「評価経済社会」からの思考
2022/2/1

戦時中、敗戦後、その当時は、モノ不足だった。食べるモノにも困っていた時代である。現代は、24時間食べ物を買うことができるコンビニが、至る所にある。しかも、低価格である。モノ不足の時代ではないように思える。しかし、現代は、モノ不足の時代なのだ。
なぜ、現代は、モノ不足と言えるのだろうか?
その理由を紐解いてみよう。
朝起きて、何を食べようか?
何を着て行こうか?
スマホのニュースで、何を読もうか?
数ある中から、選択している、意識していなくても。
そもそも、私たちの人生は、選択の連続であり、選択の結果に今がある。大学を選択し、会社を選択し、伴侶を選択し、大きな選択から、毎日のご飯や服などの小さな選択まで、様々である。その選択が日常であり、その選択の積み重ねが、人生である。選択なき人生などない、人生とは選択の積み重ねでできている。私たちは、生きて行く限り、選択から逃れられない。
そして「 自分にとって最良を選択したい 」と考えている。
私たちは「 最良を選択したい 」と考えたときに、スマホで調べる。
私たちは、スマホで調べて、最良を探し出す。
いつも、最良を探せるわけではない。
膨大な情報の中から、最良を探し出すのは至難だ。
少しでも、安い商品を探して、気が付けば、10分経っていた経験は、誰しもあるだろう。しかも、それが、600円の商品を探していたら、500円で同じような商品があって「 最良だ 」みたいなことだ。実質100円得したことにはなるが、失った時間は10分、時給600円の社会だ。でも、私たちは「 100円得した 」と錯覚してしまう。
安い買い物なら、そんなモノで済むかもしれない。でも、パソコンやスマホやブランド品などの高額商品では、最良を探すことは、簡単ではない。選択肢があればあるほど「 どれがいいのか 」を選択するのは、容易ではない。時間もかかるし、悩んでしまう、余程のことがないと、即決できない。そして、悩んでいるうちに、めんどくさくて「 また今度でいいか 」と先延ばしにしたり、そのまま忘れてしまったり、悩み疲れてあきらめてしまう。
湯浅的経験だと、選択肢の数は3つが適正だ。3つの中からなら、自分のベストを選び出すことができる。そして、最大でも選択肢の数を5つくらいまで絞り込まないと、決断できない。それ以上の選択肢があると、正確に処理しきれない。私たちは「 選択肢がたくさんある方がいい 」と錯覚しているが、私たちは、選択肢が多すぎると「 選ばない 」という選択をする。
店頭にジャムを「 20種類並べて売るより、5種類並べて売った方が、売れた 」という結果もある。
私たちは「 選択肢が多すぎると、わからなくなってしまう 」のである。
ググって調べるときも、50選とか言われても、選べない。20選でも多いかもしれない。10選、5選とか、そのくらいからなら検討できる。私たちは、情報過多に対応できていない。
私たち人類は、江戸時代から、それよりもっと前の平安時代から、どれほどの進化をしたのだろうか?
私たちが1日に受け取る情報量は、江戸時代の1年分、平安時代の一生分の情報量である。
私たち人類の脳は、もう、現代の情報のスピードに付いていけない。情報量が、脳の処理キャパシティーを超えている。だから、情報過多で、わからなくなってしまうのだ、選べなくなってしまうのだ。
情報の氾濫によって、選択肢が膨大になってしまった結果、私たちは、選択権を放棄しはじめた。
モノが不足しているのではない、情報過多によって、無限の選択肢が登場し、あるモノを選べなくなることによって、モノ不足が生じている。モノ不足は、目の前の現実にあるのではなく、私たちの頭の中にある。「 モノはあるのに選べない 」というモノ不足である。それは、もう一方で「 モノを選び過ぎる 」というモノ過剰も生み出す。
回転寿司は、選ぶ楽しさがある。選びたいものが多すぎて、食べ過ぎてしまうことがある。わからなくなって、過剰に選択してしまうのだ。もはや、選ぶ楽しさが、食べる楽しさを超えてしまうこともある。
回らない寿司は、おまかせであり、選ぶとしても、特上・上・並の3種類くらいである。そのときのオススメを、大将が出してくれるので、料理を味わうことに集中できる。適度な選択肢が、集中を促してくれる。
私たちに必要とされるのは、情報選択能力を高めることではない。アウトプットを磨くことではない。インプットを減らすことだ。インプットする情報の厳選である。情報取捨能力を高めることによって、モノ不足が解消される。
私たちが日常で接している情報を厳選することで、私たちは変化できる。どんな情報を接するかで、未来の私は、造られる。理想の未来を手に入れるためには、そのために必要な情報を選び、残りは、捨てることにある。
テレビ・新聞・ニュースなどのマスメディアは、理想の未来を約束してくれるのか?
YouTubeは娯楽のメディアとしてではなく、良質なコンテンツとして捉えたときに、そこからは、いくらでも、学びを得ることができる。
メディアが流す情報にコントロールされないためには、自分から必要な情報を得に行く姿勢である。情報の渦の中に、巻き込まれて、溺れている場合じゃない。自分の意思で泳ぐことでしか、行きたい場所に、辿り着けるはずがないじゃないないか。掴みたい未来を掴めるはずがないじゃないか。
探さなければ見つからない、マスメディアの中にあるのは幻想だ。自分が、幸せになるための情報は探せば必ずある。情報によって、自分の精神が作られるのだ。自分を幸せにするのは、自分しかできない。
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