社会的自由論
2022/3/16
社会契約論の解釈
ヨーロッパで生まれた文化だ、当然、キリスト教の影響を受けている。
神とのタテの契約を、人間同士のヨコの関係に当てはめた、人間同士の契約を前提として、社会契約という議論が成立する。キリスト教文化の中では、その前提に、疑問を挟む余地はない。
- ヨーロッパ社会においてのキリスト教を、日本語に訳すと常識となる。
- 日本文化の中で育った私たちが、武士の切腹に疑問を持たないのと同様である。
武士が、自分の名誉や道理のために腹を切って自殺することは、世界では異常な行動である。私たちは、自分の文化に在るものを疑問視しないのではなく、疑問視できないのだ。
私は、キリスト教ではないので、疑問に思う。
- 神の契約が絶対だから、人間同士の契約も自然としている。
100歩譲って、神の契約は絶対としよう、しかし、人間同士の契約は、ちょっと待っただ。
私は、契約を結んでいないぞ。
契約していないのに、契約を前提としている、NHK状態である。
- 私は、NHKと契約を結んでないのに、NHKは金を払えという。
- 私は、国家と契約を結んでないのに、国家は税金を払えという。
税金が前提となって国家の仕組みが成り立っているのは理解している。
警察も消防も救急も、行政も、福祉も、その他の様々な社会の仕組みは、国家の税収で賄っている。
「 事実があるのだから受け入れろ 」とは、野蛮だ。NHKじゃないんだから。
私は、国家と契約していないのだ。
民主主義の原型である社会契約論の前提への疑問の投石である。
私は、私が納得して契約したのなら、お金を払う。でも、私は、契約してないのに、そういう仕組みだからって、勝手に税金を徴収されるのは、気に食わない。
じゃあ、どうするのか?
この契約が、私が納得いくものなのかを検証するしかない。
この社会の在り方が、私が望むべき世界で、お金を払っても維持してほしい国家なのか?
自由への道程
この疑問に辿り着くまでの道程がある。
それは「 私は自由になりたい 」というオモイである。
そのオモイを持ち続け「 自由とは何か 」を考え突き詰めた先に、辿り着いたのだ。
「 私は自由になりたい 」
自由とは、何にも縛られない状態である。
私は、何に縛られることから解放されたくて、自由を求めているのか?
そうやって、探しているうちに、この社会の成り立ちの原型思想である社会契約論へと辿り着いた。
私は社会に縛られている、社会からの解放を求めて、自由を探しているのかもしれない。
そして、社会って何?
- 自由と社会を掘り下げていくことで、私の本当の自由がわかるかもしれない。
- 国家への税金に納得がいくのかもしれない。
- 民主主義国家の前提となっている、社会契約論に対しての疑問が解消されかもしれない。
自由とは?
自由の定義は難しい、人によっても異なる。
そもそも、自由を欲しない人もいる。
ずっと、ずっとお金に縛られてきたし、これからもお金があれば不自由しなさそうだから、「 お金に不自由しない生活が自由だ 」と考えた。経済的自由に、私の自由があるような気がしていた。

・経済的自由 ( お金 )
・肉体的自由 ( 健康 )
・人間的自由 ( 家族・友人、すべての人間関係からの解放 )
・生活的自由 ( 好きなときに、好きな場所で、好きなこと )
これだと思ったし、思っていた。
これはこれで、一つの結論である。
自分視点の自由である。
この人生の物語の主人公は、自分だから、自分視点の自由こそ、辿り着くべき自由である。
知識は残酷にも「 いや、まだ他の視点があるよ 」と、私に、知恵を授けてくれるのだ。
本当にそれで自由たり得るのか?
本当の自由、教えてよ?
