思考の構造

社会

「 甘えの構造 」からの思考

2022/5/28

表出する言葉

湧いて出てくる、本に書いてあることが、自分の意思かのように。

本を読む。
本要約として、推敲してブログにアップする。
自分の頭の中で考えたこと = 自分の思考として、ブログにアップする。

私のインプットは、主に本であり、そこから、本要約と、自分の思考といった2種類のスタイルで、ブログを書いている。

本をまとめたやつと自分の考えなので、両者が別々のモノだ。

本要約

【本要約】哲学と宗教全史
哲学も宗教も、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発した。生きていくための知恵とは、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえる。

サルトルのアンガージュマンに対して、レヴィ=ストロースは「 人間は社会に行動を規制されている 」と論証した。ソシュールは「 言葉が世界を分ける 」と説いたが、レヴィ=ストロースは、さらに一歩が進んで「 社会の構造が人間の意識を形作る 」と唱えた。

戦後の日本という社会が、現在の日本人をつくり、江戸時代という社会が江戸時代の日本人をつくったのだから、同じ日本人でも、全く異質である。それぞれの時代の構造が、それぞれの時代の日本人をつくったのであって「 どの時代にも通底する日本人の本質的は一切ない 」と言い切った。

自由な人間も、人間の主体的な行動も存在しない。
人間は社会の構造の中で、そこに染まって生きると、主張した。

自分の思考

「 甘え 」から見る日本社会
西洋では、夫婦・親子は身内でありながらも個々が独立しているので、甘えのある態度を取らない。「 言わなくてもわかるだろう 」という甘えはない。「 おはよう 」「 ありがとう 」「 愛している 」といった表現は、身内にも常識である。

日本社会の持つ性格が、日本人が持つ感覚を形作るのだ。感覚は人類共通の概念ではない。世界中の人が同じ感覚を持っていない。文化によって、人が持つ感覚が異なるのだ。

「 甘え 」という言葉は、西洋には存在しない。人にそのような感覚がなければ、言葉も存在しない。私たちの思考は、日本語という枠に縛られているのではない、日本人感覚という枠に縛られている。

思考の構造

本要約を推敲しているときに、気付く。
アレっ、最近、自分で考えて書いたと思っていたことと、似たような内容の箇所がある。

私は、自分で考えて書いているように思っていたけど、実は、本の内容をなぞっていただけだった。本の内容が、刺さって頭に刻みこまれたに過ぎなかった。

私たちは、日々、いろんなものに影響を受けて過ごしている。それぞれの影響は、ほんの少しなのかもしれないが、確実に、私たちの精神に何かしらの傷跡を残していく。そのことに気付かないだけだ。必ず、私たちの思考に変化を与えている。

私が、本の内容をなぞっていたように、人は、自分で考えているように思ってみても、実は、それは、自分が受けた影響の組み合わせに過ぎない。私たちが「 自分が考えている 」と思っていることは、幻想に過ぎない。

私たちは、生まれたときは、言葉を話せない。人が話す言葉を聞いて、言葉を覚えていく。人が話す言葉の中には、事実だけでなく、価値観や感情が含まれる。

事実だけをやり取りする会話は素っ気なく、つまらない。例えば、初対面の人との何気ない、当たり障りのない会話なんかがそうだろう。ニュースも事実だけではなく、価値観を含んでいる。投資家やお金持ちが、新聞を何紙も読むのは、それぞれの新聞に、それぞれの価値観があるからだ。

私たちは、普段会話する時には、特に、仕事以外の何気ない会話には、事実の中に、様々な感情を含めて話している。だから、伝わるのだ。

感情のない会話は、無味乾燥であり、熱がない。事実に熱はない、感情にしか熱はない。

私たちは、熱をやり取りして、会話しているのだ。初対面の人との会話には、熱がないから、感情がないから、つまらないのだ。

私たちは、社会の価値観や、家族の価値観や感情を通して、言葉を覚えていく。

現代の子どもは「 マスク 」という言葉を、人類史上、最速で覚えるはずだ。

裕福な家庭と、貧困な家庭では、日常で使っている言葉が、そもそも違うのだ。裕福で、ゆったりとした生活を送る人の言葉と、貧困で毎日あくせくと働き、イライラしている人の言葉は、違うのだ。

感情は伝染する、感情が乗った言葉が伝染する。感情が乗った言葉を覚えるのだ。

私たちは、同じ日本語を話している。だから「 会話が成立している 」と思っている。事実に関しては、そうかもしれない。小さな頃から培われてきた価値観と、それに伴う感情は、個々人で異なる。だから、一見会話が成立しているように見えても、その会話で、共有されたのは事実のみで、価値観や感情に至っては共感されていないのだ。会話も幻想に過ぎない。

親兄弟、地元の友人、付き合いの長い人、一緒に過ごした時間が長い人、夫婦では価値観が似通っているから、共感できるような気がする。それは、一部では確かにそうかもしれない。しかし、完全に分かりあって共感して一体感を得ることなどは、別人である限り違う人生なのだから、無理なのだ。本質的に、個人の価値観が統一されることはない。会話は、やはり幻想である。

自分の思考も幻想に過ぎないし、他者との会話も幻想に過ぎない。

幻想の中に住む私たちに自由意志はない。

私たちは、自分が取り入れるインプットによって、コントロールされている。私たちが、見たり、聞いたり、読んだりする情報によって、私たちの精神はつくられるのだから、私たちは、情報に支配されているのだ。

ただ、私たちは、自分が取り入れる情報は、自分で選別することができる。いきなりは、変わらない。そもそも、自由意志はないのだから。

少し、ちょっとだけ、変えてみる。いつもと違ったことをしてみる、試してみる。いつも通りなら、自由意志はない、機械仕掛けの日常なのだ。いつもと違うことをすると、新たな発見がある。そこは、新しい世界なので、日常ではない世界である、そこには、自由意志がある。1→10は、もう方向付けられているから、自由意志はない。0 →1 は、新しく生み出すから、まだ、誰にも方向付けられていない、自由意志はある。

私たちが、この幻想の世界から抜け出し、自由意志を獲得する術は、新しい体験の中にある。

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