【本要約】日本人のための宗教原論 ( 小室直樹 )

【本要約】日本人のための宗教原論 ( 小室直樹 )

2021/12/3

世界の宗教

今の代にし 楽しくあらば 来む生には
蟲にも鳥にも 吾はなりなむ
大伴旅人 ( 万葉集 )

この歌をきいて、外国人はみんな驚愕する。死生観は宗教が決める。来世に、関心をもたない人は、いない。日本人だけが例外である。だから、日本は無宗教国になった。

宗教という言葉は、明治時代にreligionの訳語として誕生した。もともとのreligionの意味は、繰り返し読む。欧米では、生まれたときから、キリスト教がそこにあり、聖書を繰り返し読む。

「世界は一つになった」と言われるが、宗教を理解しないと世界の人々と付き合っていけない。宗教によって生き方が決まる。宗教が違えば、当然、生き方が違ってくる。

  • 世界の人々は、「この世がどんなに苦しくとも、来世でよいところにいく」ために努める。
  • 日本人は、「この世が一番よくて来世なんかどうでもよい」と考える。

ユダヤ人は、虐殺・迫害・追放の連続であった。だから、優れた宗教を生んで、世界諸宗教の母体となった。

インド人は、「この世の本質は苦である」と思っていた。

仏教伝播の跡をたどってインドから中国へ来ると、「この世は楽しい」という気持ちが目立つようになってくる。「人生は皆苦」だとは思わず、「自分たちの官僚制がよい制度だ」と思っている。

「この世が都合いい」と思って、世にあまり関心のない中国からは、インドやユダヤほどの宗教は生まれなかった。

「この世が最高だ」と思っている日本は、当然、無宗教国になった。

資本主義もデモクラシーも近代法も、深くキリスト教に根ざしている。

・キリスト教の愛は、イスラエルの宗教の苦難の僕 ( しもべ ) から生まれた。
・仏教の「空」は、人類が到達した最深の哲理である。
・イスラム教は、仏教・儒教・キリスト教と違って、ユダヤ教と共に、宗教的戒律・社会規範・国家の法律が全く同一である。
仏教は実在論を否定する。
人間の心の外に実在するものは何もない。
仏教の思想の根底は空 ( くう ) である。

仏教の僧侶は、一切の経済行為は厳禁であった。そのため、僧侶の必需品はすべて、喜捨によって賄われていた。

旧約聖書のヨシュア記
神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。

民「主 ( 神 ) は、カナンの地を約束して下さいましたが、カナンの地には異民族がおります」
神「異民族は皆殺しにせよ」

神の命令は絶対であり、絶対に正しい。異民族を皆殺しにしないと神の命令に背いたことになり、罪になる。だから、イスラエルの民は、神の命令に従って、異民族を皆殺しにした。
日本では、仏教・神道、近世以降は儒教が、混在している。
輪廻転生は、ヒンズー教
十二支・七夕は、古代インド宗教
大安・仏滅という六曜は、道教
※日本人は、教会で仏滅を避けて結婚式をする特殊な民族である。
  1. マックスヴェーバーは宗教をエトス ( 行動様式 ) と言った。
    人間の行動を意識的・無意識的に動かしているものをドイツ語でエトスと言う。
  2. エトスは、英語ではethic、sを付けると「ethics:倫理」という意味になる。
    エトスは、倫理道徳や習慣風俗も含んでいる。

日本人は「無宗教」という言い方をするが、どこか特定の宗教に属していないだけで、独特のエトス( 行動様式 ) を持っている。それに対して、山本七平は「日本教」という社会的な位置付けをした。

エトス ( 行動様式 ) という定義は、イデオロギー ( 社会的観念 ) も宗教の一種として解釈できる。

マルキシズム・資本主義・武士道も宗教の一種である。

日本では「常識」という明文化されない空気が、一種のイデオロギーの役割を果たしている。日本は、常識教という宗教に支配された国家である。

宗教の分類

啓典・非啓典

宗教分類 ( イスラム教徒による宗教分類 )
 啓典宗教
  ・ユダヤ教
  ・キリスト教
  ・イスラム教
 非啓典宗教
  ・仏教
  ・儒教
  ・道教
  ・法教
  ・ヒンズー教

啓典は最高経典であり、絶対であるか ( ユダヤ教・イスラム教 )、ほとんど絶対 ( キリスト教 ) である。

啓典宗教
 ユダヤ教
  ・トーラー
  ・モーセ五書
  ・旧約聖書の最初の五巻
 キリスト教
  ・福音書
  ・新約聖書の四福音書
 イスラム教
  ・コーラン

啓典宗教は、神の存在が根源になっている。
啓典が絶対である、ユダヤ教・イスラム教では、啓典は、神の命令 ( 神との契約 ) である。

仏教の経典は膨大である。釈迦入滅千年以上も後にも続々と作られているが、経典の中に込められた宗教的価値が問題なのであって、方法論的には誰が作ってもよい。「如是我聞」=「このように私は釈迦から聞いた」と最初に書けば何でもお経になる。だから、仏教の経典の無限の成長を許したのだ。啓典が確定している啓典宗教とは根本的に違う。仏教では、根本的論理だけが絶対である。

仏教の根本的論理
・「原因があり結果が生ずる」という因果律
・実体は存在せず「すべては仮の姿の相互連関である」という空

救済

救済
 個人救済
  ・仏教
  ・キリスト教
  ・イスラム教
 集団救済
  ・ユダヤ教
  ・儒教
儒教のイデオロギーは、政治万能主義である。

中国では、儒教が担わない個人救済を、仏教や道教が補っていた。

仏教では「生まれ変わるのは業 ( カルマ ) があるからだ」とする。
一神教には、終末に当たって、最後の審判という最終裁判がある。

終末に当たってすべての人間が最終裁判を受ける。最後の審判の結果がどうなるかが、一神教徒にとって最大の問題なのである。

  • イスラム教では「コーラン」には「最後の審判がいつやって来るか」は何も書かれていない。
  • イエスは「終末は今すぐ来る」といっている。これがキリスト教の終末論の特徴である。
キリスト教の救済

最後の審判が始まる。ところが、人間はすべて罪人だ。100%完璧な善人はいない。

救済の条件
・イエスの信仰
・人々への伝道

人々に信仰を伝道することに全身全霊を打ち込んで、他のことは一切考えない。
ただひたすら、急いで急ぐ = 行動的禁欲

一神教
神は、天地とその間にあるすべてのものを創造した。
もちろん、天地にある法則も創造した。
法則は、神が定めたから、人間が変更することができない。

奇跡で法則を変更できるなら、神の力を宿していることになる。キリストが神として扱われる由縁である。

イエスの信仰だけで救済されるのがキリスト教である。
語らない

キリスト教は、最後の審判で、無罪になった人は、神の国に入って永遠の生命を与えられる。しかし、神の国の概要は一切明らかにされていない。わからないとき、人間は勝手に妄想するのだ。

仏教の法華経について研究した江戸の国学者は「法華経は、効能書きだけで薬のない薬箱だ。法華経は、最高といっているだけで、内容は何もない。」何もないからこそ「法華経は万能だ」と人々は思い込む。

何か具体的なことが書いてあれば、結局、それだけかとなってしまう。
何も書いてないということは、すべてが書いてあることの裏返しである。

マルクスは「資本主義を打倒しなければ失業はなくならない」と説いたが「社会主義にしたら失業がなくなる」とは説いてない。何も説いてない。社会主義になったら大失業になったが、マルクスは嘘をついていない。