あなたが「 私の生き方を尊重するよ 」というのが、私の自由である。
- 私の自由を考えるとき、他者 ( あなた ) の自由という正反対の言葉の意味を確立して、それを反転させることで自由に辿り着く。
- 私の自由を考えるとき、不自由という正反対の言葉の意味を確立して、それを反転させることで、自由に辿り着く。
他者からの自由
私は、私なりに色々と考えているのだ、だから、私の生き方に口を挟まないで欲しい。
私の生き方は、教科書に載ってない。だから「 学校で習ってないよ 」ってみんな思っている。「 大人になったら、仕事をして、結婚して、子どもを為して、家を買いなさい 」と教科書に書いてある。
学校で習ったから、みんな「 それが正しい 」と思って、その通りに生きる。決まったレールの上を走る。先駆者もいるし、その方が安全だ、安心して生活できる。
大多数の人々が、安全で安心して、暮らせる社会を育むためにある。
それはそうだ、小学校から大学までの16年間、教科書を勉強して、社会人になるのだ。そのための教科書は、社会に対して最適化されていなければならない。大多数の人々に最適化されているので、その教科書が、全員に適しているわけではない。
ひとつだけわかっている絶対的な事実がある。
・教科書には、お金のことは書いてない。学校でお金のことは習わない。
・教科書通りに生きる人は、成功者になれない。
・教科書には、成功法則は書いてない。教科書には、安心安全な生活のためのルールブックだ。
・教科書通りに生きる人は、教科書に載らない。
・教科書に載らない生き方をした人が、教科書に載っている。
私たちは、教科書に載る生き方の難しさを知ることで、逆説的に教科書通りに生きるのだ、反教科書的に生きるのだ。それがつまり、教科書通りに生きることになる。偉人を知ることで凡人として生きる術を学ぶ。
私はこれまで、教科書通りに生きてきて、教科書通りのレールに乗っていた。だけど、どうやら、この列車の行き先には、お金持ちも、私の自由もないことに気付いた。
- 私は、列車を降りた。私は列車を降りて、立ち止まった。
- 私は、原点回帰して、私の自由を考えてみることにした。
私は、私の自由を叫んでいた。
私は、自由になりたいのだ。
私は、自由に生きたいのだ。
悲しいぐらいの事実は「 私は、この人生で自分のやりたいことをすべて実現できない 」ということだ。世界中のすべての国に住んでみて、私が一番居心地がいい国はどこかを知って、そこで暮らしたい。
どうやら、自由はタダじゃないから、自由の獲得のためにはお金がかかる。お金があれば、多くの自由が買えることは、誰もが知っている。それが教科書に載ってないことも。自由の獲得のためには、お金を稼いでお金持ちになることが前提となる。
42年も生きてきたのに、自由どころか、お金持ちですらない。
多分、何か、問題があるはずだ。
私の根本に、問題があるはずだ。
私は、自分の原点へと思考を走らせる。

アレンジが必要だ。
↓
「 人に迷惑をかけてはいけないけど、人に頼っていい 」
↓
「 自分だけで生きなくていい、自分にできないことは、他人にお願いしていい 」
私が、お金持ちになっていない理由が判明した。
一人じゃお金持ちにはなれないのだ、誰かの力を借りてはじめて、お金持ち行きの列車に乗れるのだ。
・お金持ちというのは自分の問題だけど、その問題を解決するには、自分の外に、他者の中にあったんだ。
あぁ、そうか、そうだったんだ。
逆だ、逆。
教科書と同じだ。
偉人を知ることで凡人として生きる術を学ぶのが教科書である。
私の自由のためには、まず、あなたの自由を尊重しなければならない。
丸2年間、お金持ちになるために、自由になるために、ただひたすら、自分を、自分の思考自体を改変することだけに費してきた。OSのアップデートではない。OSの入れ替えである。OSをアンインストールして、新しいOSをインストールする。
- アンインストールするOSは自分のこれまで培った思考や人生の在り方
- インストールするOSは、自由を獲得するためのお金持ち・成功者の思考
自分の人生と思考を全否定して、自分の真の目的のために必要な思考を取り入れる作業である。
投資したのは、自分の時間、自分の人生、自分の命である。
