社会的欲求と社会的感情
2021/10/27
社会とは、個人の集団によって形成されたモノである。
常識とは、社会通念をひとまとまりにした概念である。ひとつの概念だから、常識が正しい訳ではない。常識が正しければ、東大生や、医者や、弁護士は、全員、お金持ちでなければならない。
- 常識で辿り着けるのは、小金持ちでしかない。
- お金持ちは、非常識である。
人と同じことをしないから、お金持ちになれるのだ。人と同じことをしても、同じ人たちの中で競い合うだけだ。そして、優秀な人は腐るほどいる。
私たちは、本能から群れる習性を持つ。古代はひとりで生きることはできなかった、集団に属することで協力して生きながらえてきた。現在でも、アフリカの未開の部族が、そうであるように。だから、私たちは「集団・社会への帰属したい」という意識がある。それが、社会的欲求だ。「群れたい」「所属したい」「交わりたい」である。
社会的感情とは、社会的欲求を持ちながらも、それだけでは飽き足らない。「その帰属した社会での地位を獲得したい」という感情によって、芽生える。他人よりよく見られたい、他人の上に立ちたいという、『見栄』であり、マウンティングである。それが、社会的感情だ。
社会的欲求がなければ、『見栄』という社会的感情は存在しない。私たちは、『見栄』によって消費を促される。消費は「私はあなたたちと違う」という差異を生み出す。マーケティングは、差異の最大化である。
私たちは、今、1人で生きていける時代になった。だから、本能も文化も不要だ。好きに生きていい。社会に帰属しなくても、社会に自分の存在をアピールしなくてもいい。そうすると、私たちは、自分がいかに社会に対しての消費活動に囚われていたのかを知る。いかに物欲に囚われて浪費していたのかに気付く。
見栄を張るための物はいらない。
必要最低限の物があればいい。
物欲からの解放が、自由への一歩
必要最低限の物があればいい。
物欲からの解放が、自由への一歩

【本要約】武器になる哲学4 〜 他人
私という個人は、分かった後と前では、違う人間になる。なぜなら、昨日の自分では、わからなかったことが、今日の自分は、わかったからだ。「わかる」ということは、「かわる」ということである。
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