宗教ごとの救済
  • キリスト教の救済は、最後の審判の結果
    無罪を宣告されると、神の国で永遠の生命を謳歌する。
    有罪を宣告されると、永遠の死滅で存在しなくなる。
  • 仏教の救済は、輪廻からの解脱であり、生まれ変わることもなく存在しなくなることである。

宗教によって、価値観は180度異なる。

「天国も地獄もよくわからない、また生まれ変わりたいし、人間界に生まれたい」くらいの人は、仏教を信仰して、現世で、徳を積むのが適切だ。輪廻解脱するほど悟れたのは、史上で釈迦だけだから、私たちには到底無理なので「輪廻解脱できるかも」と心配しなくていい。そもそも、私たちは俗世を捨てて出家しない。

宗教理解

宗教の理解には、ユダヤ教・イスラム教が役立つ。この2つの宗教は、宗教の戒律・社会の規範・国家の法律がすべて一致する。人々の生活規範がすべて矛盾なく関連している。

キリスト教・仏教は「矛盾がある」ということだ。

儒教は、道徳基準であって、宗教ではなく、儒学としてて、私たちは捉えている。儒教は葬式がないから、宗教として馴染んでいない。

日本人は、自ら意識しなくても仏教徒になっている。日本語は、仏教用語を多分に含んでいる言語だ。因縁・寿命・分別、安心・平等・工夫といった一般用語になっており、宗教を意識しなくても、仏教は身近な存在である。

キリスト教 〜 神の命令のみに生きる

キリスト教の思想

  • キリスト教は、イエス・キリストの教えである。
  • 仏教は、釈迦の教えではない。
仏教:法前仏後
・仏教の道理は、法 ( ダルマ ) が前にあって、仏は後から付いて来る。
・釈迦は、法を発見したのであって、法を作って教えたわけではない。
・釈迦は、そもそも人間であって、神ではない。
キリスト教:神前法後
・イエスという神がいて、神の教えがキリスト教である。
・神がいて、神の教えである法がある。
イエスは「願えば必ず叶えられる」という真理を発見した。
何事であれ「祈り求めることは、既に叶えられた」と信ぜよ。
そうすれば、その通りになるであろう。

「祈れば必ず叶えられる」というのは理解が難しい文章ではない。
しかし、この大発見に至るまでに、ユダヤ教は何千年もの年月を必要とした。

キリスト教の根本教義
「神を愛し、隣人を愛せよ」
  • 愛とは、キリスト教独自の愛であり、アガペーという。
    アガペーは、無条件で、無限である。
    人間は、神の無条件・無限の愛によって救済されるから、人間の愛も無条件・無限でなければならない。
  • 仏教の愛は、愛欲・妄執を意味しており、アガペーとは、正反対の意味である。
神という自分とは異なる視点を認識する。
神を信仰することで、神から見た新しい視点を手に入れる。
神を信仰することで、神の言葉を自然に受け入れる。
神の言葉を受け入れることで、神の言葉は実現することを信じる。
神が奇跡を起こしてでも実現することを信じる。
神が、自分のことを予言したら、自分に起こる未来を信じる。
神の御加護を信じる
神によって、自分が信じられる。
神という見えない想像を信じることを通して、自分を信じる。
神を信じる
=神の言葉を信じる
=神の言葉は実現する
=神の奇跡を信じる
=神の御加護を信じる
=神による自分の未来を信じる
=自分を信じる

神とは自分を信じるための手段の一つである。逆に、それほどまでに、私たちは自分自身を信用していないということだ。

神の言葉は、どんなことでも、必ず実現する。神は不可能を可能とし、奇跡を起こして、その言葉を具現化する。

仏教は実在論を否定するが、一神教の基礎は実在論にある。

神は在る。はじめに神が実在して、他のすべての実在するモノを創造したのであり、生命が在るものモノは、すべて神より生命を吹き込まれる。

キリスト教は、行為ではなく、すべて信仰である。いかなる修行も善行も必要ではない。その行為に煩わされて神の信仰が揺らぐようならば、有害ですらある。救済は信仰によって得られる。

イエスが十字架上で死ぬことによって、本来、罪人である人間の罪を贖った。だから、人間は神の前で正しい者とされ、神の恩恵を得て救われる。

神への贖罪をしたイエスがいる。そのイエスを信仰することで「神への贖罪の恩恵で救済されよう」という立場である。

他人に罪の責任を負わせることができるのか?という疑問が生まれる。
「キリスト教徒が、イエスに罪を転嫁する」という無責任を神が許すのか?という疑問である。

キリスト教の根本教義
「救世主の受難」
キリストの贖罪死によって、無条件で無限なアガペーが発動されて、原罪は赦された。

イスラエル宗教

ユダヤ教以前のイスラエル宗教の時代において、祭祀における犠牲による贖罪は神との交換行為であり、利己心の現れである。しかし、絶対神は条件を嫌う、愛は無条件でなければならない、報酬ではなく倫理の裏付けが必要だ。

イスラエル人の信仰の父アブラハムは「一人息子を犠牲に捧げよ」という神の命令を信仰において実行しようとした。他者の犠牲ではなく「自分の犠牲によって罪を贖う」という思想が生まれた。それが拡張して、神の子へと変換された。

旧約聖書は、イスラエルの民の神への反抗という罪と、それに対する神の罰の歴史である。預言者モーセは、民と神の間に苦しみながらも尽くした。モーセは預言者の元祖であり、原型・プロトタイプである。

一神教は、預言者の活動によって、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教へと変遷していく。

イスラエルの王と民は、神との契約を守らなかったので、バビロンに捕囚され、やがて、流浪の民となる。イスラエルの民は、罰として賎民という悲惨な境遇に堕とされた。この境遇から脱するには、新預言者が現れ、神と契約をやり直して、この新契約を忠実に守る。今は、賎民であるイスラエル人は、この新預言者 ( 救世主 ) に率いられて、世界を征服して、その主となるであろう。

この救世主による新契約 ( 契約の更改 ) とは、「世界 ( 秩序 ) を根底から覆し、賎民が主となる」という思想である。革命思想の事始である。

原罪

エデンの園に住んでいたアダムとイブは、神の命令に逆らって禁断の果実を食べて楽園から追放された。

神の命令に逆らった罪に対する罰が死である。
  1. アダムとイブとが神の命令に逆らったことが、人間の罪の始まりであるから、原罪という。
  2. 先祖であるアダムとイブが犯した罪によって、人間は生まれながらにして罪を背負う
    この罪の罰が死である。

仏教では、因果応報という法 ( ダルマ ) ですべてが決まるので、という概念はない。

原罪
・西のキリスト教 ( カトリック・プロテスタント ) 限定である。
・東のキリスト教 ( ギリシャ正教・ロシア正教 ) にはない。
・もちろん、イスラム教にもない。

東のキリスト教
①神は人間を善なる者として創造した。
②人間が堕落するのは、自分の意志で神に背を向ける行為をするからだ。
③罪は、人間が堕落の行為をすることで生じる。
④人間には自由な意志があり、信仰のみでなく、行為にも責任を負う。

現在は、キリスト教文化に包み込まれてしまった世界である。
資本主義も、民主主義も、自由主義も、キリスト教の土台の上で成り立っている。

仏教は、人間の死は必然であるとしているが、キリスト教では、人間の死は原罪に対する罰であるとしている。
  1. キリストの贖罪死によって人間の罪が赦されたのであれば、人間は死ななくなるが、現実はそうではない。
  2. 人の死は仮の姿である。
  3. 肉体は朽ち果てるが、最後の審判のときに、神から完全な肉体を与えられる。
  4. 最後の審判
    ・無罪の判決を受けた者は、神の国で永遠に生きられる。
    ・有罪の判決を受けた者は、永遠の死である。
  5. 永遠の死こそが本当の死であり、復活はない。
    最後の審判は、その名の通り最後なので一回限りである。

煉獄

カトリック

本来のキリスト教義には、神の国と永遠の死があるだけで、天国も地獄もない。

肉体が朽ち果てた後「最後の審判まではどうなるのか?」という疑問への解答のため、待合室の概念として、天国と地獄という思想を取り入れた。

人間には、肉体とは別に魂があるとした霊肉二元論である。肉体は朽ち果てても、魂は生きる。魂は、天国へ行くのか?地獄へ行くのか?