不自由からの法律
- 「 何が好きか?」と言われてもパッと出てこないかもしれない。すぐに出てきたとしても2桁いくかどうかくらいだ。
- 「 何が嫌いか?」と言われたらパッと出てくる、すぐに出てくる、どんどん出てくる。
私たちは、快よりも、不快を強く知覚する、本能がある。幸福よりも不幸の方が強く記憶に刻まれる。
ポジティブを表現したければ、逆のネガティヴからスタートするのが、一つの手法である。ネガティブを明らかにして、それを反転することで、ポジティブが表現され、その正体を捉えることができる。
自由の範囲は広く、捉えどころがない。
私は自由ではないと感じるくらいは、息苦しいと感じるくらいは、不自由なのだ。
私は、敏感かもしれない。
私は、繊細かもしれない。
私は、ワガママかもしれない。
いづれにしても、不自由と感じている限りは、その原因を明らかにしなければ、スッキリしない。
不自由であることが問題なのではなく、なぜ不自由であるのかわからないことが問題なのだ。
わからないことが問題なのだ。
わからないことを放置できないのだ、なぜなら、わからないとムカつくからだ。
私は、このムカつくという感情によって、私を駆動している。
わかったら対処のしようがある。受け入れるなり、変えるなり。
しかし、わからないのは、いかんともしがたい。対処のしようがない。
わからないことが、ムカつく。
私は、多分、このわからないことはムカつくという感情によって人生を切り開いてきた。
わからないことはムカつくから、仕事する。
わからないことはムカつくから、結婚する。
わからないことはムカつくから、子どもを為す。
わからないことはムカつくから、離婚する。
わからないことはムカつくから、金を稼ぐ。
わからないことはムカつくから、世界を見る。
私は、不自由であることがわからないから、ムカつく。
そんな時は、学生時代と一緒だ。原点回帰だ。勉強すればいい。
図書館に通って、わからないからムカつくって、勉強するしかない。
不自由とは、私を制限するものである。私が右を向きたいのに、左を向けという存在である。
その制限の怪物が、ゲームで言うところのラスボスが、法律である。
この規律に逆らうことは許されない。生きていく上での絶対的規律、人としての守るべき最低限のルールである。ルール違反は、拘束される。拘束どころか、場合によっては、殺される。最強の規律が法律である。
国家である。
そうだ、日本を統治する国家がその規律を法律として制定した。
殺人を唯一合法的に実施できる機関が、国家である。
常規を超えて法律を違反しない限りは、人を何人も殺さない限りは、国家に処刑されることはない。
殺人が趣味の人にとっては、法律は不自由かもしれない。しかし、そういう人は、突然変異の希少種なので、進化論的にも排他される存在であるから、国家は、理にかなっている。
国家は、人々の平和と自由のためにあるとされている。
私たちの国家日本は、民主制の国家である。国民、私たちの一人一人が、主役である。
その主役の一人である、私は、違和感を感じている。
自由であることを前提として国家が設立されたはずなのに、私は、不自由を感じているのだ。
国家が制定した法律なのか?
確かに私の趣味が殺人であったならば、法律に不自由を感じるかもしれない。戦国時代や戦争中に生まれなかったことを嘆いたかもしれない。でも、私には、殺人という趣味はない。それどころか、盗難・強盗・強姦・傷害・薬物・詐欺というような、法律で規制されている行為に興味がない、そういう風に育ててくれた両親には感謝しなければならない。だから、私は、法律によって、不自由を感じているわけではない。
もう一度、原点に立ち戻ろう。
国家は、人々の平和と自由のためにあるとされている。
自由であることを前提として国家が設立されたはずなのに、国家の民である私は、不自由を感じているのだ。
法律は国家が作った。法律は不自由でない。
国家ってどうやって作られた?
国家の設立から、解決の糸口を探りたい。
法律の本質
・私たち日本人は、常識という空気によって拘束されている。
私たちは、明文化されて見えるルールと、明文化されていない見えないルールに規制されている。
ルールさえなければいいのに。
ルールは、本当に、悪なのか?
