【本要約】悪魔とのおしゃべり
2021/8/6
正しさとは?
・善だから良いとは限らない。
・悪だから悪いとは限らない。
悪さえ良い方向へ利用すればいい。そうすると、悪いが良いになる。
世の中は「正しい教え」で溢れているのに、人々は不満だらけである。「正しさ」で、世界は救えない。むしろ、正しさこそ、世界をダメにしている。先に「正しい教え」がある。そして、抱え込んだその正しさのせいで、人間は苦しんでいる。
人間を苦しめているのは「正しい教え」を広めている者たちである。親・教師・権力者である。
自分の正しさを疑うことだ。
・猫は、魚屋の魚を取っても苦しまない。
「正しさ」について疑っている期間「苦しみ」は消える。苦しんでいる人は、例外なく「正しさ」を前提に抱えている。そして、疑っている期間、その「正しさ」は揺らぐ。「苦しみ」は「正しさ」の副作用でしかない。
疑う。
これまでの「教え」すべてを。
・学校教育
・社会のルール
ルールは、権力者の統治のためにある。
社会の「正しさ」を疑うだけでは、まだ足りない。
外側だけでなく、内側も疑う。自己の内面を疑う。自分の「正しさ」を疑う。
自分が抱え込んだ「正しさ」が、自分の未来の可能性を奪っている。自分の世界を小さくしている。
- 自分が抱え込んだ「正しさ」の数だけ「できないこと」が増える。
- 「正しさ」が減れば減るほど「できること」が増える。
現実を変えたいなら、全く理解できないアドバイスが必要である。理解できない話しにこそ、耳を傾け、考える。
人は理解できることを「正しい」と言い、理解できないことを「悪い」と言う。
「正しさ」を疑う = 「常識」を疑うということに、自分の進化がある。
すべての正しさを疑い、超えていく人たちの称号が「悪」である。
悪の正しさ=アンガーマネージメント
すべての「怒り」は「相手に期待しているから発生する」という仕組みだ。
相手に期待したのは、自分自身だ。自分が勝手に期待しただけだ。すべての怒りは、相手のせいじゃなく「相手に期待した自分のせいだ」ということになる。
「誰にも」「何にも」期待していない人は、怒ることが絶対にできない。
正義のヒーローは、常に、相手に期待している。「君ならもっと正しくなれる」と他人に期待する。相手に、他人の誰かに、世界に、期待している。そして、期待している方向へ「相手を変えよう」としてしまう。どうしようもない世界をどうにかしようとする。
世界を自分の期待通りにしようと不可能な夢を見るより、世界への期待を、ただ捨て去る。
- 相手に期待しない。
- 社会に期待しない。
- 世界に期待しない。
- 未来の自分に期待しない。
自分も相手だ。自分にも期待しない。
①過去の自分へ期待
後悔や失望
②未来の自分への期待
理想とギャップ
③今の自分への期待
焦り
人間ほど「今」に落ち着いていない生物はいない。
なぜ期待してしまうのか?
「正しさ」のせいだ。
これまでの環境で育まれた「正しい」のせいだ。自分に、他人に、世界に「期待していい」という価値観を植え付けられた。
それは「間違い」だった。
自分にも、他人にも、世界にも、期待してはいけない。世界はどうしようもない奴らの集まりだ。
どうしようもない人間どもが、
どうしようもない社会を作り、
どうしようもない自分と、
どうしようもない生活を営んでいるのだ。
すべての期待を、忘れて生きる。
過去を忘れることに成功しているから笑えて、未来が何もわからないから楽しめる。
自己の正しさ
「何かを失くしたら不幸になる」って、騙されている。
家が失くなったら
友達が失くなったら
身体が失くなったら
何も持ってなくても、何者でなくても、幸せだった自分を忘れ、「何か」がないと、「何者か」じゃないと、「私は幸せでいられない」と勘違いしている。
「失いたくない」と思っても、得たモノならすべて、いつかは失う。
すべての人が、自分が「何者か」になったつもりで生きている。
そして、「何者か」であることを失ったら、「自分が不幸になる」と思い込んでいる。しかし、本当は違う。何もかも、すべてを失っても、原理的に不幸になれる人なんていない。みんな「何者か」になる前は「何者でもない者」だったから。
「失う前は、ただ得ていなかっただけ」だという事実を教えず「何か」がないと「幸せになれない」と教える人たち、親・教師・権力者たちによる洗脳だ。
「何者かであり続ける」ことに、固執するようになる。変化を恐れるようになる。
自分が今の「私」であることにこだわらない。そのとき、何者にでもなれる。
所有の正しさ
他人との関係性の所有もマボロシ
流れる時間への所有もマボロシ
そもそも、自分が所有できることなんて、外界には一つもない。
自分が自分を所有することも不可能だ。
インディアン・先住民・原住民には、所有という概念がない。単語もない。手に入れるということが、どいういう意味なのか、全く理解できない。
大自然の一部であるこの自分が、全体である大自然を手に入れる?一部が全体を手に入れる??