大多数の人々は、すぐに天国に入れるほど完全ではないが、地獄に堕とされるほど極悪でもない。そこでカトリックは、煉獄という思想を作り上げた。現世において、ほどほどの罪を犯し、その罪の償いを果たさないままに死んだ人の魂は、天国に行くことができないので、天国に入る前に、煉獄の業火によって罪を浄化しなければならない。

プロテスタント
  • プロテスタントは、聖書だけを教義にしているから、煉獄という思想は存在しない。
  • プロテスタントは、信仰のみで救済されるから、浄化という行為による救済を認められない。

救済

仏教では、因果律という論理がある。

因果律は「原因は結果を招き、結果は原因に拠る」という思想である。良いことをすれば良いことが起き、悪いことをすれば悪いことが起きる。

輪廻という思想も因果律に拠る。現世だけを見ると矛盾が生じる。しかし、現世だけでなく、生まれ変わる前の、前世、前々世、、、生まれ変わった後の、来世、再来世、、、と続いていくと、辻褄が合うようになる。

キリスト教のプロテスタントでは、予定説という論理がある。

ルターの予定説は「原因に関係なく、結果は既に決められている」という思想である。誘導ミサイルのように目的対象が決まっていて、そこに向かって進んでいく。救済されるかどうかは、神によって予め決められている。神の意思のみを絶対視するプロテスタントにおいては、人間には意志の自由は存在しないことになる。

ルターは「人間は奴隷と同じで、人間の意志の自由など一切ない」と説いた。

「神の意思のみが存在し、人間はただ神の意思のままに行動すべし」というのが、ルターの予定説の帰結である。

ユダヤ教には、予定説はない、個人救済はない。

儒教には、仏教の因果律や、プロテスタントの予定説のような個人救済の論理はない。儒教の目的は、個人救済ではなくて、天下国家の救済である。天子 ( 王 ) が君主 ( 役人 ) の助けでよい政治を行えば、天下国家がよくなり、すべてがよくなる。経済も社会もよくなり、個人もみんな幸せになる。これが儒教の救済である。儒教は政治的宗教である。

キリスト教の事始め

キリスト教では、イエスが預言者であっては矛盾が生じるので、神でなければならない。

イエスの言葉「福音書」を正当化するには、旧約聖書で結ばれた、契約を更改して、新しい契約を結ばなければならない。そのためには、やはり、イエスでなければならない。司教が集まって討論した結果、イエスは、完全な人間であり、同時に、完全な神であるとした。

  • キリスト教においては、イエスは、人性と神性の2つの本性を持つ存在として定義付けた。
  • イスラム教においては、唯一神アッラーである。
    イエスという神の存在は、一神教ではないとして、キリスト教を批判する。
    イエスも、マホメットも人間であるが、偉大な預言者である。
  • ユダヤ教もイスラム教と同じ立場を取っている。
    さらに、イエスが、救世主であることを否定している。

ユダヤ人は、唯一神を信仰するだけでなく、唯一神の命令 ( 契約 ) の実践を重要視している。神との契約であるトーラーの教えを実践するためには、タルムードである。イエスは「律法を廃止するために来たのではない、律法を完成させるために来た」と言っているが、ユダヤ人からすると、律法遵守の解釈はタルムードに拠らなけれならないのに、イエスはタルムードを遵守していない。

ユダヤ人のイエスは、律法解釈に新規軸を生み出した。キリスト教の事始めだ。
  • キリスト教では、人間は原罪を背負っているから、どんなに努力しようとも、結局、悪いことをしてしまう、そのように造られている。律法遵守できないのは、律法が人々の心に罪の自覚を起こさせるに過ぎないからだ。
  • ユダヤ教・イスラム教では、啓典が定めた法律・律法・戒律を実践することができ「自由意志で神の命令を守ることができる」としている。

啓典

一神教では、神が啓示した啓典がある。
・ユダヤ教 … トーラー
・キリスト教 … 福音書
・イスラム教 … コーラン
啓典は神との契約である。

神との契約とは現代イメージする契約とは異なる。

・神との契約とは、神が一方的に結ぶ契約である。
・契約を交わす権利も解消する権利も神にしかない。
・神の命令と同義語である。

キリスト教は信仰のみが必要であって、修行や善行といった行為は不要である。時代を経て、修道院が誕生したが、修道院は善行の積み上げと厳格な修行の場所であったため、異端な存在であった。しかし、修道院が制度化されていくにつれ、優れた宣教師を輩出するようになり、いつのまにか、エリート養成機関となっていった。

キリスト教では、本来、不必要な善行や修業といった行為が正当化され、修道院に寄付する人も増え、財政的基盤が確立した。修道院の勢力が増すにつれて、善行や修業による救済がカトリックで一般化していった。

修道院での善行が積み上がっていくことで、カトリック教会全体の中に、救済財が貯蓄されていく。その救済財を信者に分け与えることができる。この救済財によって信者は救われるという思想になった。

ルターは、修道院で、厳格な修行を積んだが、救済の確信に至らないことから、カトリックを去ってプロテスタントを興した。ルターは「自分の意志で救済される」という思想を排斥し、すべては神の恩恵による予定説を推し進めた。

予定説「行動は問わず、ただ信仰のみ」という考え方は、人心に馴染まない、不安に耐えられない。だから、信仰のみであるはずのキリスト教に、儀礼・善行・修行といった行為が侵攻してくる。

人は行為によって、心が不安から解放される。
  • キリスト教自体は規範が定まっているわけではないが、カトリックの規範は存在する。
  • 仏教の規範は、法 ( ダルマ ) で決まっているが、規範が厳しく、俗世の感覚から逸脱しており、世俗と浮世離れしている。
  • 儒教の戒律 ( 礼・儀礼 ) は、行動についてのルールで、プロテスタントの信仰のみと正反対を為す。
戒律を定めず、聖書だけとして曖昧にすることで、解釈の幅を持たせる。
その時代の人々の解釈に応じる。
曖昧にすることで、聖書は、時代を超えた普遍性を持つ。

人間の外面的行動 ( 行為 ) と内面的行動 ( 内心 ) とを分別したことが、近代における、民主主義や資本主義の礎となった。民主主義は、信仰の自由が前提となって、その他の自由へ派生していく。資本主義は、行為と内心が切り離されているからこそ、目的合理的行動が成立する。