私たちは、習慣の生き物である。
毎日の9割を習慣で過ごしている。
昨日のこと、昨日の夕食が思い出せないなら、それは、習慣の影響による。
習慣は、無意識なので、記憶に残らない。
トイレに行ったり、歯を磨いたり、シャワーを浴びたりすることを、ひとつひとつ記憶していない。同じような毎日は記憶に残らない。毎日の習慣は、思い出せない。
嫌なこと、辛いことでも、習慣化すれば、できるようになる。
戦闘機に乗る兵士よりもストレスがかかる満員電車も、毎日の習慣にしてしまえば、簡単だ。
逆に、楽しいことや嬉しいことも習慣化されてしまえば、つまらなくなってしまう。
毎日の面倒なこと、歯磨きやシャワーは、ルーチン化することで、無意識に行うことができる。
歯磨きは右上の奥歯から磨いて、上の歯を磨いてから下の歯を磨くというように、無意識の中で、ルール化されているはずだ。ルール化することで、そのことに、いちいち意識を払うことはない。
意識をするということは、思考して判断するということだ。
思考して判断することは、脳のエネルギーを消費する。だから、本能的に避けようとする。脳はできるだけ省エネで過ごしたい、だから、無意識に頼りたい。脳は、ルール化されたことが、好きなのだ。
私は「 ルールが不自由の象徴だ 」と思っていたけど、自分の生活を振り返ってみると、私は、ルールの中で生きていることに気づいた。
こだわり = マイルールだし、個性 = マイルールである。
私は、私のルールがたくさんあって、それを家族に強要するのだ。
だから、私の家族は、私のルールに縛られている。
「 ルールは不自由だ 」と言いながら、自分ルールで他者を不自由にしている矛盾に気付く。
私は、私の決めた自分ルールで過ごしていれば快適だ。私の感覚に近いか、私の感覚を許容できるから、私の家族ができる。私の家族足りうることは簡単ではない。目の前の当たり前のことが、全然当たり前のことではないことに気付く。
じゃあ、ルールを緩和すればいい、ルールを緩和することで、家族が過ごしやすくなるかもしれない。
でも、マイルールは、私のこだわりであり、私の個性であるから、ルールを緩和させることは、自我へ影響を与える。その思考自体が、その考え方そのものが、マイルールである。「 自分を変えたくない、変わりたくない、マイルールを変えたくない 」ということ自体が、私のこだわりなのだ。私は、「 私をかえたくない 」というマイルールがある。
だから、私も、他者も、めんどくさい。
- 「 私の生き方は、客観的にめんどうだな 」と思う。
- 「 もっと、緩やかに、妥協しながら生きれたら、どんなに楽だろうな 」と思う。
自分でも、めんどうなのだから、他者はもっとめんどうなんだろう。家族だけではなく、友人や、その他、私に関わる人々は。しかし、そんなめんどうな生き物は、希少種であるから「 おもしろいには、おもしろいのだ 」と思う。他者も、私がおもしろいから、私と付き合っているのだろうし、私も自分がおもしろいから、私をやっている。
私は、客観的に見たら、めんどうかもしれないけど、自分は主観だから、めんどうではない。私は、自分をやっているだけなのだから。私をやることがめんどうならば、やりやすいよう自分を変えればいいだけなのだ。
私は、今の自分をやっていること自体、めんどうくさくはないのだ。私は自分をどのようにも変えられる。私は、自分で、自分の個性を作っている。私は、自分でどんなルールでも作ることでき、自分にどんなルールをも課すこともでき、ルールを変えることもできる。
私は「 ルールが不自由の象徴だ 」と思っていたけど、私は、私のルールを、個性を、自分を、自由に変えることができる。
私は「 自分を好きにに変えられる 」という自由を持っていた。自分の外に求めるからない、自分の中に求めればある。生きるのがめんどくさいと思えば、めんどくさいし、生きるのが楽しいと思えば、生きるのは楽しい。
法律から常識へ
・私の自由とは、人に指図されないことである。
・私は、私が考える通りに、生きたいのだ。
・規律やルールといったものが、嫌いだ。
規律の全否定ではない。
自分に合わない規律があるのだ。
憲法や法律である。
人を殺したいわけじゃないし、人のものを盗みたいわけでもない。そういった意味での法律には異論はない。サンキューである。ただ、気になるとすれば、税金である。しかし、私は、自分の納めた税金の使い道についての意見を持ち合わせるほどの知識を有していない。だから、税金は気になるけど、ノーコメントである。
- そもそも、私たちは、法の下で、法に定められた教育によって成長してきた。
- そして、私は、学校というレールに長く乗っていたので、法に対して疑問を持たないように育まれた。
- だから、法に対しての意見はない、今のところ、法に意見を言うには、前提としての法の知識が必要になる。
私は、そんな難しい法律とかじゃなくて、もっと、手前の段階の現実的な規律、日々の生活する上でのルールである。
そうだ、常識である。
宗教である。
聖書というルールブックである。
そうなのだ、日本の常識には、ルールブックがないのだ。
なんとなく推し量れである。
「 いや、よくわからんがな 」というのが、本音である。
そのよくわからない概念をさも当然のように言われても、困るし、何を言っているのか、私には理解できない。
道徳とは違う。
道徳ならば、それは、世界共通の概念のはず。それは、人間に備わっているものだから、人を殺したらいけないとか、人のモノを盗んじゃいけないとかは、法律以前に道徳で、本能でわかる。
だから、日本の常識は、道徳という概念でも捉えられない。
私は、ルールブックがない、常識という概念に拘束されている。
その理解できない概念が、空気のように私の体にまとわりついている。私が、どこへ行こうと、体を覆い尽くす。そう、常識とは空気なのだ。日本人は空気を読むことに長けている。
日本人は「 空気を読め 」と言う。
空気は見えない、ルールブックが存在したとしても、見えないのだから読むことはできない。私は、空気がわからない。空気の存在は感じることができるけれど、空気は理解できない。体系的に説明してもらわないとわからない。
私は音痴である。なぜ、音痴なのか?音程がわからないからである。音は感覚であるから、論理的に説明できない。私は論理的に説明できない音程を理解できない。私は論理的に説明できない常識が理解できない。
私には理解できない常識という概念があって、日本社会の土台は常識である。
土台のはずの常識は、空気のように、社会を漂い、この社会を覆い尽くしている。
常識が空気のように支配する社会は、私にとって五里霧中である。
私は、自分を拘束する常識という空気から解放されたかったのだ。
私の自由は、自分が理解できない概念である常識との戦いなのかもしれない。
常識はわからないけれど、常識に支配された社会を観察するとこで、社会の仕組みを考えることで、常識がわかるかもしれない。
社会とは?
