【本要約】宗教の秘密
2022/4/6
お金教
宗教は私たちに何をもたらしたのか?
宗教的の本質を見極める。
インドのカーストは法律ではない。インドの憲法ではカースト制による差別は禁止されている。しかし、社会に根付いていて解消されないのが実態だ。インドのカースト階級によって、差別されている当人が、信念を持って差別の存続を望んでしまう。
仏教の開祖である釈迦は、この世を「 生老病死 」と捉えた。それが、当時の社会では、みんな納得の感覚だった。そこで「 あの世はいいところだ 」という、あの世での救済を謳った宗教的が、パワーを持った。
しかし、現代では、この世は、安全・安心で豊かな生活が保証されている。
( ※日本のような先進国では )
いつのまにか、あの世の安寧を保証することで、人々の歓心を買うやり方が通用しない時代になっている。
この世の論理の中でも、お金が絶大な力を持つ。
いまや、伝統宗教に代わって、人の心を支配しているのは、お金教である。
特定の宗教を信仰している状態というのは、催眠術にかけられている状態と同じだ。誰かに操られていたとしても、集団催眠下では、催眠状態に気付けない、誰かに従ってしまう。
伝統宗教はあの世の論理で、お金教はこの世の論理で、大衆を支配してきた。
この世界を操る宗教の秘密を白日の元にさらすことで、人々を「 脱洗脳しよう 」という試みである。
宗教に洗脳されるカラクリ
宗教は支配の道具
イエスや釈迦が唱えたのは、本来なら、報われない人々の心を救うためのメッセージだった。
ところが、宗教は、
・神を信じなければ天罰が下る
・死後地獄に落ちる
といった、人々に恐怖を与えて信者の心を支配してきた。
宗教は、支配の道具として発展してきた歴史でもある。宗教集団を拡大させ、その宗教勢力を取り込んで国家が政治的に利用した。
宗教という言葉は、英語のreligionを、無理矢理に日本語に訳したもので、本来、日本語には存在しない概念であった。
religionの本来の意味は、神との契約である。
正確には、ただ一つの神を崇拝し他に神の存在を認めない「 一神教 」以外は「 宗教 」ではない。
世界中に、ちりばまれた神話は、その起源を辿れば、権力者の道具として創り上げられたものだ。権力者は、神話の中で、自分たちの正統性や「 自分たちがいかに神から選ばれた存在であるか 」ということを、物語を通じて、大衆に周知させていった。
学問の系譜
- 神の存在証明をする学問「 神学 」
- 神を証明するための知的な技術として「 哲学 」
- 神の行いを知り、神が作ったルールを解明するための「 科学 」
ニュートンは、宇宙が神によって創造されたことを信じていた。
ニュートン力学
科学は宗教の一部であり、神話を補強するものだった。
言葉
旧約聖書の冒頭で神は天地創造を行う。
この世界は言葉によって創られた、というのがユダヤ教の世界観である。
新約聖書
「 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
キリスト教も言葉から創成されている。
- 宗教は、言葉にはじまる。
人は言葉の世界に縛られている。私たちは言葉というフィルターを通して世界を見ているに過ぎない。
人は自分の意思で行動し「 自分で考えた夢を持っている 」と思っている。
本当にそうなのか?
- 私たちは、親や教師や友人、マスメディアといった他者の影響を受け続けて成長した。
- その過程で、自分の中に言葉の世界が形成されていった。
- その結果としての自分の意志や夢かもしれない。
この世界は、言葉で作られた情報で成り立っている。
一神教のような狭義の宗教から、古来の宗教と言われるすべてが、言語で記述された教典・教義・戒律を備えている。宗教が、人々を支配する道具が、言語である。言語が人々を支配し束縛してきた。
言語束縛
人々が言語によって束縛されている状態を 言語束縛 という。
- 宗教や教団が、教典や教義を用いて人々を支配している状態も 言語束縛 と言える。
- 言語束縛 を受けている世界では、言語化されていない場所へは一歩たりとも踏み出せない。
いわば「 言語世界の住人は、言語世界に一生囚われの身 」ということだ。
物理空間以外の空間に臨場感がある状態を「 変性意識状態 」という。
- 例えば、私たちが小説を読んだり映画を見たりしたときに、小説や映画で描かれる世界は架空の情報空間であるにも関わらず、感動して涙を流すことがある。
- 他人が言語で作った仮想世界なのに、現実の物理空間よりリアルに感じられる。
- このとき私たちは物理空間の現実より情報空間の虚構のほうにより強い臨場感を感じている。
それを「 変性意識状態 」にあるという。つまり、人間は「 変性意識状態 」にあるときに、最も言語束縛 を受けやすい。宗教による 言語束縛 は、まさに、そういう構造で行われてきた。
- 聖典や神話に書かれているのは、言葉による仮想世界である。
世界の始まりや死後の世界や前世・転生など現実世界では確かめようのない事柄がいろいろと書かれている。 - 教義には「『 あの世 』や来世で幸福に健やかに過ごすためには『 この世 』で教団や聖職者を敬い、お布施や寄付を行い、布教や信徒拡大に協力しなければならない」と書かれている。
それらは、もともとすべて情報空間の虚構である。
- 人々を「 変性意識状態 」に導き、物理空間の現実より情報空間の虚構により臨場感を感じるように仕向ける。
- 人々は容易に宗教の言語世界に束縛され、そこから脱け出すことができなくなる。
- 人々を「 変性意識状態 」に導くための装置
・教会、お寺、神社
・聖歌、お経、マントラ
・過酷な修行体験
言語束縛を外す
自分の頭の想念から一切の言語を消し去る。
・言語の介在なしにイメージする。
・イメージに意味を持たせたり言語化したりしない。
「 お腹が空いた 」と言語を介在させてはいけない。
お腹がグーっと鳴っても「 お腹が空いた 」と言語化して考えなければいい。
私たちの想念は、子どもの頃から今日に至る経験の集積で作られている。過去の記憶は、他人との関係で作り上げられた。
私たち自身は、どのように成り立っている存在であるか?
