「ありがとう」はない

お金

「ありがとう」はない

2021/12/18

物々交換においては、本来は「ありがとう」は存在しないはずだ。

お店で何かを買っても、それは「価値の等価交換」であって「どちら共に利益がある」から交換しているに過ぎない。だから「ありがとう」という感謝を片方が示すのは、本来おかしい。両方が示すのならば、理解できる。

私が砂漠にいるとき、水を1L1000円で買うだろう、「ありがとう」と水を売ってくれたことに感謝しながら。砂漠では、紙 ( 貨幣 ) よりも、水の方が価値がある。

お金自体には価値がない。お金はただの紙だ。

そして砂漠では、アフリカでは、交換価値が低い日本の1000円札は、さらに価値がない。米1ドル札の方が価値があるかもしれない。状況によっては「交換価値こそがお金の真価」となる。

・お金が偉いわけじゃない。
・お金はあらゆるものと交換できるに過ぎない。
・お金の交換価値が高いだけだ。
交換するもの同士は、等価交換なので、そこに、上下はない。売る方も買う方も同じ立ち位置である。

では、本題に戻って、

「ありがとう」は、何のためにあるのか?

等価交換ならば「ありがとう」は、本来あり得ないはずだ。それは「また、明日、よろしくね」と、明日の「ありがとう」を、今日言っているだけだ。そうすることで、明日、また客が、来てくれるかもしれない。「ありがとう」がつなぐ明日に期待を込めて、ありがとう。

「ありがとう」だから、また明日来てね、ありがとう。

  • 「ありがとう」なんてない。
  • 「ありがとう」なんて言わなくていい。
  • こちらこそ「ありがとう」だから「ありがとう」は省略した方がいい。

過剰なありがとうが、「お客様は神様だ」という発想になっていく。神様ではない、対等なのだ。

もっと言えば、資本主義社会におけるありがとうの在り方は、コンビニでも、弁当屋でも、スーパーでも、どこでも「こちらこそ、ありがとう」という真摯なスタイルでもいい。

私たちは、日本のお店の過剰サービスに甘やかされ過ぎている。「ありがとう」に慣れ過ぎている。そのせいで、値段以上のサービスを求めている。

本来、私たちは、もっと、謙虚な民族であっだはずなのだ。

お礼の価値、
ありがとうの価値、
価値観は人それぞれだけど、ありがとうの価値くらいは、日本人共有のモノになれるはずだ。

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