「ありがとう」の作り方

仕事

「ありがとう」の作り方

2021/12/16

役に立つ

働いてないから、役に立つことがわからない。何かをして、それが人の役に立って、その「ありがとう」の対価が、お金である。だから、お金を稼ぐためには、人の役に立つことをしなければならない。「私が人の役に立つことで得意なことは何なのか?」を考える。

私は、仕事をしてお金を得るサラリーマンだった。与えられた業務を与えられた範囲でこなすサラリーマンだった。だから「人の役に立つ」とかは考えたことはなく。与えられた業務をこなすことの対価でしかお金を得たことしかない。「人の役に立つことの対価がお金」という価値観は、新しい発見に近い。

そして、それは、自分の得意なことでなければならない。不得意・苦手なことで、勝負できるほど、社会は甘くない。「好きかどうかよりも、できれば好きである方がいい」くらいのスタンスである。

ルール

私たちは、与えられたルールの中で、与えられた役割をこなすように、育まれてきた。学校で、何かの役割である係を決めて、その係の活動を通して、成長してきた。飼育係・黒板係・給食係・保健係。その他にも、日直・学級委員・生徒会長といった様々なヒエラルキー社会を通して、大人になっていった。

だから、大人になった私たちは、学校から、会社へとルールを変え、その社会の中で、何らかの役割を与えられて、仕事を通して、お金を稼ぐ。学校から会社まで、ひとつなぎのレールになっていて、ルールと役割といったフレームが同じなので、馴染みやすい、違和感を覚えない。毎月、決まった額の給与が得られるので、安心できる。大きな会社だと、潰れる心配がないので、安全である。

私たちは、権威に従属して、安心した生活してを得て、日々を安全に過ごす。
  • 「何かがおかしい」と思っても、会社というルールに従う。
  • 権威は巨大で強いから「抗う」ということをしない。
  • そもそも、権威に従属するような教育しか受けていない。

だから、仕事の本来の意味である「人の役に立つ」ということが、置き去りにされている。「ルールの中で決められた役割をこなして給与を得ること」にしか目がいかなくなっている。本当は、誰かの「ありがとう」のための仕事なのに、「ありがとう」までの距離が遠すぎて、わからなくなっている。

ありがとう

自分が得意なことで、人から「ありがとう」と言われることをしたら、お金を稼ぐことができる。

誰かが作ったルールの中ではなく、誰かに与えられた役割でもなく、自分の作ったルールの中で、自分が決めた役割を全うする。それで「ありがとう」と言われることだ。

お金は結果であって、その前に「ありがとう」がある。

たくさんの「ありがとう」を重ねていった人が、たくさんのお金を積むことができる。

「ありがとう」は難しい。

「ありがとう」の前には「あなたのおかげで助かった、あなたに助けられた」っていう前提が必要になる。

「ありがとう」の探し方

誰かが困っていることに対して、自分が何かしらをすることで、その問題を解決したり、解決の手助けをしたり、解決方法を伝えたり、問題について一緒に考えたり、問題の矛盾点を指摘したり、そもそも問題定義の間違いを伝えたりが必要になる。そして、目に見える多くの問題には解決方法が明示されている。

現代はモノがない時代ではない、モノ余りの時代である。欲しいモノは、お金を出せば手に入る。モノに困っていない。私たちは、困っていない。モノで解決する問題は、困ってないので「ありがとう」になりづらい。

「ありがとう」のためには、「問題を解く」という姿勢では、通用しない。では何か?

問題を見つけることに「ありがとう」がある。

私たちは「自分が何に困っているのか」わからないのだ。身の回りをモノで溢れ、情報が氾濫する時代においては、すべてが過多となり、それを処理するだけで精一杯だ。だから「自分が何に困っているのか」に気付けない。私たちは、困っていないわけじゃない、「ありがとう」の行く先が見つからないだけだ。

「ありがとう」のためには「あなたはこれに困っていますよね?」という問題提起が必要になる。

問題の答えが出尽くした現代では、自分で気付いていない問題を伝えることに、価値がある。

潜在的困り事

そう、私は、厚手のコートが欲しかったんじゃない、電子ホッカイロが欲しかったの。厚手のコートは持っている。使い捨てのホッカイロも持っている。だけど、日常の中で、ホッカイロを1日中必要とする機会はない。仕事の行き帰りの外を歩くときにだけ、寒さを凌ぎたいのだ。電子ホッカイロがあることは知っているけど、目の前に「あなた、コレ欲しいんじゃないの?」って出されて初めて気付くのだ。寒さに耐えているけど、困っているけど、それを緩和する「何か」も知っているけど、目の前に出されないと気付かないのだ。

困っていることが、日常になると、私たちは、困っていることに慣れてしまい、困っていることに気付けない。

外に出て、飲食店で食事をすることに慣れてしまうと、家を出ることが面倒くさいことに気付けない。家まで食事を配達してくれるサービスが広がって初めて、家を出ることが面倒くさいことに気付く。現代は、便利な時代だ、だから、困ってることに気付きにくい。でも、私たちは、困っていないわけじゃない。困っていることを教えもらえれば、「ありがとう」と言って、財布を開くのだ。

潜在的な困り事を発見することが、現代における、錬金術である。

潜在的な困り事を発見するのは、容易ではない。多角的な視点が必要になる。私たちの目は2つしかない。そして、前しか見えない。多角的な視点は、1人では為し得ない。仲間が必要だ。仲間を集めることで、初めて多角的な視点を為し得る。仲間を集めることで、いろんな角度から、モノゴトを観察できるのだ。

仲間を集めるためには何か必要なのか?

旗だ。

仲間を集めるためには、旗が必要だ。旗がないと、人は集まらない。「どこに集まったらいいか?」というのが旗だ。「自分が何をやりたいのか」を掲げるのかが旗だ。この世界に自分の旗を立てることで、初めて、仲間が集まる。

一歩

準備運動は、万端かい?
準備運動をしているだけじゃ、ゲームは始まらないぜ。
ここには、審判はいないぜ。
試合のホイッスルは、自分で鳴らすんだ。

1番前にいるから、仲間の姿は見えない。でも、走り出して、一生懸命に走って、ふと後ろを振り返ったときに、きっと、そこには、仲間がいるはずだ。

走り出すときは、みんな、誰だって1人なんだ。自分の旗をユニフォームに背負って左胸に掲げて、ドキドキしながら、でも、ワクワクしながら、よーいドンだ。走り出したら、慣性の法則で、走り続けられる。走ることは現状維持だけど、止まるのは意思が必要だ。走り続ける方が容易い。歩き出すだけでもいい。一歩でいい。たった一歩から、すべては始まる。

私たちは覚えていないけれど、私たちは、昔、歩けなかったんだ。両足で立てなかったんだ。何かにつかまりながら、大いなる一歩を踏み出したから、歩けるようになったんだ。私たちは、歩き出さなきゃ、地べたを這いつくばって生きるしかなかった。

みんな歩いているから「自分も歩ける」と思って、歩き始めたんだ。あの頃の私にできて、今の私にできないはずがない。「歩こう」と考えて歩いたのではない。なんか、みんな歩いているから、歩いたに過ぎない。

思考より運動が先だ。思考より言葉が先だ。
①一歩を踏み出して「私は歩ける」と言ってたら、考える暇なんてない。
②歩くのに一生懸命で、慣れない中で運動しながら、思考できるほど、人間はできていない。
③歩くのに慣れてきてから、考えればいい。
④運動だ、動くことだ。
⑤動きながら考えるどころではない。
動くだけだ。
体を動かすのだ。
考えない、動く。

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