桜は儚い、儚いからこそ人生

湯浅

桜は儚い、儚いからこそ人生

2021/4/1

生きる証

人は生まれて、死ぬ。

生まれて死ぬまでの時間を、人生という。

その人生で、何か新しいことを成し遂げ、偉大な功績を残した人が、歴史に名を刻み、後世に名を残す。

でも、ほとんどの人は、生まれ、ただ生きて、何かを成し遂げることもなく死んでいく。

ただ、そんな人たちでも、後世に残すモノがある、子どもである。

僕らは、名前を残すことはできないけど、子どもを残すことはできる。

子どもとは、自分が、生きた証である。

自分が死んだ後も、この世界で生きていく、自分がこの世界に存在したからこその存在である。

桜と贖罪

一昨年は、アジアのどこかの街にいた
昨年は、八王子にいた
今年は、高円寺にいる

日本にいる限りは、あの公園に行く

桜が咲いている時に生まれた、娘

娘との思い出の公園に行って、桜を見る

娘を思い出しながら、桜を見る

「娘のために何かしたいのに何にもできないな」とおもう

「娘のために何ができるのだろう?」とかんがえる

養育できないという贖罪を背負って、離婚した父親は、生きている

三ツ池公園

公園で遊ぶ子どもを見て、楽しかった思い出が、見える。目には見えないけど、頭に見える。

今日で、娘は8歳である。

でも、俺の頭の中では、俺が知る娘は、2歳までの娘である。だから、2歳のまま、記憶の中で、遊んでいる。

人生で1番楽しかった滑り台は、娘と一緒に滑った滑り台である。娘にせがまれて、何度も何度も、無限ループした滑り台である。

今は、もう滑り台を1人で滑れるだろうか?
もう滑り台で遊ぶ歳ではないのか?

わからない。

娘に会いたい

人は、生まれた時は、裸だった
言葉も話せなかった
ただ、泣いていた
何もできなかった
少しずついろんなことができるようになった
ご飯を食べれるようになった
言葉を話せるようになった
歩けるようになった
歌をうたえるようになった
走れるようになった
終わり

その先の成長は、もう、見えない。
見えないだけで、その成長は、進んでいる。
この世界のどこかで、きっと、半径100km圏内のどこかで、生きている。

ただ、元気に生きていてほしい

娘が8歳になりました

1年で1番嬉しい日です

でも、目から涙が溢れてきます

やっぱり、娘に会いたい

「今日が、人生の最後の日だとしたら、どう生きる?」という哲学の言葉がある。

いつも、おもう

娘に会いに行く

自分の人生で1番やりたいことは、娘に会うことだ。娘に会うということは、娘の成長を目にしたいということだ。

でも、それが叶わないのは、自分の人生の歩いてきた道である。

「娘の誕生日に、娘に会えない」ということが、贖罪の証である。

生きることの難しさよ

愛の切なさよ

家族の危うさよ

愛とは

俺が娘のために残した唯一のモノは、” 海音 “ という名前だけだった。

自分の人生の中で、1番耳にする言葉が、自分の名前である。

今日は、“ 海音 “ と書かれたケーキでお祝いされるはずだ、この世界のどこかで。
そして、この世界のどこかで、幸せな顔をしている。

「娘が幸せなら、自分が死んでも構わない」くらいには、娘が愛おしい。

『愛』ってそういうことなのかもしれない。

娘の誕生日である今日は、俺にとっての『愛』の誕生日でもある。

『愛』とは、自分の命がなくなるという恐怖よりも、誰かの幸福を願うこと。

大事なモノは2つだけ

あの時、繋いだ手を離さなかったら、

人生に、「もし、」「たら、」という言葉は、存在しない。

俺は、自分の意思で、手を離したのだ。

俺は、元妻との手を離した。

そうしたら、必然的に娘との手を離すことになったまでだ。

娘との手が離れてしまった。
ガムシャラに働いて、金を掴んだ。
仕事を辞めて、時間を掴んだ。
時間を使って、世界一周という夢を掴んだ。
いろんなモノを手放して、いろんなモノを掴んだ。

何かを手放さなきゃ、何かを手に入れられない。

人の手は、2本しかない。

それは、大事なモノは、2つしか掴めないということである。

たくさん掴もうとしてはいけない。

1つずつ掴んで、1つずつ離していく。

いつかまた、娘の手を掴みたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました