科学は宗教から生まれた
2022/5/8
私はお金を信じている。
科学もお金も反証可能性を持っている。
- 科学は仮説に過ぎないのだから、新しい理論によって覆される可能性がある。
天動説から地動説のように。 - お金は、国家権力の象徴に過ぎないのだから、インフレによって、無価値になる可能性がある。
ジンバブエのように。
反証可能性がないものを信仰という。
宗教である。
「 神はいるか?」ということに対しては、反証できない。神がいないことを証明できないのだから、信仰になる。
神じゃなくてもいい。本でもいい、人でもいい、何かを「 無批判 」に盲信することは、信仰になる。
無批判というのがポイントになる。「 信仰している思考をそのまま受け入れる 」ということなので、そこには、例えば、科学的におかしいこともあるかもしれないし、論理的につじつまが合ってないことがあるかもしれないし、金銭的にマイナスになることがあるかもしれない。でも、無批判で信仰するのだ。でも、それで、いいのだ。それで、本人が幸福になるのであれば。
幸福の定義が一つに定まらないのは、幸福の定義は、一人一人で異なるからだ。
食べ物の好き嫌いみたいに、ニンジンが好きな人も、嫌いな人もいる。だから、ある人にとっての幸福は、他の人にとっては不幸かもしれないのだ。ゲームが好きな人は、ずっとゲームをしていたいかもしれないけど、ゲームが嫌いな人は、ゲームをするのは苦痛なのだ。
自由に自分の幸福を定義していい。
信仰して幸福になるのであれば、それでいい。
神を信仰して幸福になるのであれば、それでいい。
世界中の半分1/2の人間は、存在の証明ができない、神を信仰しているのだ。世界中の1/3の人間は、1人の神の子を讃えて信仰しているのだ。
非科学だとわかっていてもいい。幸福ならば。
お金を払ってもいいのだ。金銭的にマイナスでもいいのだ。幸福ならば。
個人の幸福が満たされるならば、信仰はありだ。
例えば「 私の幸福が金持ちになることだ 」として、神を信仰すれば金持ちになれるのであれば、私は、神を信仰する。私にとっての幸福は、金持ちになることであり、そのために、神を信仰することが必要であったり、近道であったりするならば、神を信仰することは、私にとって、正しい行いだ。非科学で、お金を払っても。
いわゆる、神社のお賽銭と同じ行為だ。
- 神を信仰していない日本人は、神社でお金を払って、神様に願いをする。
- この一瞬だけ、私たちは、神様を信仰する。
- 祈り終えて、振り返った瞬間に、現実の世界に戻る。
私は「 私を幸福にしてくれるための信仰ならばありだな 」と考えるに至った。金持ちにしてくれるならば、豊かな人生を歩ませてくれるならば、神でも何でも信仰しよう。
なるほど、こうやって、宗教が生まれたのか。人々の「 幸福になりたい 」という願望があって、でも、人々は無知だから、その方法がわからなくて、誰かに教えて欲しい。それが、証明できないことだとしても「 信じれば救われる 」という言葉にかけてみよう。神を信仰してみよう。
「 神の創ったこの世界は、この地球は、何よりも美しいはずだ 」と信じて、真理を求めた結果、それが科学となったに過ぎない。
- ニュートンだって、ガリレオだって、熱心な信者なのだ。
- 科学者たる前に、神を信仰していた。
- 神を信仰していたからこそ、科学を生み出した。
現代の私たちが、学校で習っているのは科学である。それは、現代では、科学の力が、一番扱いやすく、一番便利で、一番役に立ち、一番仕事になるからだ。
- 神への信仰が、真理を求めて、真理の結果が科学なのだ。
- 「 神の偉業を知りたい 」という欲求が、真理を追求するに至った。
- 神への信仰がなければ、科学は生まれなかったかもしれないのだ。
「 私は存在しない 」という、超難問を軸にした信仰もある。日本に広く知れ渡っている信仰である。私は「 認識するものだから、認識できない、認識されるものではない 」と説く。私は「 他者ではない 」という真理があるから、私は「 自分ではない 」という手法である。理解の上にある、悟り。悟らないとわからない。科学の力、論理的思考は意味をなさない。

- どんなことを信じてもいい、私が幸福ならば。
- 科学やお金を信じて幸福ならばそれでいい。
- 神を信じて幸福ならばそれでいい。
- 非科学な真理を信じて幸福ならばそれでいい。
何を信じるかは、自分の自由だ。
幸福の定義が、自分の自由であるように。
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