縁起である。
それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っている。
性欲
典型的なのは性欲で、基本は徹底的に禁欲させる。禁欲は信者に常に束縛を意識させる。人間は、束縛されていることを意識していると、さらに束縛されていることを受け入れるようになっていく。世界中の宗教のほとんどが禁欲をしいている。
- カトリックには、婚前性交渉、人工中絶、離婚の禁止という戒律がある。
- 仏教の世界も禁欲である。
性欲に代表される快楽をコントロールすることで、宗教は人々を支配してきた。
キリスト教
なぜ、キリスト教は、世界宗教として君臨できたのか?
イエスの教えは、その後に、キリスト教を世界宗教に発展させた人々の手で、大きく変質させられていた。
ユダヤ教
・ユダヤ人のみが救われる選民思想
・戒律によって生活全般が規定される律法遵守
ユダヤ教の戒律では「 安息日には一切労働してはならない 」とされ、火を灯すことさえできない。では、食事はどうしていたのか?抜け道があった。自ら調理してはいけないので、貧しい人を雇って調理させていた。
貧しい人は安息日にも働いており、貧しい暮らしの中で、戒律を守って生きていくことは、困難だった。その結果、戒律を破っている貧しい人は、ドンドン救われなくなる。
イエスは、貧しい人たちに「 戒律を破っても、あなたは神の手で救われる 」と説いた。
律法遵守を救済の条件に課すユダヤ教は、現実的には、戒律を厳守しても生活に困らないお金持ちしか救済されない、お金持ちのための宗教だった。
「 誰でも救われる 」として布教したのがイエスであり、それがキリスト教の救済の本質であった。
キリスト教、世界宗教へ
復活したこと以外は、普通の人としてイエスを捉えたことによって、親近感と、リアリティがある物語となった。
神を信じるものは救われる。
神を信じることが、神との契約であり、その契約を守れば救済される。
キリスト教は成功して、世界宗教になっていった。
現代の世界宗教
お金教
- お金によって、すべてのものに値段が付き市場が生まれた。
- 市場では、お金があれば欲しいものが手に入る。
- お金は、労働によって、その対価の報酬として支払われる。
モノに値段をつけて、お金を使って交換できるようにする。お金はモノの交換の道具、モノを手に入れるための手段だった。しかし、お金は金本位制の廃止によって変容を余儀なくされ、今では、貧富の差を広げる方向に働くことになってしまった。
・すべてのものに値段をつけられる
・すべてのものはお金に換えられる
農家は、自分の家で食べる分を取っておいて、その余り物を交換したい。自分の家で食べる分を交換したいわけじゃない。
お金は余り物を交換するための存在である。
『 余剰価値の自己増殖的な運動体 』
余り物の交換手段に過ぎなかったお金は、いつのまにか、目的になってしまったのが、資本主義社会である。
- 不況は銀行が通貨供給量を減らすことで起きる。
- 通貨供給量を増やせば、市場は活性化し、好況となる。
- 銀行がなければ不況はない。
新たに生み出され付加価値の合計に正確に合わせてお金の新規供給量を調整すれば、デフレもインフレも好況も不況もない。金本位制制の時代のように、何らかの物理的にな基準に通貨発行量を連動させ、恣意の入り込む余地を失くせばいい。
お金をあたかも独立した価値があるかのように暴走するのを防ぎ、あくまでモノを手に入れるための手段という健全な在り方で留めるためには、経済が成長した分だけお金を増やしていけばいい。
宗教とお金教が人々を洗脳していく手段も同じである。
恐怖と快楽だ。
不完全性定理
人間は、不完全な存在なので「 自分がわからないことを知りたい 」「 完全な情報が知りたい 」と考えている。
「 人間の知りたい 」という欲求を満たすために、宗教というシステムは発達してきた。
「 完全なモノ、絶対的なモノなど、この世に存在しない 」というのが不完全性定理で、証明された。
数学を矛盾なくどのように形式化しても、証明も反証もできない命題が存在する。
万物の創造主 = 神 = 完全という情報は、まやかしに過ぎない。
イエスの憤怒
『 このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』
「ヨハネによる福音書」2:316
後に自らが十字架に磔になったときでさえ、周囲に優しい言葉をかけたイエスが、ここでは激怒して大暴れしている。
当時の社会では、ユダヤ教の司祭が「 シェケル 」という通貨の発行権を握っていた。通貨の発行権さえ押さえておけば、いくらでも通貨の交換レートを操作できる。それが昔も今も変わらないインフレ・デフレのカラクリである。
当時は「 デフレが盛んに仕掛けられていた 」と考えられている。神殿の中で両替商たちがしていた商売は、デフレで通貨の価値が高騰したのを利用して「 シェケル 」を高く売っていたのだと思われる。
「 両替という商売を神殿の中であえて行なう 」ということの意味は「 神の名を借りて『 お金に絶対的な価値を持たせよう 』としていた 」ということが伺える。
これに日頃温厚なイエスが激怒した。お金をまき散らし、その台を倒し、両替商を神殿から追い出した。
お金教が隆盛を極めるのは近代になってからだが、イエスは「 お金教が世界を席巻する 」ことを見通していたのかもしれない。「 お金教が、人間をお金に奉仕する奴隷にしてしまう 」ことを見抜いていた。だからこそ温厚なイエスが生涯にただ一度だけ激怒した。

コメント