【本要約】「 常識 」の研究 [ 山本七平 ]
2022/5/3
自由とは?
自由民と奴隷がいた社会では、自由の基本的意味は極めて明確であった。自由とは「 個人が自由意志に基づく決断によって行動する権利を持ち、また、その決断に基づいて契約をなしうること 」である。これができるのが自由民である。一方で、奴隷は、それを行えない売買と強制の対象であり、従って契約の対象にはなり得ない。
この原則は、組織と個人との間を律するだけでなく、個人と国家との間をも律するはすだ。日本国憲法は、日本人という一個人が自由意志に基づいて国籍を放棄する権利を認めている。
情報の価値
同じなら、ある意味では無用である。だが、この自明のことが無視されれば、本人が自己の感触以外は一切信頼せず、他の情報をすべて拒否するか、自己の感触に適合した情報にしか耳を傾けないという態度になっても不思議ではない。そして、これは実質的には感触のみであるから、このとき人は盲目同然となり、自己の触覚で知りうる範囲内だけで判断を下して行動に移る。これが集団的に起これば、簡単にパニック状態を現出して当然であろう。
現代は、情報社会だという。しかし、情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由に任せれば、「 人々は違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否する 」という結果になる。
それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏づける作用しかしないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人々は自己の感触を絶対化していく。これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得る世界にだけ住み、感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく。
それでいて本人は「 自分は多くの情報に通じ、社会の様々なことを知っている 」という錯覚は持っている。それが感触に基づく判断を社会的に刺激して、それだけで断定的評価を下す結果となり、情報の受容をさらに困難にする。
言葉と生活の座
語られた言葉は同じでも、その言葉をそのまま受け取るのと、その言葉が語られた「 時 」と「 場所 」すなわち生活の座において、それを受け取るのとでは、意味が全く違ってくる。
「 そのまま受け取る 」とは、言い換えれば、相手の言葉そのものに無限定の普遍性を認め、それを自分の生活の座で受け取った上で、受容するか拒否するかという態度であり、この場合は、その言葉が、元来どのような生活の座で誰に語られたかは無視される。
簡単に言えば、新約聖書のイエスの言葉をそのまま受け取れば、それは20世紀の日本という生活の座で、その言葉のままに受け取ることであり、その言葉を受容しようと拒否しようと、その言葉が語られた生活の座を無視しているという点では変わりはない。
イエスの思想ないし新約思想を研究しようとするなら、最初に排除しなければならぬのはこの態度であり、まず、語った者と語られた者および両者の関係を、2000年前のパレスチナの生活の座において把握しなければならない。
社会意識の変化
「 本が売れない 」のは単純に「 不況のため 」とは言えない。
こういう現象は、戦後何回かあった。いや、調べてみると戦前からあった。
- 普通、社会意識に一大転換があった時期なのである。
出版業は、この意識の変化を最も敏感に、またまともに受ける産業である。 - 意識が変化しても、人は、すぐにその日常生活を変えることはできない。
- 従って、日常生活の変化は意識の変化ほど簡単に一転しないから、時間的ズレを生ずる。
指導者の条件
「 基本的な方向付け 」を誤っていれば、悲壮な努力をしても成果は上がらず、この点にさえ誤りがなければ、小さな失策は障害とならずに自ずと克服され、居眠りをしていても立派に成果を上げていく。
指導者の任務は「 大きな方向付けを誤らない 」ということだ。
大きな方向付けを誤らないためには、わかりきっているごく初歩の原則を忠実に守ることに尽きる。一方で、この世の中で、最も難しいことは、極めて初歩の原則を単純に守ることである。
キリスト教
イエスは、ユダヤ教の狭い考え方を乗り越え、身分や民族の差別なく「 信じる者は、誰でも救われる 」とする教えを説いた。これがキリスト教である。
人間は全知全能ではない。知らないことがあって一向に構わない。ただ、それについて自分が無知であることを知っていればよい。


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