人と人が集まると、そこに社会が生まれる。
個人という単体では、社会は生まれない。個人の中にあるのは、社会ではない、自分の世界である。自分の世界はいかようにも自分でコントロールできる。社会は自分でコントロールできない。
社会は、人の集まりである。その最少構成人数は二人である。人が二人集まればそこに社会が生まれる。自分だけではコントロールできない世界が生まれる。相手とのやりとりが生まれる。
二人社会
その二人で構成された最少社会を、夫婦という家族を例にとって考えてみる。最近では、夫婦別姓や子どもを持たない夫婦も増えてきている。夫婦は同じ名前で子どもを為すという価値観は旧世代の思考になっている、夫婦の形は多様化している。それぞれの夫婦でそれぞれの考え方がある。
夫婦船
夫婦自体の方向性は多様化しているが、夫婦を構成する二人は、一つの船に乗った仲間である。それぞれが、自分の行きたい方向を主張するだろう。それが同じ方向であれば、問題なく進めるが、違った場合はどうなるだろうか?一人で船に乗っていれば、自分の好きなときに好きなところへ進めることができるが、二人ならば自分だけですべてがコントールできない、それが社会なのである。
ルールである、航海ルールである。
これまで別々の生活をして来た夫婦が、一緒に生活をしていくためには、ルールが必要になる。それは初めからあるものではなく、生まれてくるものである。
夫婦のルールはルールブックになっていない、明確に言語化されていない。お互いの中に暗黙の形で存在している。だから、夫婦喧嘩が起こる、自分のルールと夫婦のルールの違いが明らかになることで起こる衝突が夫婦喧嘩である。俺はこうやって育って来た、私はこうやって生活して来た、その違いが、互いに、譲れないときに夫婦喧嘩が勃発する。
「 トイレの便座の蓋が開いているのが嫌だから閉めて 」と妻が言う。
① 夫が「 わかった 」と言って、妻に共感して、閉める習慣がついたなら、夫婦喧嘩は起こらない。
② 夫が「 わかった 」と言って、『 なんで閉めなきゃいけないんだよ 』と思って、閉めることを度々忘れたら、妻は「 わかったって言ったじゃない 」と怒って、夫婦喧嘩が起こる。
③ 夫が『 めんどくさい 』と思って「 なんで閉めなきゃいけないんだよ 」と言ったら、夫婦喧嘩が起こる。
①の場合は、両者同意の元、自動的にルールが定まる。
②の場合は、どちらかが妥協しない限り、どちらかが諦めない限り、小競り合いは続く。なし崩し的に、はっきりしないルールが定まる。
③の場合は、ルールの議論であるから、議論の結果で、ルールが定まる。
気がつかない、意識していないだけで、こういった小さなルールの積み重ねによって、夫婦独自のルールブックがお互いの心の中にできあがり、夫婦生活は維持されている。
二人でこのルールブックが作れなくなったとき、ルールブックの修正が必要になったとき、ルールブックが無効化したとき、そんなルールブックの改編が原因で、夫婦関係は崩壊する。船は島へと近付き、一人が島に降りる、もしくは二人とも降りて、別々の方向へ歩き始める。
二人で構成された最少社会を夫婦を通して見ることで、社会の原則とはルールであることがわかった。ルールなしに社会たり得ない。そのルールは無自覚・無意識に関わらず、必ず、二人の関係の土台となる。
夫婦仲良くするために

結婚する前に、確認できる前提のルール
一人暮らしの相手の家に行って快適かどうかである。
一人暮らしの相手の家は「 どんな場所に、どんな間取りの、どのくらいの家賃なのか?」という自己紹介のプロフィールである。学歴・年収・職業・勤務先のようなものである。
そして、部屋の中は、相手の価値観の塊である。当然、そこには、相手の家のルールがある。相手の家に上がることで、知らず知らずのうちに、相手のルールを体験することになる。
部屋にあるすべてのものは、相手の価値観によって選択されたものである。何があって、何がなくて、何に興味があって、何に興味がなくて、何を大事にしていて、何を大事にしていないのか?清潔感は見た目だけなのか?かわいいのは顔だけなのか?