キリスト教の思想

キリスト教では、異教徒は大量虐殺することも、奴隷にして売買することも正当化されている。大航海時代には、航海者から「異教徒は人間であるのか?」という問合せがローマ法王に寄せられている。人間でないならば、殺すも奴隷にするも自由である。「殺すなかれ」という戒律は、キリスト教徒にだけ適用される。

キリスト教は宗教改革を経て、ヨーロッパの隅々まで広がり、近代の資本主義・民主主義の礎となった。

契約

キリスト教の根本は、契約である。私たちのイメージの契約とは異なる。

  • ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった一神教では、契約とは、絶対神と人間との契約である。
  • 神と人間との間の契約は一方的であり、神から人間へと降りてくる神の命令と同じである。
  • 神と人間の関係は主と僕 ( しもべ ) との関係であり、対等ではない。
    神と人間の契約は、上下・タテの契約である。
私たちがイメージする契約は、対等な人間同士の合意による契約、ヨコの契約である。
上下のタテの契約が、ヨコの契約、人間同士の対等の契約になることで、資本主義・民主主義が誕生した。

イスラム教では、タテの契約がヨコの契約になることはなかった。神と人間との契約だけが本来の契約であり、人間と人間との間の契約は、本来の契約から発生した、仮の契約に過ぎない。

【日本の約束と契約】

  • 約束は、人間関係を離れて存在できない。
    人間関係から分離した抽象的な約束はあり得ない、人間関係が変われば約束も反故にされる。
  • 契約は、約束と異なる。
  • 契約は、客観的であって人間関係と分離している。
    相手と仲違いしても、契約の効力は不変である。

一神教では、契約が神との契約に源流を発し、人間関係から抽出されている。
契約よりも約束を重視する日本人との違いである。

労働

労働の起源
キリスト教が資本主義に通じたのは、契約以外に、労働がある。

エデンの園は、理想の世界で、アダムとイブは何不自由なく暮らしていた。禁断の木の実を食べたことで、エデンの園を追放された。そして、神から、食糧を得るための労働と死を与えられた。「労働は罰であり、苦役である」という思想である。

労働の価値
資本主義精神
労働それ自体が救済のための宗教的儀式「労働それ自体が目的」という精神
・目的合理的な精神

日本では、天照大神は、機織りをして、天皇陛下は、自ら田植えをされるほど農業を重要視している。「労働それ自体が目的」という精神は、日本人には受け入れやすく、目的合理的な精神は馴染まなかった。日本は昔から労働尊重の精神があった。

プラトン ( 前427-347年 ) における人間の行為の価値
①哲学すること
②戦争すること
③労働すること
労働への意識
労働に救済を求める考え方
・プロテスタントに発するわけではない。
・イエスの教えでもない。
・カトリック修道院にあった。

修道院では「祈り、働け」をモットーに禁欲生活をした。

日本人は、禁煙・禁酒・断食といった「何かをやらないことを禁欲だ」と考えるが、キリスト教的禁欲は、逆である。ある大事なことをするために、それ以外のことをすべて断念して、そのひとつに全身全霊で打ち込むことだ。

修道院での「禁欲 = 労働」は、やがて、経済力を付けていき、統治者の影響力も及ばない権力を得た。修道院の経済活動が活発化すると、世俗の人々との取引も重要になってきて、人と人との間の契約の重みも増した。タテの契約がヨコの契約に変換される契機ができた。

修道院の中だけに存在した「禁欲 = 労働」を、世俗の世界に引っ張りだすことで、キリスト教が資本主義に通じる。

Beruf … 神から与えられた使命 = 天職
  1. 修道院生活での「禁欲 = 労働」を、世俗的職業にも当てはてめて、天職とした。
  2. 人々は、自分の職業を神から与えられた「使命 = 天職」だと、認識するに至った。

ルターが「Beruf」を翻訳する際に「天職」という意味を与えたことで、修道院での「禁欲 = 労働」が、世俗の世界に引っ張りだされた。

宗教改革以前では、上辺だけの信仰であったキリスト教は、宗教改革によって、浸透していった。それは、天職 〜 自分の職業が、救済のための儀礼 〜 と受け入れられたからに他ならない。

タテの契約は、ヨコの契約に変換された。

人々の行動様式 ( エトス ) が根本から覆された。「経済活動は、利己的動機ではなく、利他的動機で、神と隣人を愛 ( アガペー ) するための方法である」と受け入れられた。経済活動は「善」として捉えられ、利益が正当化され資本主義の精神が誕生した。

「働かざる者食うべからず」という言葉は、修道院の戒律である。
仏教では、僧侶は、俗世間との交渉を断ち切って、全力集中して、悟りを開くことにあるから、食うために働くことは、ナンセンスである。

結婚

  • キリスト教のカトリックでは、聖職者は独身制である。
  • プロテスタントでは、そもそも聖職者という存在がないので、結婚は問題ない。
  • 仏教では、正式な戒律によって、僧侶の結婚・セックスを禁止している。
  • ユダヤ教・イスラム教には、結婚に関する戒律はない。

仏教 〜 近代科学の先駆け

法 ( ダルマ )

仏教は釈迦の教えではなく、法 ( ダルマ ) という道徳法則だけが存在し、それを悟ったものが「仏 = 仏陀」になる。

仏が出現しなくても、法 ( ダルマ ) は、存在する。悟りをひらいた者は、釈迦だけなので「釈迦 = 仏陀」のように捉えられているが、本来は、釈迦が名前で、仏陀は尊称である。

  • 仏教は、法 ( ダルマ ) が第一で、仏は次にくる、法前仏後である。
    「仏は存在しない」と言っても仏教に影響はない。
  • 神が優先する神前法後の啓典宗教とは、根本的に異なる。
    「神は存在しない」と言えばキリスト教にならない。

空 ( くう ) の存在

仏教の根本原理は、空 ( くう ) である。
実体を考えない。魂もなければ、地獄も極楽もない。

現代の日本に残存する仏教は、本来の仏教とはかけ離れている。

日本では「南無阿弥陀仏」と唱えればいい「南無妙法蓮華経」と唱えればいいと変質した仏教だが、本来の仏教は、仏教徒である限り、何かを信仰することも、何かの行為をすることも必要ではない。キリスト教徒が聖書を信仰したり、イスラム教徒がお祈りしたりするような何かは仏教にはない。

キリスト教の聖書は内容はわかるが、仏教は「信じられない、実感が湧かない」というレベルのわからなさである。般若心経は、よく、わからない。色即是空、空即是色は、一切のモノは実在しない、それが「空である」という理解もある。

魂の存在を否定する仏教は唯物論なのか?