死を恐れるのは、この肉体を「自分が所有している」と思っているからだ。
「支配した」と思った瞬間に、その本人の心が世界に支配される。
- 持っているモノが多いほど、不安になる。
- 多くを持っている者は、幻想を多く抱える者である。
- 「もっと得たい」と思った瞬間から、人は壊れはじめる。
「もっと得たい」「支配したい」「欲張りたい」といった幻想の所有ゲームをやめる。
外界をコントロールしたがる欲求をすべて手放す。
- 外界のモノは「私」にはコントロールすることはできない。
- 「私」さえも「私」にはコントロールすることはできない。
ただ、気付くだけだ。手に入れずとも、既にあるモノへ取る態度である。
- 「ない」と思っているから「手に入れよう」とする。
- 「ある」と気付いている人は「手に入れよう」としない。
「幸せになろう」としている人ほど「幸せ」じゃない。
- コントロールしようとせず、「もう、コントロールできている」と、気付く態度である。
- 得ようとせず、「もう、十分に得ている」と、気付く態度である。
自分自身の中にある「もっと得たい」という支配欲からの解放である。
相対性の正しさ
目に見えている間は、絶対に「裏」と「表」がある。「片側」だけで存在することなどできない。
正義のヒーローは「悪」がいないと「悪」を倒して、ヒーローになれない。
「悪いこと」が「良いこと」を生み出している。
・苦しみが開放感を
・焦りが落ち着きを
・ネガティブがポジティブを
前にばかり進むブランコはない。
「後ろへ戻る」からこそ「前へ進める」
不幸以外が、幸せにすることなんてない。
高く跳ぶためには、一度かがまないといけない。
- 相対性とは2つという意味だ。
- 絶対性とは1つだけという意味だ。
1つしかなければ、比較できない。相対する何かがあって、はじめてそれ自身について語ることができる。
エネルギーもプラスとマイナスでセットである。プラスだけを貯めることはできない。
「得た」モノなら、絶対いつか「失う」
・付き合いはじめたのではなく、別れはじめた。
・生まれたということは、死にはじめた。
・失敗したんじゃない、成功しはじめた。
得ているようで、逆側の何かを、常に失い続けている。だから、トータルすると、何も変わらない。
楽しい日が3日続いているのは、つまらない日を3日失っている。つまらない日があるから、楽しい日をエンジョイできる。楽しい日ばかりだとその喜びは、逓減していく。
脳の正しさ
「せかい」とは、認識できるモノ、存在の確認が取れるモノである。「ある」と確認できるモノの集合体のことを「世界」という。目では見えないモノなら、そこに世界はない。他にも、触ること・味わうこと・匂うこと・聴くことといった五感によって、「せかい」を「わたし」が認識できる。五感の次の感覚、想像することによっても「せかい」を認識できる。
- 人間は、五感で外界に「せかい」を確認している。
- 肉体の五感を認識するセンサーによって「わたし」の外側に「せかい」があるとおもっている。
- 人間は、五感のセンサーが脳に電気信号を送ることで、脳が「せかい」を認識している。
- 目から脳に流れる電気信号と、全く同じ電気信号を脳に流すと、脳は、そこに世界を見る。
電気信号によって、脳が「せかい」を認識しているだけなのだ。
「わたし」の頭の中にしか「せかい」は存在しない。
「わたし」と「せかい」は常に同時に発生している。
感じる者である「わたし」がいないと、世界は感じられない。
- 「わたし」が寝ている間は「わたし」は世界を見ていない。
- 「わたし」が寝ている間は、世界が「ある」ってことを確認できない。
- 「わたし」が寝ている間も、世界が「あったはずだ」と想像できる「わたし」が発生している。
- 想像される「せかい」と同時に、想像する「わたし」が発生している。