一人暮らしの家のスペックはプロフィール、部屋の中は相手の価値観という名のルールである。
「 一人暮らしの相手の家に行ってみて過ごしてみて快適かどうか 」で「 相手の価値観や相手のルールを受け入れることができるのか 」がわかる。逆も然り、相手を自分の家に呼ぶことで、自分の価値観や自分のルールを暗黙に認識させることができる。
私も自分でこうして言語化するまでは気づかなかったが、私たちは、こうして、お互いのルールを確認することで、恋愛関係を深めて、その先、結婚へと進んでいくのかもしれない。
まとめ
結婚する時点で「 ルールが似ていて共通する部分が多いか 」「 夫婦の片方がもう一方のルールに従うことに寛容か 」といった判定が、無意識に下されている。
二人社会のルールは、二人で話し合って決めることができる。明文化しようと思えばできる。また、変えることもできる。
夫婦二人の社会のルールは変更可能だし、ルールをお互いに共有できなければ、下船可能だ。日本社会にはびこる常識という名のルールは変更可能ではない。常識には、夫婦のルールのように、自分の意思は反映されない。常識は、知らず知らずのうちに、空気のように、自然に、変化していく。
三人社会
夫婦二人の関係に注目することから、二人で構成された最少社会の原則とはルールであることが示された。
次に、三人に拡張した場合の社会では、どうなるのかを考えてみたい。
家族という単位での議論は、拡張性を持たないので、家族という概念ではなく、仲の良い友人関係を取り上げる。
夫婦という家族関係において、決定的に欠けているもの、それは、所有権の概念である。夫婦は生活を共にしているので、所有の概念が溶けている。互いの所得は別々にしても、共同生活においての必要なモノ、例えば、洗濯機、冷蔵庫などの家電は、夫婦の共同での所有感がある。例え、どちらかがお金を出して買ったにせよ、夫婦で一緒に生活している限りは、所有権の明確な分断は生まれない。共同財産の感覚である。
私たちは、所有の概念があることで、社会をフラットに見ることができない。これは私のもの、これはあなたのもの、というのが、社会を構成する前提となっているからだ。だから、所有権の概念の影響がない最少社会の構成として、夫婦という二人を題材にしたのである。社会を拡張して三人にした場合に題材を家族にしてしまうと、再び、所有という概念が除外した議論になってしまい、社会を正しく捉えていることにはならない。逆に、社会で最重要となる所有権という概念を除外したからこそ、社会の根底となるモノ、ルールが導き出されたとも言えよう。
三人の仲の良い友人関係には、所有権の問題が関わってくるので、社会の最小構成の次の議論として、適切であろう。自分の周りの近しい関係から、徐々に拡張していくことで、社会の在り方を順に追って捉えていく。仲の良い友人という定義としては、長い付き合いがあり、今後も、多分、死ぬまで一緒に過ごすであろう友人たちである。
旅行の支払い
仲の良い友人と遊びに、一泊二日の旅行に出かけたとしよう。移動するときには、車を使う、昼食をとる、温泉に入り、ホテルへ行き、荷物置いて、飲みに出かける、何軒かはしごする。何でもない旅行である。
旅行の時には、いろいろとお金がかかる。その時の支払い方法を考えてみよう。
(2) 最初に、全員から一定額 ( 例えば1万円 ) を徴収しておき、そこから支払い、最後に残金を精算する
(3) 支払いの都度、誰かが支払っておき、最後に清算する。
(1) 支払いの都度、割り勘で清算する。
これは、一番、公平であるものの、手間がかかる。毎回、きれいに割り切れるわけではないし、毎回、ちょうど現金を持っているわけではない。支払いの度に、全員で財布出して、わちゃわちゃしなけれならない。8000円の支払いならば数百円は誤差のように感じてしまい、1万円札しか持っていない人が「 端数は俺が出しておくよ 」みたいなこともよくある話しで、結局、一番公平なようで、不公平かもしれない。なにしろ、めんどくさいのだ。
これを『 割り勘システム 』と定義する。
(2) 最初に、全員から一定額 ( 例えば1万円 ) を徴収しておき、そこから支払い、最後に残金を精算する。