インドの哲学者は、自我の存在を承認しているが、仏教で自我の存在を否定した。

もともと、人間には「我、存在す」という自覚のあることが認められていた。

  1. 釈迦は、自覚は「我が実在することを証明するモノではなくて、迷妄に過ぎない」と考えた。
  2. 煩悩が起こるのは「我、存在す」というおもいが根底に存在するからだ。
  3. 仏教では「我、存在す」という自覚は断ぜられる、我執のもとであるからだ。
仏教の目的は「悟り = 煩悩を失くして解脱して涅槃に入ること」である。
  1. 煩悩が生じるのは「我、存在す」という迷妄が根底に存在するからだ。
  2. 「我、存在す」という迷妄を断ずれば、涅槃に直行できる。
  3. 「我、存在す」の否定は、魂の存在の否定である。

死んだ後、肉体は滅んでも「何か滅びないモノが残っている」と考えたい。
→この希望が「肉体の根源に魂がある = 霊肉二元論」である。

  • インドの哲学者は、肉体を根底に、自我の実在を想定した。
    肉体が死んでも、自我は生まれ変わって実在を続ける。
  • 仏教は「生まれ変わる」という輪廻転生の考え方を受け継いでも、その主体である自我の存在を否定した。
    「すべては仮説である」と考える仏教は、実在論を認めない、魂の実在を認めない。
仏教の空 ( くう ) という論理は、すべてが仮説であり、すべては関係であって、実在するものは何もない。

識 ( しき )

仏教では魂の実在を否定する。

  • 魂がなければ何が輪廻転生するのか?
  • 何が因果律の支配を受けるのか?

唯識の思想 … 万物流転

唯識 = 唯識所変
・ただ識 ( 心 ) によって変じ出された所のものである
・我々の識こそが、モノゴトを作り上げ、決定している
手をうてば
鮭は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く
猿沢池

「手を叩く」という行為一つをとってみても、それを受け取る側の状態・条件の違いでこれほど意味は異なってくる。耳から聞こえる音、すなわち耳識は同じでも、意識の差で、その理解の仕方・存在の在処が変わるのである。

仏教原論である唯識とは、その名が示す通り、識のみという教説である。

  1. 識の外には何も実在しない。
  2. それを、あたかも実在しているように思うのは妄想にすぎない。
  3. それを、妄想と自覚することこそが修行して涅槃に入るための事始である。
  4. すべての実在が妄想なのであるから、そんなものを求めて悩む煩悩も妄想である。
  5. そこに気付けば、煩悩も消えて、涅槃へ向けて一直線である。

五つの知覚である五感 ( 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚 )
→唯識論では五識 ( 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識 )

唯識論では、意識が、前五識 ( 五つの知覚 ) を総合し解釈する作用を重視して、これもまた識の一種と捉える。意識を第六識と呼び、そして、前五識と意識とを併せて六識という。

仏教修行の目的は煩悩を失くすことにある。

  1. 煩悩は、意識ではコントロールできない。
  2. 煩悩は、我執 ( 自分にしがみつく) からくる。
  3. 人間の心を無意識の底までつきつめてゆくと、我執につきあたる。
  4. 六識が間断 ( 途切れている状態 ) しているときでも、我執は寝ても覚めても動いている。
  5. この我執の本体を末那識という。

末那識のさらに奥深くに阿頼耶識という識がある。阿頼耶識は生命の中枢である。阿頼耶識は「我」よりもさらにその根底にある「生命」そのものに執着する。

  1. 人間が行為 ( 現行 ) をすれば、その跡が残る。
    これを種子という。
  2. 種子は、阿頼耶識中に残って蓄積される。
    「過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている」のだ。
    この蓄積を薫習という。
  3. 現行の種子は、阿頼耶識に薫習される。
    種子は、行動を生む力を持つ。
    種子が原因となって、結果としての行為 ( 現行 ) となって現れる。

阿頼耶識は、生命に執する。しかし、仏教では、実在するものは何もなく、すべては空である。この矛盾を解決するのが、末那識である。

  1. 末那識は、阿頼耶識の一部である。
  2. 末那識は「本来実在しない我を実在する」と錯覚している。
  3. 末那識は、錯覚して我執している。

現行から薫習された阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、私たちが生まれてからの種子がある。さらに「私たちが生まれる前の太古の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されている」と捉えている。遺伝子情報も「種子の一種だ」として捉えている。

阿頼耶識には、永遠の過去が、天地創造からの種子が、原意識として入っている。
輪廻転生の根幹は、阿頼耶識である。

経験も何もないのに、初めから、あるモノゴトに長けている人がいる。歴史上の偉人である。ナポレオンを研究した結果、「経験・学習なしに戦争を知っていた」としか理解できないと結論付けた人もいる。戦争で、連戦連勝の偉人は「先祖に勝利する種子が、阿頼耶識に薫習されていた」と考えると納得できる。
精神分析学は、無意識 ( 潜在意識 ) が存在するとして、無意識を分析の中心とする。フロイトは、無意識の底にある複合体の正体を突き止めて「それを意識にもたらせば、治療できる」と考えた。フロイトは、我執の中心は、性的我執 ( リビドー ) にあるとした。すべての過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている。

仏教の方向性

  • 仏教は、高度な哲学体系を持ち、厳しい修行を要求する、エリートのための宗教である。
  • 修行して悟りを開いて仏を目指している。
  • 仏は人間を救済しない。
  • 人間が努力して修行して覚醒して仏になるのだ。

キリスト教は、修行を要求していないし、人間が神 ( イエス ) を目指していない。人間は神の一存で救済される存在である。

  • イスラム教では、肉体と別存在である魂は存在しない。
  • キリスト教では、人を生き物とみなして、それを魂という。
  • ユダヤ教は、死後の世界はない。
  • メソポタミアの宗教は、死後の説明を重視していたので、その分野については、ノータッチとした。
・ユダヤ教は、既存の宗教の本流と分離させた。制度を定め、ルールによって、分割した。独自路線に、活路を見出した。
・ヒンズー教は、拡大解釈によって仏教を取り込んだ。仏陀もヒンズー教の神の1人として捉えるて内在させることで、活路を見出した。
仏教の罪は、煩悩
キリスト教の罪は、原罪
  1. 煩悩のある限り、死んでも生まれ変わり、輪廻転生する。
  2. 煩悩がなくなれば、輪廻転生から解脱できる。
  3. 生まれ変わらず、涅槃で永遠を迎える。
  4. 永遠の死であり、成仏である。

往生とは、転生すること、仏の国へ生まれ変わることである。

輪廻転生は罪の証である。罪 ( 煩悩 ) を断じた人は、成仏する。

仏教では、神は天上の住人である、梵天・帝釈天・・などの神は、天上で生活している。神にも煩悩 ( 罪 ) があるから、生まれ変わる。来世は、何に生まれ変わるか、わからない。仏教では、神よりも、悟りを開いた人間の方が上位である。天地創造の梵天 ( ブラフマン ) より、仏陀が上位の存在だ。

仏教の歴史

仏教は、釈迦は全知であるから「よい教えは他宗教のモノであっても、仏説として取り入れてもよい」という立場をとる。

バラモン教は、狭義にはヒンズー教の前段階で、広義にはヒンズー教を含んだインド民族宗教を指す。バラモンとは、バラモン行の司祭者階級である。バラモンは祭司であり、祭祀を執り行う。バラモンは、祭祀によって神を強制する。「人間が、正式の祭祀の法則に従って神々に祈願するならば、神々は、それを欲すると否とに拘らず、必ず人間に恩恵を与えなければならない」

神以前に「厳然たる法則があって、神といえど、この方を動かすことはできない」という法前神後の前提から、この思想は出てくる。

梵天は全宇宙を創造した最高神であり、すべての摂理を司る。一神教思想が強調されているが、啓典宗教の一神とは異なり、絶対者とは言えない。

「ヤハウェは、いきなり、絶対唯一神になったわけではない、古代宗教は、多神教である」という立場が、仏教である。

・ヤハウェは唯一の神である
・人々は、ヤハウェ以外他の神々をもってはならない
・ヤハウェ以外の神を礼拝してはならない
という立場を取るのが、唯一神教の事始めユダヤ教である。

「ヤハウェは人格神であるから、真理を持つ、煩悩を持って生きている神である。」と仏教は捉える。

仏教は罪が生の原因
キリスト教は罪が死の原因

人類の始祖アダムが神の命令に背いて智慧の木の実を食べたので原罪が発生し、これがアダムの子孫である人類が死ぬことの原因となった。ゆえに、罪が消えれば、死も消える。イエスが十字架上で人類の罪を贖った。イエスの贖罪によって、人類は、永遠の生命を回復した。キリスト教の救済は生である。救済された者は神の国で永遠の生命を得る。救済されなかった者は永遠の死である。それに対して、仏教の救いは「死んで無になり成仏する」という永遠の死である。

空 ( くう ) とは?

