どこにもいない「誰か」という他人

武器になる哲学からの思考

2021/8/14

【本要約】武器になる哲学4 〜 他人
私という個人は、分かった後と前では、違う人間になる。なぜなら、昨日の自分では、わからなかったことが、今日の自分は、わかったからだ。「わかる」ということは、「かわる」ということである。
フェルディナンド・テンニース
ゲマインシャフト … 血縁・地縁・友情で結び付いた自然発生的な共同体
ゲゼルシャフト … 利益・機能・役割で結び付いた人為的な社会
  • 社会は、意図せず集まってできた集団
  • 会社は、意図的に集まってできた集団

会社も法人である、人である。

国・社会・会社、家族・友人、すべて人の集まりである、人である。

私たちは、その人の中で、生活を営む。

人は社会性の生き物である。1人では生きられない。

1人で生きているようで、どこかしらで、この国や、この社会や、自分の周りの人たちの影響を受けながら、生きている。

人がいる中で生きていると、私たちは、自分と他人と比較をしてしまう。そして、優劣を付けたいと思う。「他人より自分が価値のある人だと思われたい」と願う。または、人の役に立ちたいと思う。「人の役に立ち、感謝されたい」と願う。感謝されることで自分の価値を見つける。

結局、私たちは、他人との関係性の中でしか、自己の価値を見つけることはできない。絶対的な自己など存在し得なく、相対的な自己として存在する。

だからこそ、自己の信念が必要だ。自己の信念がなければ、他人に振り回されるだけの人生になってしまう。

私たちは、誰かに勝ちたいとか、誰かの役に立ちたいとか、どこにもいない誰かという他人のことを考えてしまう。

自分がいて、はじめて他人がいるのだ。他人がいて、自分がいるのではない。見えない誰かという存在に怯えることなく、貫く信念こそ、自己である。

そうやって、自己肯定する中でも、結局、そこには、誰かの存在を必要とするというのが、人は社会性の生き物たる由縁なんだろう。社会と切り離して、自己の存在を捉えることは、簡単ではない。だからこそ、そこに価値がある。思考によって、自分が作られる。

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