『 (1)割り勘システム 』の問題点である、「 毎回の支払いが手間である 」ということを解消した。旅行で使うお金に先立って、大体の予算を決めて、予算は決めなくても、わかりやすい金額で、最初に集めることで、支払いの手間をなくし、かつ、完全なる公平を目指す。
これは3人の財布の一部 ( 1万円 ) を、全体の財布 ( 3人で3万円 ) として扱う形だ。
私たちは、自分の財布から出した1万円の所有権は放棄していない、ただ、全体の財布に預けているだけである。全体の財布から、旅行活動に必要な経費が差し引かれていく。
これを『 経費システム 』と定義する。
そして、万が一不足した場合は、再度、全員同額を補充することで、問題なく運用できる優れたシステムである。
最後に、残った金額を割り勘して生産することで『 (1)割り勘システム 』では実現できなかった公平性が保たれた。
(2)『 経費システム 』のオプションで『 経費システム 』の残金を次回までプールしておくというやり方がある。3人で2000円余って割り辛いから「 誰か預かっておいてよ 」というパターンである。
このときも誰も明確に所有権を放棄していないが、その次回の日程が定まっているわけでもない。
宙ぶらりんのお金であるし、そのお金を預かっている人が、緊急事態で使ってしまっても、次回までに補充しておけば、何も問題ない。
さらに言えば、次回の時には、プールしたお金があることすら忘れているかもしれない。
(3) 支払いの都度、誰かが支払っておき、最後に清算する。
『 (2)経費システム 』は完璧に思われる方式であった。しかし、私たちは、怠惰な生き物だ。よりよいシステムを求めてしまうのだ。
全員から一定額を徴収することすらめんどくさい。
ここで『 (2)経費システム』の隠れていた問題が露呈する。「 経費係を誰が担当するのか?」という問題である。ただ、お金を払うだけ、されどお金を払うだけ、もうそれすら、私たちは、めんどうなのだ。
そう、つまり、経費係を決めることすら億劫なのだ。
そのすべてを放棄してしまったら、どうなるのか?
新しいシステムが生まれる。新時代の幕開けである。「 後で払うからとりあえず払っておいて 」「 レジの近くにいる人がとりあえず払う 」誰かがとりあえず払っておいて、最後に清算する。
実はこれが一番便利で楽なのだ。お金を集めることも経費係を決めることもなく、そして最後にまとめて、それぞれの出費額を計上して清算する。『 (1)割り勘システム 』と『 (2)経費システム 』のメリットをどちらも享受している。そんな最強システムに思われるが、そんなことはない、もちろん、重大な欠点を内包している。
これは、仲の良い友人という前提があるから、顕在化しない問題である。私たちは、仲の良い友人の中には、信用がある。信用を前提として、このシステムが成り立っているのだ。「 とりあえず払っといて 」というのは、人間関係が構築されていて「 後で必ず払ってもらえる 」という信用関係があるからこそ、通じるのだ。
これを『 信用システム 』と定義する。
信用システム
あまり親しくない間柄で「 とりあえず払っといて 」と言ったら「 この人は本当に後でお金を払ってくれるのだろうか?」という不安を抱かせることになる。信用関係が成立していない間柄では『 (1)割り勘システム 』を採用するのが、社会的に都合が良い。
『 (2)経費システム 』では、自分の財布の一部 ( 1万円 ) が、全体の財布 ( 3万円 ) として経費として機能していた。
『 信用システム 』では、自分の財布の一部どころか、全員の財布が、見えない大きな一つの財布となって機能している。誰も自分の財布のお金の所有権を放棄していないし、かといって、全体の財布に預けているわけ (『 (2)経費システム 』)でもない。
それぞれの財布の中に、それぞれのお金が所有権をそのままにある。ただ、支払いの度に、誰かの財布から、支払われる。そこで、自分の財布からお金を支払ったとしても、それは、3分割されて、後で戻ってくる。だから、3人の財布を統合した一つの大きな財布から、支払っているような感覚である。そういった、空想上の大きな財布の概念を支えているのは、信用である。三人の信頼関係である。目の前の財布から一時的にお金を支払っても、最終的には「 割り勘されて戻ってくる 」という、信用を前提に成り立っている。