無は有に対立する概念であるのに対し、空 ( くう ) は、その両者を超えた概念である。空は有でもなければ、無でもない。同時に有であり無である。また、有と無以外のモノである。論理的でないことが、空の理解を困難にしている。

ひきよせて  むすべば柴の  庵にて
とくればもとの  野はらなりけり

ここに「空」があるといっている。

「庵」とは、草木を結ぶなどして作った質素な小屋のことで、僧や世捨て人などが仮ずまいとしたものである。庵は「建築する」とはいわず「結ぶ」といった。

  • そこらへんにある柴をかきよせて結んで作ったから庵になる。
  • もし、結び目を解いてしまえば、そこには何もない。

この歌は、明快に「空」を説明している。

庵は、あるのか、ないのか。

  • 柴を結べば庵はある。
  • 結び目を解けば庵はない。

したがって、庵は、あるともいえるし、ないともいえる。それと同時に、あるともいえないし、ないともいえない。

庵の存在、有無は「結び」にかかっている。

  • 結べは庵はあるし、結ぶまではなかった。
  • 結びを解けば、庵はなくなる。

これぞ、空である。

空は、たしかに無である。しかし、それと同時に有でもある。

すべての実在は空である。庵などという実在は、もともと存在しなかった。が、空 ( 非実在 ) は、実在を生みだす。結びさえすれば、たちまち庵ができる。庵は実在となるのである。空から、すべての実在は出現する。

「庵という実在はない」

  • 「結ぶ」ことがなければ、庵は存在せず、無である。
  • 柴を「結ぶ」ことにより、庵は有に変換される。

” 空即是色 ” である。が、「結び」を解けば、庵はなくなる。有は無に変換される。” 色即是空 ” である。

有でもなければ無でもない。それと同時に、有でもあり無でもある。有と無とを超えて、これらを統合している。「有」と「無」とは「結ぶ」ことによって、たちまち自由に変換されるのである。

悟り

  • 小乗仏教 … 自分が悟りを得ることを目的とする。
  • 大乗仏教 … その悟りを広めて人々を救う所まで視野に入れている。

仏教は基本的に個人救済の宗教である。釈迦の出家動機は、老病苦死などの苦しみをいかに解明し、自ら悟りを開くためであった。

「仏から、命令されて、世の人を救おう」と思ったわけではない。悟りの境地に至り「入滅しよう」とした所を、梵天の願いにより、説教した。本来必要のない「他の衆生も救うことに協力しよう」という釈迦の行動を仏の慈悲という。

「病気・老衰・苦痛が妄想に過ぎない」ことを自覚すれば、それらはすぐに消える

実在論は、妄想に過ぎないことを自覚すれば、実在は消える。「欲望は実在しない。欲望は妄想に過ぎない」ことを自覚すれば、一切の煩悩は消え、解脱して、涅槃に入る。一方で「モノが実在すると思うことは、妄想に過ぎない」と思考を転換することは困難であるから、修行が必要である。

唯識は「自然現象や社会現象が『すべて外界に実在している』と捉えるのは大きな誤りである」という思想である。人間が「実在している」と思っているモノは「すべて妄想」であり「人間の織」に過ぎない。「自らの識で自覚した」という理由で「実体と捉えている」ところに錯覚がある。

人間の身体は、6ヶ月経つと、完全に細胞が入れ替わってしまう。物質としてみた場合、実際に、全く別物になっているのだ。

唯識論で「自己の身体の内に実体としての自我は存在しない」とすることは、人間の心身が空であることを説いている。

縁起①

縁起 = 因縁
原因から結果への因果関係
・直接の原因:因
・間接の原因:縁

庵という果 ( 結果 ) は、いおりを結ぼうとする人の意志を ( 原因 ) とする。は、柴や縄などである。因縁がなければ庵は存在しない。因縁によって結ばれたからこそ、庵ができて、存在する。
庵が結ばれてできあがるまでは、そこには何もなかった。まだ、バラバラのままで、そこらへんに存在している柴や縄などは、庵ではなく、庵は無である。「庵を作ろう」という因がはたらけば、柴や縄などの縁で、庵は結ばれてできあがり、有となる。

すべての事柄は原因から生じる。
因果律は行きわたっていて、偶然を拒否する。

著提樹の下で釈迦が悟った、十二因縁 〜 十二の項目とその関係によって、人間の現実の生を説明するとともに「どうすれば生の苦しみから離れることができるのか」という根拠を示す方法 〜 も、大変に精緻な教義ではある。

その構造は単純因果で、
” A → B → C → D → ….. Z “
の型である。
【十二因縁】
無明 ( 無知 )

行 ( 行為 )

識 ( 心作用 )

名色 ( 精神・肉体 )

六入 ( 眼・耳・鼻・舌・身・意の六識 )

触 ( 心の対象との接触 )

受 ( 感受作用 )

愛 ( 愛欲・妄執 )

取 ( 執着 )

有 ( 生存 )

生 ( 生まれていること = 生存 )

老死 ( 老いてゆき死ぬこと )

誰もが悩む老死の問題の原因は生まれたことにあり、さらにその原因を辿っていけば、ついには「無明」という原因に辿り着くという、仏教の根本教義である。

さらに、もっと広く縁起というときには、もう少し複雑な「因縁」、すなわち複線型因果関係をもいう。因は主原因、すなわち起源であり、縁は補助原因 ( 副原因 )、すなわち作用を表す。

これは「どういう因果関係か」というと植物が生ずる因縁を思えばよい。

  1. 植物が生えてくるためには、まず種を蒔かねばならない。
    これが因である。
  2. 種を蒔いただけで成長するものではなく、適当な土、水、栄養、光、空気……が必要である。
    これが縁である。
  3. 因という起源、縁という作用がそろってはじめて、果という結果をなす。
    この場合は「植物が育つ」という結果をもたらすのである。

縁起②

これに対し、中観派 ( インド大乗仏教 ) の「縁起」の解釈はまるで違う。
単純因果関係ではなく、相互依関係 ( mutual interaction ) なのである。

「AがBを決める」すなわち「 A → B 」という単純因果関係ではなく、互いに因となり果となり、互いが互いを決めあい、両者とも相互依存関係を通じて、同時に決まるのである。
この因果関係を、同時因果関係 ( simultaneous causality ) という。

