【本要約】思考のコンパス

【本要約】思考のコンパス

2022/6/2

コンパス

変化の激しい時代に必要なのは、すぐに古くなってしまう地図ではなく、常に進むべき道を指し示してくれるコンパス ( 方位磁石 ) だ。

旅行者が頼る地図ではなく、冒険家が頼る方コンパスである。

どのような方法へ進むのか
① 仮想空間へのシフト
② 反都市化への反転
③ ライフスタイルの多様化・複層化

① 仮想空間へのシフト

リモートワークへの移行である。

マーケティングにおけるライフサイクルカーブのコンセントを当てはめると、一般に「 ここを越えれば、一挙に普及が進むというライン = キャズム 」は普及率16%である。

リモートワークは、このラインを突き抜けた。

私たちの仕事は、情報の受け渡しによって成立しているのだから、本来、物理的空間は必要なく、仮想空間で充分に目的が達成できる。

オフィスという物理的空間に集まり、デスクに着席すると、机上のパソコンから仮想空間に入ってメールやらチャットツールやらでコミュニケーションをとり、パワーポイントやエクセルでアウトプットを作成する。

「 物理的に集まってから仮想空間に入る 」という一種の入れ子構造で仕事をやっていたわけだこら、そもそも物理的空間に集まることの意味合いは希薄になっていた。

もともと私たちが仕事をしていた「 都市のオフィス 」というものが、そもそも仮想空間的だった。

都市というのは、もともと人間の意識が作り出したモノである。 そして都市を構成するビルもその中のオフィスの調度品や器具も、すべて人間の意識が作り出したモノである。

都市というのは、もともと人間が仮想空間で構想したものを物化させた空間に過ぎない。

「 もともと仮想空間で考えたものを物化して、それをまた仮想空間に戻そうとしている 」というのが今回の仮想空間シフトである。

私たちの仕事は、言ってしまえば、情報材を扱う「 情報の製造業 」である。

情報の製造業においては脳が工場になり、情報が資材と生産物になる。製造業では基本的に工場を動かさずに資材と生産物を動かす。なぜなら、これらは工場よりもずっと軽いので、工場は一箇所に固定して動かさず、資材を動かしたほうが生産性は高い。

情報の製造業では、これとは逆に、資材である情報を動かさずに、工場である脳を動かすということをやってきた。なぜなら、物理的な距離が増えてしまうとやりとりする情報の量が減ってしまい、脳の生産性が低下するからだ。

情報には「 量 = リッチネス 」と「 到達距離 = リーチ 」のトレードオフがある。

このトレードオフは、物理的に離れた人とのコミュニケーションを電話と手紙に頼るしかなかった時代においては特に顕著だった。

資材となる情報のコストの方が、工場である脳のコストよりも高かった。

だからこそ、当時の人々はリッチな情報をやりとりするために「 本社ビル 」などの物理的な空間を設え、そこに人々を集めて協働させた。脳という工場を物理的に集積させることで、コミュニケーションのコストを下げてきた。

これが、世界の各地で都市化が進んだ要因である。

インターネットが急速に普及すると、このトレードオフは急速に解消されていく。情報をやりとりが、ほとんどコストゼロでできるようになった。

仮想空間へのシフトが進むのは、火を見るよりも明らかだ。

② 反都市化への反転

反都市化というのは「 都市に人が集まってくる 」という都市化と逆のトレンドである。

都市部に人が集まるのは、物理的に密集したほうが情報の伝達効率が良くなるからだ。 しかし、社会生活の仮想空間シフトが進めば、多くの情報は仮想空間上でやりとりできるようになるため、物理空間に集まることの意味合いは希薄化する。

経営学における財務会計では、意思決定の主体者が持つ選択肢の多さを、オプションバリューとして、経済的価値に換算して捉える。

③ ライフスタイルの多様化・複層化

「 どこに住むか?」というのは、人生の風景を決めるもっとも重大な意思決定である。この意思決定は、その前提となる「 どの会社で働くか?」によって、ほぼ規定されてしまっていた。