例えば、財布の中にお金が入ってなくても、誰かに払ってもらっていれば、旅行の最中は問題ないことになる。当然、最終的には、必要になるのだけれど。
もっと言えば、どうしてもお金がなくて払えない時は、後日ということも可能だ、信用関係があればこそ可能となる。その時には、誰かの財布は一時的に赤字になり、マイナスになる。しかし、それは「 やがて補充される 」と信用しているから、それは問題とならない。赤字の財布の人は、お金の所有権を手放したわけではないが、「 手元に、お金がない 」というのは事実である。
それは、銀行預金のような感覚に近い。誰も「 銀行預金が下ろせなくなる 」とは考えていない。手元にはないけど、銀行にある。自分の手元にはないけど、友人の手元にもない。友人との信用関係によって、未来の友人の手元にあるお金は「 今は見えないけれど、自分に所有権がある 」と考えることができる。そうやって、信用という概念が拡張されて、見えない未来のお金を、現実化して支払うことができる。
『 信用システム 』を拡張すると、信用がある人たちの関係の中では、一つの大きな財布という空想の概念で、お金をやり取りすることができる。そこでは、自分の所有権、自分の財布の概念が、信用関係のある人々の共通の一つの大きな財布に溶けてしまっている。
この大きな空想の財布を共有できると互いに信用している人々のが集まった社会を『 拡張性社会 』と定義しよう。
拡張性社会
『 拡張性社会 』では、明確な所有権を主張しないことで、信用された人間関係の中で、お金が巡っている、そこでは、時間の概念すら存在しない ( 前述の未来の友人の手元にあるお金 ) 。そこでは、信用関係がすべてを支配しているので、そもそも、お金を使い込むような人がその社会の構成員となることはない。
万が一そういった人が入り込み、使い込むようなことがあれば、ただ、その信用社会から排他される。その排他された人物は、信用を失ったわけなので、他の社会、信用社会ではなくとも、現実の資本主義社会にすら、溶け込むことはできなくなるだろう。一度失った信用を取り戻すことは容易ではなく、場合によっては、非社会人としての生活を余儀なくされるかもしれない。
実社会への投影
『 (1)割り勘システム 』私たちが生活している資本主義社会である。自分が食べた料理の代金は、その都度、自分で払う。
『 (2)経費システム 』とは、最初に、全員から一定額 ( 例えば1万円 ) を徴収されるので、それを税金と見なせば、国家となる。血縁関係がない三人からなる社会を拡張すると、社会国家のシステムが投影できる。不足した場合の追加補充が増税である。
『 (3)信用システム 』からなる拡張性社会は、その社会の中で一つの大きな財布を持つという思想である。
もちろん、自分の全財産を大きな財布の中に入れるわけではない。自分が、当分の間、使わないお金である。所有権の放棄ではなく、所有権の共有化である。
財産というお金の共有でもないところに注意したい。所有権である。実物のお金の云々ではなく、そこにあるのは、あくまで、権利である。権利を母体とした思想である。
まとめ
三人の社会を考察していくことによって、現代の社会の在り方が理解できた。資本主義社会や国家の税金システムは、三人社会でも、その必要性が証明された。また、実体験を元に、さらに思考を発展さることで『 信用システム 』『 拡張性社会 』といった新しいシステムや社会の可能性を示唆できた。私の思考した社会が、未来に実現されないという保証はない。
やはり、私は国家と契約してはいないないが、税金は必要であることは、理解できた。税金を支払うことで、国家との契約を、暗に、承認していると言えなくもない。
社会の仕組みについての片鱗は見えたが、常識についての理解には及ばなかった。社会の仕組みを明らかにしていく工程からは、常識という概念に辿り着かなかった。常識に対しては別の視点からアプローチが必要だ。
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