物理的時間と感覚的時間

湯浅

物理的時間と感覚的時間

2020/9/26

感覚的時間とは?

最近、一週間が速い。それは、毎日、同じような行動をしていて、新しい発見や、新しい刺激がないからだ。

物理的時間と感覚的時間は違う。物理的時間 は、時計の針の時間であり、みんなに、一律、平等な 絶対的時間 である。感覚的時間 は、人それぞれが持っている 自分の中での時間 軸である。

どこかに出かけるときより、帰ってくるときの方が、時間が短く感じることがある。それは、出かけるときは、未知の体験であり、帰ってくるときは、既知の体験であるからだ。既知の体験というのは、もちろん、出かけるときの体験である。

人は、脳の構造上、未知の体験の方が、長く感じる ようにできている。1年間の世界一周の1日は、1週間は、長かった。それは、ほとんど毎日、未知の体験の連続だったからだ。

海や、山の中で過ごすとき、人間社会から距離があるときも、感覚的時間が長くなる。

仕事中の夕方、日曜日の夕方、ビーチで夕日を眺めている夕方は、だんだんと感覚的時間が長くなる。

友達、恋人、家族と過ごして、楽しくて、時間があっという間に過ぎてしまうということがある。

本来であれば、楽しい時間は、感覚的時間が長くなっているはずである。しかし、その楽しさをもっと味わっていたい、名残り惜しいという感情によって、感覚的時間が歪められて、短く認知される。

感覚的時間の最大化

人は、本来は、感覚的時間で、生きてきたはずである。腹が減れば食べ、夜になれば眠り、朝になれば起きるという自然の摂理に従って生きてきたはずである。いつのまにか、時間という概念を発見してしまった結果、物理的時間の中で生きているだけである。

人生にはいつか、終わりが来る。これは、誰にも変えることのできない事実だ。人生を最大限に楽しむためには、人生の時間の最大化が必要 である。

物理的時間は、変えられない から、そこに価値はない。所詮、誰かが便利にするために決めたモノサシである。

感覚的時間の最大化 である。感覚的時間は自分の感覚なので、いかようにでも、できる。

感覚的時間の最大化は、毎日、違った1日を送ることである。毎日、知らない街へ行き、知らない街を歩く。考えただけで、身震いしそうな、楽しそうな日々である。そうやって、人生を死ぬまで旅し続けられたら、どんなに楽しいだろう。

そんな壮大なことじゃなくてもいい。ちょっとした習慣を変えることでもいい。

毎日、通勤する道を少し変える。一駅先まで歩いてから、電車に乗る。会社の一駅手前で降りて、歩く。

いつもの同僚じゃなく、あんまり話したことない同僚とランチに行ってみる。

残業せずに、まっすぐに帰る。残業せずに、本屋に寄って、本を買って帰る。外食せずに、自炊してみる。

SNSを見るだけではなく、自分で投稿してみる。別に、今すぐにできる、ほんの小さなことでいい。

そのちょっとしか習慣の変化が、感覚的時間を少し長くしてくれるはずだ。

湯浅は、八王子に飽きたので、引越しして、環境を丸ごと変えようと思ってる。そしたら、しばらくの間は、その街に慣れるまでは、感覚的時間を長くできる。

湯浅は、無職だし、新しく家を借りるのは、難しいとは思うけど、できないと悲観するのではなく、やってみてから考える。行動してから、考える。

引越しは、めんどくさい。だけど、日々の感覚的時間の無駄遣いほど、人生を浪費していることはない。多分、人生は、おもっているより、長くない。

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