自己への知的欲求

幸福

自己への知的欲求

2020/12/5

願望 < 遊び

プールで泳いでたら、小学生の低学年くらいの子が、めちゃくちゃ泳ぐのが上手くて、思わず見とれるほどで、湯浅も、「上手く泳げるようになりたいな」とおもう。

「その子のように、泳げるようになりたい」って思って、一生懸命に練習したら、近付けるかもしれないが、きっと超えることは、できない。

それは、その小学生が、楽しんで、泳いでいるからだ。

  • 湯浅は、「上手に泳げるようになりたい」という願望がファクト
  • その小学生は、「泳ぐのが楽しい」という遊びがファクト

願望じゃ、遊びには、勝てない。

願望は、努力が必要であるが、遊びには努力は必要ない、遊びは、ただ楽しいからやっているだけだ、自然現象であって、意思はない。

  • ゲームが上手くなりたいって、がんばって、ゲームをしている湯浅
  • ゲームが楽しいって、ゲームが楽しいから、ずっとゲームしていられるという小学生

勝負の行方は明らかだ。

願望じゃ、遊びには、勝てない。

上手く泳げるようになりたいでは、泳ぐのが楽しいには、勝てない。

願望という意思は、遊びの権化である楽しいという感覚に勝てない。

遊びの定義

遊びを定義しよう。

遊びとは、楽しいこと、おもしろいことで、自分が苦もなくできて、いや、むしろ、ずっとやっていたいことである。

ソフトバンクの孫さんとか、ユニクロの柳井さんのようなグローバル企業を作った人は、間違いなく、仕事が遊びである。仕事が楽しくて、おもしろくて、たまらないから、ずっと仕事をしていられる。仕事にハマってるから、企業が成長して、世界にまで広がる。

彼らにとっては、仕事が、ゲームで、ゲームの得点が、資産なんだろう。そして、一生かかっても、使い終えられない資産には、ゲームの得点くらいに興味がないのだろう。

ゲームの世界のように、自分の行動によって、世界が変わっていく様が、しかも、その変容が、予想外であることが、たまらなく、おもしろいんだろうなと。だから、仕事が遊びになる。彼らの仕事ほど、世界が変わって、おもしろいゲームはない。

自分にとっての遊びとは?

湯浅にとっての遊びは、何なのか?

湯浅は、未知の体験がしたいんだ。未知のことをして、ワクワクと驚きの中に身を置いていたいんだ。夢の世界一周は、世界を体験したかったから、それは、ワクワクと驚きの世界を知りたかったからである。

今の夢は、夢というか、叶えるから、夢という壮大な言葉は、必要なくて、目的なんだけど、海外移住である。

なぜ、海外移住か?

世界一周して、「旅だとその国や街の上面しかわからなくない?」って、本質に直面したからだ。そうだ、知的欲求は、旅で知ることができる上面ではなく、生活してはじめて知ることができる移住だ。実際に、その国、その街に住んで、その街の人に触れて、よりその街の生活を知る。

「何でそんなこと知りたいの?別に日本でよくない?」

確かに一理あるかもしれない。

でも、湯浅の知らない世界があって、その知らない世界で、生活してる人がいる。その人たちが、どんな生活してるのか知りたいっていうね、ただそれだけ。自分が生きて来た世界、日本と違う世界で生きる人についての興味というのが的確な表現か。

海外移住の条件

ただ、海外移住は、経済的自由が前提であるが。

経済的な不安は払拭した上で、世界を遊ばないと、どこかで、経済的な不安を気にしていたら、全力で、ワクワクして、驚いて、楽しめないからだ。

経済的自由は、お金からの卒業であるから、お金という概念から、卒業して、本当に自分のやりたいことをやって生きていく。

経済的自由なんて、簡単に達成できないのは、重々承知の上である。

でも、決めたから、あとはやるだけ。

自己知

なぜ、それほどまでに、海外在住してまで、自分と違う価値観に触れたいのか?

それは、自己への知的欲求である。

世界一周で知った自分の変容である。

そして、次は、海外を旅ではなく、「海外で生活した時の自分の変容は、どうなるんだろう?」

そんな自分が知りたいのだ。

ただ、自分が知りたいのだ。

自己成長

湯浅が文字を書く理由?

世界一周の時は、忘備録として、後は、「マネタライズできたらいいなー」と考えていた。今は、書くことで、自分が何を思考しているのかを、自分の言葉で明確にするために。

結局、知りたいのは、今の自分の思考である。

人は、誰も、自分以外に興味はない、最も興味があるのは自分だ。

自分を知ることが、自己への知的欲求が、人間の持つ1番強い欲求である。

自殺もある意味においては、自己への知的欲求である。「死んだら自分はどうなるんだろう?」「自分の死って何だろう?」という欲求によって、自殺はもたらされる。

自己への知的欲求は、自殺さえも、自分の中で肯定してしまう。

だから、自殺するほどのエネルギーがある自己への知的欲求を、別の何か、仕事でも、恋人でも、家族でも、転化する事で、巨大なエネルギーとなる。

例えば、仕事で、新しい業務にチャレンジする。それは、新しい業務を自分がうまくできるのか知りたいということである。この場合、うまくいくか、うまくいかないかは、問題ではない。新しい業務にチャレンジするということに意味がある。未経験な状況における自分の立ち振る舞いを知りたいだけなのだ。とはいえ、自分でやったことなので、必然と、うまくいくようにすることにはなるが。そして、結局、そうして、人は成長していく。

自己への知的欲求は、自己への成長へと転化した。

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