ところが「 仮想空間シフトによる反都市化 」が発生すると、何日会社に行くか、どこに住むかということを規定する制約条件が大きく緩み、働き手側の主体的な意思に選択が委ねられることになる。

ライフスタイルの多様化が進む。

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  1. 混迷の時代に求められるのは指針であるが、指針とは、コンパスの針を指す。
  2. 指針は、教養によって方向付けられる。
  3. 教養とは、複雑で曖昧な状況において、自分らしい決断ができることだ。

情報

ほとんどの人は、会社組織や資本市場の中で、どうやって、自分の感じたことをお金にするか、武器にするかにこそ悩んでいる。

自分の感性を、どうやって資本市場の中で武器に変えるか?

宗教で、偶像崇拝が禁止されているのは、偶像化する段階で、その本質が変化してしまうからだ。物質は必ず変化するけど、教えという情報は変化しない。物質化すると物質は、必ず滅んだり、痛んだり、変化してうまく伝わらない。このルールを守れとか、これが大事という教えまでも、変容してしまう。個人を偶像化、物質化すると失敗する。

モノにしてはいけない、具体にしてはいけない、時間が経っても場所が変わっても聖書の言葉は普遍である。ところがモノにすると現実化してしまう。

宗教家は、ブッダも、イエスも、そして、ソクラテスや孔子に至るまで、文字を残していない。文字すら変容すると捉えていた。
同じ言葉でも、時代背景によって受け取り方は、全然異なる。言葉は一定の意味を持っているけど、時代に影響されて、当時の本質を失う。だから、偉人たちは、言葉を文字として残さなかった。
呪いとは自分の行動や思考に制約をかけてしまうものの総称である。
近内悠太

呪いにかかってしまうのは、フィジカル ( 肉体的 ) な感覚が抜けている。学びや仕事や職業も、本来、もっと、フィジカル、頭ではなく身体で感じるもののはずだ。

情報量とは、ビット数で、自然は複雑でビット数が多い、人間がつくったものは、単純でビット数が少ない。

情報化

五感から情報化するために人間はノイズを求める。

人間の歴史は、情報化の時代と身体化の時代が螺旋状に繰り返されている。縄文時代は身体化の時代だった。弥生時代以降、情報化社会に変わっていく。

文字の伝来は、当時としては完全なIT ( 情報技術 ) だ。「 本人がいなくても話が伝わる 」というイノベーションが起こった。 詠み人知らず 」は、その典型で、 詠んだ人の実体は不明でも歌だけが形を変えずに残る。情報の特徴である。

乱世になって再び身体化の時代に戻る。鎌倉時代は意外に文章の記録が少ない。身体化の時代だから、文字に残さない。 情報化された時代、つまり、脳化社会では、身体化の時代は野蛮で遅れていると見られていた。だから、平将門以来、関東は都から見た辺境だった。

江戸時代になって、再び情報化社会に戻る。

「 万物流転 」という言葉はギリシャ時代に生まれて流転することなく残っている。そういう普遍のものを情報と呼ぶ。現代は典型的な情報化の時代だ。

では、情報になっていないものから情報に変化するところで何が起こっているのか?

田舎で暮らしていると五感から様々な情報が入ってくる。具体性の強い情報で、五感から概念へ変化していく。

それを情報化と言う。

情報化という言葉は、情報でないものが情報に化けることだ。

個人がまともに機能するには、身体的な情報と頭の中の概念的なもののバランスを取らなければならない。東京は、そのバランスが完全に頭の方に寄っている。それが行き過ぎだということは感覚的にわかるから、田舎に行きたくなる。

