知識の大衆化

知識

評価経済社会からの思考

【本要約】評価経済社会 ( 岡田斗司夫 )
「 考える 」という行為自体、必ず「 学んだ言葉 」を使うことが前提だ。 「 学んだ言葉 = 誰かが使った言葉 」である。 言葉を模倣し、使いこなすことを、私たちは「 考える 」と呼んでいるに過ぎない。

2022/1/27

知識の大衆化

ルネサンス以前は、聖書はラテン語で記された貴重品であったが、活版印刷によって一般化されたことによって、キリスト教の矛盾点が明らかになった。産業革命が起こった。

江戸時代に、朱子学を官学として推し進めた結果、朱子学の教えと江戸幕府の矛盾点が明らかになった。倒幕運動が起こった。

知識が大衆化されることで、曖昧な概念が明確になり、大衆の中で、矛盾に気付く人々が出てくる。

インターネットによって、様々な知識に容易に接することができるようになったことで、資本主義という矛盾に気付く人が出てくる。

私たちが過ごしている現代は、革命前の夜明けなのかもしれない。

主体の大衆化

中世のルネサンス時代以前は「 キリスト教会は私たちを幸せにしてくれる 」と考えていて、主体というモノが存在しなかった。しかし、ルネサンスによって、人々は、主体を手に入れた。「 主体を持つ 」という運動が、ルネサンスとも言えるかもしれない。

江戸時代では、身分制度の中で、ムラ社会の中で、共同体の一員としての個体であった。「 朱子学によって、幕府の矛盾に気付いて倒幕運動を興す 」というのは、まさに、主体性の獲得による成果であろう。

私たちは、自分が主体を持って生きている現代に疑問を持たない。しかし、主体は人類が進化の過程で手に入れた意識である。

私たちは古代から、ムラ社会の中の一員として暮らしていた。社会の一員であることに疑問を持つこともなく、社会の一員としての役割を果たすことが自分の使命であった。社会からの追放 = 死を意味した。だから、主体という意識はなく、社会の一員、全体の一部としての意識であった。その意識は、ずっと続いていた。

ムラ社会のトップである、王族や貴族にだけあった、主体という意識が、時代の変化、ルネサンスや明治維新によって、大衆にまで降りてきた。主体の大衆化である。

その結果、私たちは、自分という主体を意識できるようになった。

「 私は自分であり、私は自分の人生を自由に決めて生きていい 」

主体がなかった時代

「 私は社会の一部であり、私は社会の一部としての役割を果たして生きる 」

実は、主体は、進化の過程に得た能力ではなかった、時代の変化がもたらした成果であった。

主体は、時代、表現を変えると、知識、つまり、教育によってもたらされた意識である。

私たちが常識だと思っている、主体という意識は、時代や教育や知識の産物である。「 私が自分である 」ことは、近代化におけるひとつのゴールなのである。

私たちは暗闇の中にいる。懐中電灯で目の前を照らしている。その灯りが照らす所以外は、真っ暗で見えない。懐中電灯をもうひとつ使うと、灯りが照らす範囲が2倍になり、モノゴトが実像がハッキリしてくる。世界が明瞭になる。

知識とは、懐中電灯のようなモノだ。

懐中電灯の数を増やしている内に、気が付けば、夜が明けてきて、すべての世界が少しずつハッキリしてくる。それは、時間の経過によって夜が明けるのではなく、懐中電灯を増やしていった結果として、夜が明ける。

ただ、待っていても、世界のモノゴトが見えてくるわけではない。知識を増やしていくことで、懐中電灯を増やしていくことで、見える世界が広がって、その結果、夜が明けるのである。

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