くない 」という価値判断がセットになって伝えられる。
「 弁当箱はいいのか?」という事実に気付くことが、本質を見抜く足掛かりになる。
そして、マスメディアが作り出す常識には、必ず、利権がある。
金が動く。
私たちは全員がもれなく資本主義の住人なのだから。
誰も、22円の価値しかない一万円札を「 22円の紙だ 」と言って破り捨てることなんてできないのだから。
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