これが、それまでの仏教の因果関係とは違う、因縁であり、すなわち「空」の構造なのである。

これまでは、縁起とは、縁によって起こること、時間的生起関係を意味していた。「原因があれば、その後、結果が生起する」というふうに、時間的な単純因果を意味してきた。

それが「短があるとき、長がある」となると意味が全く異なる。

これまでは、論理的相関関係を意味する。短も長も「独立に存在しうるモノだ」と考えていた。短や長という在り方に過ぎないモノを実体と考えていた。

短と長は、論理的相関関係の中で成立している。これを縁起であるとする。様々な事物も相互依存によって成立している。

自然的存在としては、母があって子が生まれる。その逆はありえない。しかし「在り方」として考える。母は子を生まないうちは母ではありえない。子を生むことによって初めて母といいうる。このように、母と子とは互いに相依っている。互いに独立に母と子とを考えることはできない。このように、一切の「空」は「相互依存関係によって成立している」と説いているのである。

因果律とは、無数の因と縁によって、結果が出る。
「空」は互いに相依って成立している。
因果関係は、Aが因、Bが果と限られているわけではなく、あるときは、Bが因となり、Aが果となることも起きる。

一刹那ごとに変化を遂げる阿頼耶識は新たな種子を得て、互いに相依って、その依存関係がまた新たな変化を生む。その変化は変化を生み、変化は繰り返し、果てしなく拡張していく。その過程で、原因は結果となり、結果は原因となって、現象としては、デフレスパイラルと似たようなことが起きる。

空 ( くう ) の論理

ユークリッド幾何学から考える。
幾何学が前提とする点や線は、あるのかないのか?

線は「全く幅がなくて長さだけがある」ということになっている。そんな「線」は実在するのか。どんなに鉛筆を触ったところで、ほんの少しの幅はあるに決まっている。長さだけあって少しの幅もない「線」などありえない。

位置だけを示す「点」も同じことである。現実世界には、大きさを持たない「点」などありえない。
実在論を否定するのに、これほど適切なサンプルもあるまい。

「線」は、外界にある物質としてはありえない。人の識の中にあるものにすぎない。しかも、感覚とも関係しない。

「点」も「線」も、実在するものではなく、モデル、すなわち、仮説にすぎない。

それは、有でもなく無でもない。それは有であると同時に無である。それは、有無以外のものでもある。

すなわち、それが「空」である。

イスラム教 〜 絶好の宗教の手本

イスラム教の戒律

・宗教的の戒律
・社会の規範
・国家の法律
すべてが矛盾なく一致している。
  • 仏教の国がイスラム教に変わることは多かった。
    イスラム教の国が仏教に変わったことはない。
  • キリスト教の国がイスラム教に変わった国は多かった。
    イスラム教の国がキリスト教に変わることは少なかった。

イスラム教の理解には、コーランを読むのがよい。

・イエスは預言者、マホメットは最後の預言者
・神はアッラーひとりである。
 全知全能のアッラーは、現世の人間の過去も未来もすべて決める。
 よいことをすれば、来世でアッラーに救済される。
  • イスラム教では、地獄極楽という世界が実体的である。
  • 仏教は、実体を否定するから「地獄極楽はない」とするための仮説に過ぎない。
  • キリスト教も、仏教と同じ立場である。

  • キリスト教では「神の意志のみを認め人間には意志の自由はない」とした。
  • イスラム教では、人間の意思の自由を認めている。

イスラム教は、現世での予定説である。
・現世で幸福になるか不幸になるかは、神が決めてしまっている。
・来世で天国へ行くか地獄へ行くかは、現世で良いことをするか悪いことをするかによって決まる。
仏教と同じ因果律の思想がある。

現世で、不幸になっても「神の教え = イスラム法」を守れば、来世で天国に行ける。

コーランには、アッラーの99の特性があり、特性のすべてを信仰しなければならない。そして「何をどう信仰するのか」が、明確に特定されている。

【6信】
①神アッラー
②天使マラク
  大天使ガブリエルを筆頭に、中天使、小天使
③経典キターブ
  最高啓典コーランを筆頭に、トーラー、詩篇、福音書
④預言者ナビー
  アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、最後にして最大の預言者マホメット
⑤来世アーキラット
  最後の審判を受けた後に、魂ではなく、生身の人間で、行くところである。
⑥天命カダル
  天地間のすべてのことは、アッラーの意志による、例外はない。

6信を信じて初めて、イスラム教の信仰たりうる。

イスラム教では、修行を明確に特定している。イスラム教徒が追う宗教的義務である。イスラム教の信仰とは「信心という内面的行動」と「修行という外面的行動」の両方が揃って初めて信仰足り得る。

【修行】
①信仰告白
 ・「アッラーの他に神なし。」
 ・「マホメットは神の使徒である。」
②礼拝
 ・毎日5回決まった時間にメッカの方向へ礼拝
③断食
 ・イスラム歴9月(ラマダン)一か月日の出から日没までの断食
④喜捨
 ・仏教の喜捨は義務ではないが、イスラム教では宗教的義務である。
 イスラム社会では、宗教的義務=道徳的義務=法律的義務がある、税金である。
 税金は、神に対する義務だから、節約したり、誤魔化したりすることはない。
 法律であるから、所得の1/40と決まっている。所得であって財産ではない。
 ・喜捨の他に、任意的な寄付があり、所得の10〜15%が一般的である。
 喜捨する人と喜捨される人は対等である。双方ともいいことをしている。
 喜捨される人はお金をもらうことがいいことになる。
⑤巡礼
 ・一生に一度、聖地メッカのカーバ神殿で行われる儀式への参加
・イスラム教は、信仰と行動
・キリスト教は、信仰
・儒教は、行動
・仏教は、一概に言いきれない

イスラム教を最高とした上で「人々は自分の信じるものに従ってどの宗教を信じてもいい」として、他宗教の信仰も認めている。「アッラーは、各々の民族に、その民族の言葉で語る預言者を下したまえり」とあり、中国の孔子や、インドの釈迦も預言者として認め、敬意を表している。

イスラム教は、欲望の追求を肯定しており、仏教徒の煩悩を捨てる姿勢とは正反対の思想である。

日本人とイスラム教

一神教での神の概念を理解できない理由の一つに、日本人には「死んだ人が神になる」感覚がある

  • 一神教では、神は生きている存在で、永遠に生き続ける。
    神は生き物であり、人格神である。
  • 儒教では、天を、概念的神として、生き物ではない絶対神のように扱う。
  • 仏教においては、仏陀は、かつては、人という生き物だったけれど、もう死んでしまった。
    「仏陀が、なぜ尊いのか」というと「真理を悟ったから尊い」のであって「存在自体が尊い」のではない。
    仏教において、神の地位は仏陀の下である。

農業国家で生まれた日本人は、商業国家で生まれた宗教の神の感覚が、理解できない。日本では、農業が聖なる職業として確立していたので商業の発達が遅れていた。
・天照大神は機を織るが、織った布を市場に出さない。
・天皇は稲を植えるけれど、米を市場に出さない。

  • 宗教戒律・倫理規範・国家の法律が全く一致するイスラム教とユダヤ教が、本来の宗教の姿である。
    「他の宗教はそこから逸脱している」と考えると、宗教は理解しやすい。
  • 仏教は、因果応報があり、善い行いにはよい報いがあり、悪い行いにはわるい報いがある。
    しかし、善悪の取り決めはない。
  • キリスト教の福音書にも、法律はない。

イスラム教の拡張性

イスラム教がキリスト教のように繁栄しなかった理由は?