毎日踏みしめている地面も、東京はどこまでも平坦で、硬さも同じだ。箱根は、ただ歩くだけでも全然違う。そういう日常からの感覚情報をできるだけ一定にしてしまったのが都市である。 五感から入ってくる情報をノイズとして極力排除してできている。

田舎に行くとそのノイズが中心になる。 AI化されていない、 データ化されていない情報が入るようになる。

動物と人の違いは、意識の中に「 同じ 」という機能があるかどうかだ。同じにするから概念が生まれる。 動物にしてみれば、リンゴは一つ一つ違う。しかし、私がリンゴと言った時、相手も私と同じものを考えている。それが言葉の成り立ちである。「 同じ 」に括っている。

人は成長するにつれて絶対音感を捨てる。捨てないと、言葉が成立しない。 動物は音の高さ、振動数に頼るので、振動数が違えば違う言葉になる。だから、動物は言葉を覚えない。ところが人間は振動数が高くても低くても、言葉で識別する。

本屋に行くと「 どうやったら頭が良くなるか 」「 上手に伝えられるか 」という本がたくさんある。「 入力・情報処理・出力 」というプロセスの中で、情報処理や出力についてはたくさんのハウツー本があるが、入力についての本は、ほとんどない。あっても速読術の本だが、本は二次情報である。本来は、身体や五感を使って世界と向き合って、何かを読み取ることが入力だが、その部分がごっそり抜け落ちている。

子どもは置かれた状況で、自分で入力を探すから、入力に応じた出力をして、その循環が脳の中に思考回路 = プログラムをつくっていく。

五感から入ってくる感覚の大切さを親自身が知らなければ、役に立つと思うものだけ子どもにやらせる。教育は本来、事後的なものだ。何の役に立つかよくわからないけれども、子どもがやって、50年経って、あれが良かったのかもしれないなという。

役に立たないことこそが本質的に役に立つことがある。

タンザニア

個人で物を売買したり、イニシアティブを取って何かを始めたりする経験の有無で、組織に依存する度合いが大きく異なる。

タンザニアは、公的なセーフティネットが提供できないので、犯罪でなければ、非公式な経済を容認している。思いついたときに行動を起こすことが簡単なので、自力で生き抜いていける側面がある。非公式な経済があるから、政府に対しての公的な社会保障への要求が高まらない。

資本主義経済は、あたかも「 自律的に生きることができる 」という錯覚をもたらした。私たちは生まれて成長する過程で、親や周囲の人々から贈与を受けている。人間の赤ちゃんは一人では生きられないので、手厚い保護を受けている。つまり、人間はみんな生まれながらに借りを負っている。

貨幣によって借りを精算できるようになり「 自分が手にしているものは、自分自身が努力したもの、支払ったものへの対価として得ている 」という錯覚が生まれた。

タンザニアの人たちは、困った時に依存できる先をたくさん持っているからこそ自立しているとも言える。自立と依存は対立概念ではなく、表裏一体のもので、相互に依存しているからこそみんなが自立できる社会として捉える。

お金を貸すのも借りるのも「 状況がそうなったらやるものだ 」という感覚で生きている。たまたま、困った人が目の前にいれば貸すし、自分が困ったら借りる。 貸し借りは必ずしもすべて自分の意思や責任ではなく、偶発的な状況の結果でもある。

もう一つは、借りをすべて返済してもらったら、そこで関係が終了してしまう。贈与論の考え方である、貸し借りの関係が解消されてしまえば、もう一度貸すとか借りるというアクションを取らない限り、無関係になってしまう。

負い目がある限り、人間関係は続くので、自分が必要になる時まで借りは残しておく。 「 人生の保険だから、取り立ててはいけない 」という考え方である。貸しを残しておくことで「 いざという時に頼れる相手がいる 」と考える。

