あなたにとってのジェットコースターは私にとっての激辛料理
2022/3/4
食べなくても生きていける人がいるとしたら、私たちにとっての食事は、生存のために必要な行為ではなくなる。つまり、娯楽である。美味しいから、ただ、食べることがもたらす快を得たいから、食事をする。食べることがもたらす快を誰かと共有することが、楽しいから、食事をする。[ 快のための行為 = 娯楽 ] である。
食事は、娯楽だ。
娯楽なので、激辛料理は、正しい。
なぜ、辛いものを「 辛い 」と感じながらも、食べるのか?
激辛料理が好きな人は、別に「 辛くない 」と思っているわけではない。「 辛い 」という感覚が麻痺しているわけではない。「 辛い 」と思っているし「 痛い 」とも思っている。「 辛い 」と「 美味しい 」の違いもわかっている、[ 辛い = 美味しい ] ではない、[ 甘い = 美味しい ] の違いと同じくらいわかっている。「 辛い 」のが、好きなのだ。「 辛い 」という感覚が、楽しいのだ。
辛いものが嫌いな人には、理解できない概念である。
食事を生存行為として捉えていたら、いつまでも理解できない。
しかし、食事は、娯楽なのだ。
だから、激辛料理を食べて
「 辛い 」と感じることを楽しむ
「 全身から汗が吹き出す 」という体の変化を楽しむ
「 食べ切った 」という達成感を味わう
娯楽である。
サウナという熱い中に入って、ひたすら我慢して「 汗をかく 」という娯楽が、好きな人もいる。
日常ではあり得ない危機的状況を肉体に与えて「 その変化を楽しむ 」という娯楽である。
「 生存本能を脅かす 」という娯楽である。
ジェットコースターも同じだ。
非日常の「 落ちる 」という行為を楽しむ娯楽だ。
人間にとって、長い間、高いところから落ちることは、死ぬことだった。
だから、本能的に高いところが苦手だ。高いところを克服しても、落ちたら死ぬことは変わりない。
だから、落ちることは、生存を脅かす恐怖である。
それを疑似的に作り出した娯楽が、ジェットコースターである。
- あなたはジェットコースターが好きで、私は激辛料理が好きだ。
- あなたにとってのジェットコースターは、私にとっての激辛料理である。
激辛料理、大食い、サウナ、寒中水泳、ジェットコースター、バンジージャンプ、、、
私たちは、死にたくないけど、死の直前までは、いきたい生き物なのだ。
また、性行為は、繁殖のためよりも、もっぱら娯楽のためとして、行われる。体の快を求めて、性行為、疑似的性行為、自慰行為を行う。性行為は、本来、生を授かるための行為である。私たちは、死だけではなく、生に関わる行為も、娯楽としている。
自殺は、人間が行う、禁断の娯楽、究極の娯楽である。
自殺に対して、娯楽という解釈を与えた。
モノゴトは、すべて解釈次第なのだ。白に見えるのではなく、白と解釈しているに過ぎない。白に見えているのではないから、黒と解釈できるのだ。
信号の色は緑色である。でも、青という。
私たちは、緑色に見えている信号機に対して、青という。目に見えている現実は、緑色なのだ。でも、信号を緑という人はいない。信号は青という。私たちは緑色の信号を見て、青と解釈しているのだ。青は、色の言葉であるが、信号の青は、色の言葉ではない。信号の色は緑色なのだから。信号の青は「 進めという概念 」であって、色を示していない。信号の青は、青色ではなく「 進め 」という青である。
私たちは、目の前にある現実を解釈している存在に過ぎない。目に見えている現実は、解釈次第なのだ。「 信号の緑色 」を「 進めという概念の青 」に解釈しているように。その解釈が共通概念になっているだけだ。
この世に、白と黒はない。すべてグレーである。そのグレーを白とするか、黒とするかは、自分の解釈次第だ。だから、自殺をネガティブな逃避ではなく、ポジティブな究極の娯楽と反転することも可能なのだ。
仏陀は、悟りの境地を、生まれ変わりのない「 永遠の死だ 」と解釈したし、キリスト教は、最後の審判で「 永遠の生 」を受けることを目指す。仏教とキリスト教は全く正反対のことを言っている。仏教は、死を白とし、キリスト教は、生を白とした。そして、仏教徒も、キリスト教徒もいるのが、この世界だ。
世界は変えられない。でも、自分の解釈を変えることはできる。自分の解釈は、自分次第である。自分の解釈で、世界は、どのようにもでも、捉えられる。この世が天国という人もいるし、この世が地獄という人もいる。自分が天国と捉えるか、地獄と捉えるかに過ぎない。
・仕事は、どうでもいいもの
・毎日、仕事しなければならない
・仕事は、適当で必要最低限でいい
- 食べるためには、仕事が必要?
- 食べなくても、生きていける人がいる。
- 食事は娯楽だ。ジェットコースターと一緒だ。セックスも娯楽だ。
- 信号機は、緑色なのに、私たちは、青と言っている。
2000年以上も続く圧倒的なビジネスを作り上げた2人のビジネスマンは、全く正反対のビジネスモデルである、一人は永遠の死を目指せ!もう一人は永遠の生を目指せ!
人には、生まれた意味があるはずだ!生きる意味ってなんだろうか?
人が、生まれた意味なんてない。人は、自分で、死ねないから生きているだけだ。
人が生まれた意味を考えるために人生はある。
人生はすべて幻覚である。気のせいだ。
自分がやりたいことをやるためにこの世界がある。
大人になったら、何したかったんだっけ?
大人になったら、アレしたい、コレしたいってあったはず、忘れているだけだ。

コメント