「せかい」と「わたし」は、常に同時に発生している。
「わたし」と「せかい」は、常に鏡の関係性になる。
「見る」⇄「見られる」
「聞く」⇄「聞かれる」
「触る」⇄「触られる」
「嗅ぐ」⇄「嗅がれる」
「味わう」⇄「味わわれる」
片方だけでは発生できないシステムになっている。
- 思考や想像も真逆になる。
「悩むわたし」が発生したら「悩ませるタネ」が発生する。 - 夢や願望も真逆になる。
「お金を欲しがる」私の前の世界には「欲しがられるお金」が存在する。
私たちの現実には、常に「わたし」の前に真逆の「せかい」が発生し続けている。
そして、発生したすべての瞬間で「感じる者」と「感じさせる世界」はピッタリ同量になっている。
①「せかい」と「わたし」は同時に発生
②同じ大きさ
③関係性だけが真逆
物理の世界では、観測者効果という。観測者が観測する前、そこに世界はない。観測者が観測することで、世界を発生させた。
夢の正しさ
「お金が欲しい」と願うのは間違いである。願うことがおかしい。願っているから叶わない。願っていることは信じていないのだ。願いを叶えるためには、その願いが叶っていない状態が必要になる。
この世は勘違い合戦なのだ。
- 信じている者は願ってない。
- 願っている者は信じていない。
この世は勘違い合戦だ。「そう」勘違いした者の前に「そう」勘違いされた世界が現れる。
- 「私は幸せだ」と勘違いした者が、幸せな世界を見ている。
- 「私は金持ちだ」と勘違いした者が、金がある世界を見ている。
「幸せになりたい」と願うと「幸せじゃない」世界を見ることになる。「幸せになりたい」人は「幸せじゃない」と思い込んでいる人である。「幸せになりたい」と願えば願うほど「幸せじゃない」という勘違いが進む。
病気も同じだ。「病気だ」と思わないで、「健康だ」と思うだけだ。病気は「病気だ」という認識をやめて「健康だ」と思うことだ。
不足を追いかけるのではなく、充足を感じる。
- 「ない」から「ある」へ
- 「不足」から「充足」へ
善の勢力は「もっとよくなれる」と言う。それは「今はよくない」と言っている。「現状」を否定している。
金持ちになる心理学
幸せになるメソッド
全てベクトルが逆である。それが「不足」を現実化する。幸せを探している人が「1番幸せじゃない」のだから。
私には、もうこれ以上は何もいらないほど既に持っている。
誰にでも今すぐできる勘違いメソッドだ。お金もかからず、行動も伴わず、ただ勘違いするだけである。もう叶っていると、ベクトルを「充足」方向へ向ける。
- 「もっと、欲しい」
→「もう、いっぱい持っている、ありがとう」 - 「まだ、できていない」
→「もう、できている、ありがとう」
勘違いによって、すべてが一瞬で変わる。世界のすべてが「既に思い通りだった」と気付くだけだ。
どこかのタイミングで「夢が叶っている」って勘違いする。
夢の定義が「いつか叶うモノ」だったら、永遠にその夢に追い付かない。どこかで「今、自分の目の前で夢が叶っている」と気付かないといけない。
勘違いを使って夢を叶える方法である。
正しさはない
何も悪くない
「生きる」ということは、誰かへ迷惑をかけることだ。
どんなに善い行いも、同じ量の悪さを含んでいる。どんな行動も「善い」と「悪い」が全く同量ずつ含まれている。
この世界に現れた時点で既に結果だ。そんな世界のどこを探しても、最初のきっかけである原因は見つからない。
- そもそも人間には小さな欲求があるだけだ。
自己という生命体を維持するために必要な、わずかな欲求である。 - 善の勢力が配った「正しさ」がこれらの欲求を抑え付けた。
- 欲求を抑え付けられると、エネルギーに歪みが生じて「ストレス」が発生する。
- 小さな欲求を「正しさ」で抑え続けた結果、歪みが生じて「犯罪」が生まれる。
善の勢力が、はびこる社会が悪いのか?