イスラム教は、マホメットが最後の預言者であるから、神との契約の更改や新しい契約はできない。法は発見すべきモノであるから、新しい立法を考えることがない。伝統主義社会が形成された。一方で、法が存在しないキリスト教では「神の赦しがあれば立法も問題ない」と捉えた。

キリスト教的思考法
キリスト教の本質は、信仰である。
信仰は内面的要素であり、行為という外面的要素は関係ない。

内面と外面という二分的思考法が、時代に適応することを容易にした。原始キリスト教科書は「ローマ法律に反する」として弾圧されたが、二分法を用いて、対処した。ローマ市民は、外面的にはローマの法律通りに行動し、内面的にはキリスト教徒として信仰するように、外面と内面を区別した。キリスト教には、法がないので、二分法といった解釈が可能だった。キリスト教は、二分法によって、信仰と行動を別に捉えたため、信仰を変えることなく外面的行動を変えることができた。
・資本主義の原動力は、外面的行動だけからなる。
・資本主義国の憲法は、信仰の自由を保証している。

イスラム教は、人間の内面の信仰と外面の行動が規制され、それに応じた明確な法律が定まっている社会では、新しい思想は取り入れられない。
・資本主義が馴染んでいかない。
・人間と人間の契約が絶対でなければ、資本主義の土台が成り立たない。
・神との契約が絶対では、資本主義は立ち行かない。

儒教 〜 日本に遺された負の遺産

宗教を表現
・キリスト教:予定説
・仏教:空
・イスラム教:コーラン
・儒教:官僚制度

孔子は「儒教の祖である」ことを否定している。「述べて作らず」=「昔の聖人が言ったことを総合して述べているだけだ」と言っている。一方で、孔子は体系的宗教の形にしたのだから「儒教を創始した」と言うこともできる。

儒教は、儒学と言われるように、官僚になるための教養である。

魂の救済ではなく「行動様式が宗教」と考えれば、儒教は宗教である。

中国では、人の魂には、魂 ( こん ) と魄 ( はく ) があり、人が死ぬと、魂は天に昇り、魄は地に潜る。子孫が祭祀を行えば「天と地から戻ってきて復活する」と伝えられている。その魂が無事に復活できるようにするため、子孫を長く保つことを重要視する。各家庭レベルではなく、国民のどの子孫も保てるようにするため、必然的によい政治を求める。中国におけるよい政治には、官僚制が不可欠である。

古代ギリシャでは、官僚制の概念がない。

古代国家の王の周りの統治階級は、王家親族、有力貴族がいた。名君主と呼ばれる王は自分の奴隷の中から宰相 ( 総理大臣 ) を選んでいた。宰相とは、元は、奴隷の一種という意味である。親族や貴族は王に反抗するが、奴隷は無条件で従う。絶対君主に従う人間が官僚として有能である。奴隷に、礼を、教養を、国家の統治能力を、教える官僚予備校が、孔子の学校である。

法律を教えるのが法家で、儒家と法家は仲違いであり、官僚として、法家が重用されていた時代もあった。

儒教は、政治をよくして民を救うという集団救済の宗教である。健康や長寿といった個人救済は、道教が受け持った。

6世紀に、隋が誕生し、推薦で選んでいた官僚をペーパーテストで選ぶようにした。このテストは、科目による選挙なので、科挙という。

科挙は千年以上、儒教であったが、儒教の中でも出題範囲が狭まってきて、朱子の哲学である朱子学に傾倒していった。

15世紀初頭には、朱子学に基づいた、科挙の国定教科書「四書大全」「五経大全」を作った。
・四書 … 論語・孟子・大学・中庸
・五経 … 易経・詩経・書経・礼記・春秋
朱子が選んだ儒教古典である。

科挙は、身分に依らず、決まった勉強をすれば、誰にでも合格の可能性があった。官僚の特権は、政治権力・社会の名誉・富である。

初めは、総理大臣に相応しい人材が輩出されていたが、単にテキスト通りに解答をかける人間が合格するようになり、さらに、科挙に合格した人が試験官になり、自分と同じような人を官僚に登用する。科挙は官僚の自己増殖の過程となり、堕落していった。

科挙に基づいた官僚制が千年近く続いたのは、官僚制との競合である宦官の存在である。宦官は、皇帝のプライベートな世話をするため、去勢されて後宮に入る。もともと罪人の職務だった。宦官は官僚ではないから、科挙は受けないが、皇帝に近いことから、権力を持つようになっていった。そして、宦官の組織も官僚化していく。宦官は学はないが、体験や才覚といった実益があった。科挙の官僚制と宦官の官僚制が組み合わさることで、官僚制が長く維持された。

日本は、儒教がもたらした官僚制を明治以降に導入した。そのときの最大の欠陥は、宦官となるような双璧をなす組織を作らずに、勉学だけの官僚制を作ってしまったことだ。政治組織だけでなく、経済組織も、官僚制を手本にして作ってしまった。

科挙と宦官のような組織があれば、腐敗の仕方が異なるので、それぞれの機能を補い合う。日本は、片方のシステムしか導入しなかったので、政治・会社・学校も同じように不朽して、機能しなくなった。儒教自体は、行動様式足り得てないが、官僚制度・受験制度という形だけは残存している。

日本人と宗教

日本の国民宗教を山本七平は、日本教と表現した。

儒教・キリスト教・仏教、すべての宗教は、日本に入ると戒律が取り払われて、融合していく。

日本の国家神道の理解は難しい。日本人は、心の中では「神道だけしか信じない」というほどのメンタリティを無意識に内包しているからだ。

仏教は神道と融合することで、繁栄した。

明治の国家権力によって、日本の古来からの神社は数多く壊されてしまった。神社の様々な宗教的儀式へのに至るまで国家権力が介入した。明治以前の神道は、原始的なものであったが、明治以降は、行政が体系的なものに変えた。

  1. 明治政府は、富国強兵を目指す国家政策上、宗教を作らなければならなかった。
    「天皇を神とした新しい宗教を作り上げなければならない」ので、既存の宗教を全部潰して、天皇教に改宗させた。
  2. 伊藤博文らが派遣された先進ヨーロッパ諦国は、立憲主義国家・憲法による政治統治体制をとっていた。
    ヨーロッパで憲法による政治が可能なのは「キリスト教という確たる宗教が背景にあるからだ」と伊藤博文らは気付いた。
  3. 立憲国家体制を作るには、キリスト教のような強力な一神教信仰化体制を導入するのが必要である。
    しかし、仏教も儒教も、決して一神教ではなく、強い求心力たりえない。
  4. そこで考え出されたのが、天皇教という強力な一神教なのである。

宗教の本質

本来、仏や神というのも、仮の名前に過ぎない。
「ユダヤにはヤハウェという神がいて、キリスト教にはイエスがいて、イスラム教にはアッラーという神がいる」という認識が間違っていて、絶対の創造者をそれぞれが呼んでいるに過ぎない。
それが、宇宙意志でも、魂でも、精神世界でも、すべて信仰対象であり、宗教に変わりない。

キリスト教は初めからカルト教団だったし、カルトでないと宗教は流行らない。

カリスマはマックスヴェーバーか発見した概念である。カリスマの原義は、神の恩寵である。カリスマを持つのであって、人がカリスマではない。あの人はカリスマが強いのだ。カリスマとは、日常ならざる物凄い力だから、宗教創始や宗教改革にはカリスマが必要である。人間の行動様式は、変えるのが困難であるので、変えようとすれば、カリスマが必要となる。

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