悪いなどない。
常に特定の何かのせいにしたがる姿勢こそが、このおかしな社会を生んでいる。「判定基準」を自分の外側の世界に常に求めている状態である。
「私は、その正しさに従うから」
自分の外側の世界は幻想なのに、そこに、白か黒かの正解を探し続けている。
学校制度
納税制度
結婚制度
社会が押し付けてくる正しさを疑わなかったから、社会がおかしくなった。
「ルールを破ろう」とする者が、よりルールを強化させる。「ルールが間違っている」とは、「こっちのルールの方が正しい」と言っているのと同じだ。
どちらも「正しさ」の剣を振り回しているだけだ。
すべての「正しさ」を捨てる。
外側の誰かが「悪い」と思うから、自身の「正しさ」を振り回したくなる。
= 答えを教えてくれという姿勢
= 支配されたいという姿勢
善の勢力は、実はどこにもいない。
正しい教えを広める者も、本当はどこにもいない。
いるのは「正しい」教えを常に求めている「わたし」だけだ。
「どうすればいいの?」という態度が、外に自己のコントロール権を渡し続け、苦しむ要因である。
正解を自分で決めるのが怖いだけだ、誰かの正しさに従えば楽だ。
- 既に保持した「正しさ」を捨てる。
- もう、これ以上、外側に新たな「正しさ」を求めない。
自分がやりたかったけど、我慢していることを平然とやっている人が、うらやましいのだ。だから、悪人として、祭り上げ、批判する。「批判したくなること」は、「自分が本当はしたかったこと」だという視点を取り戻す。
正しさの向こう側
夢は叶えるものじゃなくて、今、叶っているもの。私たちは、夢の中で、夢を叶えようとしている。もう、夢が叶っているから、目の前に、この夢の「せかい」がある。
すべてが、2つに分離すると、私サイドか、世界サイドのどちらかに分かれる。
この世で見ることができるのは、すべて「せかい」サイドである。「わたし」からすると向こう側である。共にないモノだから、ないモノである。「わたし」には、ないモノしか見えない。
- 見えるモノは、すべて「せかい」サイドにある。
- 欲しがるモノは、すべて「せかい」サイドにある。
- 触れるモノは、すべて「せかい」サイドにある。
だから、見えるし、欲しがれるし、触れる。
そして、見えないモノの方こそ、常に一緒にあるモノだ。「欲しがってないモノ」は、常に一緒にあるモノだ。だから、欲しがってない。持ってないモノをすべて持っている。敢えて、居ない人と常に共に居る。だから、不足を探さず、充足を信じる。
「わたし」サイドにあるモノは、見えないし、触れないモノであるから「ただ在る」と信じるしかない。
信じてない者が願い、信じている者は、ただ、感謝している。
- 「持ちたい」を手放せば「より持っている」感覚になる。
- 「コントロールしたい」という不足を手放せば「よりコントロールされている」ことに気付く。
- 「叶えたい」という願いを捨てれば「もう叶っている」ことがわかる。
- 「どうにかしたい」という思いを手放せば「どうにかなっている」世界が見えはじめる。
すべてわかったら、そこで終わってしまう。
自分の中に「これが答えだ」「これが正しい」と思ったら、成長がなくなる。
「正しさ」が人間の可能性を潰す。「正しい」とは、「それ以外のことをすべて信じない」ということだ。
「正しい」ことがこの「せかい」のどこかにあると思う気持ちが、それ以外のすべての可能性を壊す。
私たちの願いは、すべてが不満だった。現状がありがたくないから「どうにかしてくれ」と願っていたのだ。願いはすべて不足だった。そして、願い通りに不足が叶い続けた。その不足感を充足感へシフトするために、願いの最初に「ありがとう」入れる習慣を付ける。
人は楽しいことばかりが起こればいいと願う。しかし、悲しみの楽しみ方は悲しむことである。せっかくの悲しみを、無理矢理、笑ったり、ポジティブに考えたりする必要はない。
怒りの楽しみは怒ること
喜びの楽しみ方は喜ぶこと
不安の楽しみ方は不安がること
焦りの楽しみ方は焦ること
悩みの楽しみ方は悩むこと

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