タンザニアの友人たちとおしゃべりしていたら、ある男の子が「 好きな人ができた 」と言う。周囲から「 告白しろよ 」と言われても「 俺みたいな貧乏人が告白したってどうせ振られるよ 」と言うので、仕方がないなと。靴屋が靴を古着屋が一番いい古着を貸して、タクシードライバーは2時間タダで乗せてあげて、 私はポケットマネーをカンパして、一夜にしてハイスペック男になった彼は女の子を誘いに行き、付き合うことになり、その後、結婚した。

「 あいつ、ただのメッキ男なのに、なんで結婚したの?」と、その女の子に聞いたら「 彼が本当は貧乏なことはデートしたその日にわかったわ 」と。でも、この人は、困った時に助けてくれる人がたくさんいる。これだけのものが瞬時に集まる関係性を持っている。それは実質的にお金やものを持っているのと同じだと。

日常の些細な困難であれば、自分が働いて二人で工夫して乗り越えられるけれども、大事なのは緊急時だから、いざという時に助けてくれる人が現れる生き方をしていることが旦那選びのポイントなのだ。

100年前には「 何かが起こるのではないか 」と恐れていたが、現代では「 何も起こらないのではないか 」と恐れている。

「 先がどうなるかわからない 」ことは「 新しい希望に溢れている 」とも言える。

日本社会は不確実性を可能な限り排除して、予測可能性を高めることを目指してきた。その過程で、非公式なものは排除され「 非公式は取るに足らないものだ 」という価値観が定着した。その結果、公式なものに極度に依存する社会になった。常識絶対主義社会の誕生だ。

同じ種類の動物でも「 家畜と野生動物で脳の大きさが違う 」という研究がある。不確実性に向き合わなければ、生物として弱くなってしまう。

適度にルールを無視するからこそ、秩序が成り立つ。ルールを制度化し、誰もがルールを守る世界では、融通が効かず、社会が停滞してしまう。

トップダウンでつくられたシステムがなければ、社会は回らないわけではない、人類史を振り返ると、そんなシステムがなくともやってこれていた。

どんなに知恵を働かせても、失敗する時は失敗する。
それは運が悪かったりツメが甘かったりしたからで、そもそも世界はそういうものだ。

「 報われないこともあるのだ 」という前提の上で努力や正義の大切さを説き、ままならなさや不条理に、どんなふうに知恵を働かせたり、対峙したりしていけばいいのかを問う力こそが重要である。

不確実性である。「 努力は素晴らしい 」という価値観と「 それがうまくいくかどうか 」は別の話である。

人生とは不確実なもので「 努力が必ずしも報われる 」とは限らないし、予測できないこともたくさんある。だからこそ、面白いし、他人を受け入れ、自分が受け入れられる余地もある。そんな価値観に身を投じることができたら生きやすい世界になるのではないか?

進化

人間には様々な機能があるが、中には、不合理で不要と感じるものもある。痛みを感じる神経や、怒りや悲しみといったネガティブな感情である。一方で、どんなに非効率に見える機能も、進化の過程で見ると、生物が生存し繁栄するために有利な特性だったから、その形質を持った個体が生き残ってきた。

今、社会に残存している制度や仕組みも何らかの必然性を持っているのか?

膨大な試行錯誤を経て、この均衡点に落ち着いているのなら、資本主義というシステムは、進化の淘汰の産物なのか?

資本主義は、ここ100年くらいの流行に過ぎない。

義務や道徳や共感が重要で「 個人の利己的な欲求による需給バランスは、その上で生じる」としているが、 現代では、後者だけが切り取られている。

人間に欲求や感情があるのは、個体として生き残り、種として繁栄するために必要な機能だったからだ。でも、そうした機能が現代の環境を生きるために最適なものかどうかはわからない。

本来、生きるために必要であるはずのカロリーを摂取しすぎて病気になっているのが現代だ。

生命科学的に考えるなら、心地良いと感じるだけ食べれば最適なカロリー摂取量となる方が生存には有利なはずだ。

人間が進化してきた歴史において、食料が不足する環境が長かったために、最適なカロリー摂取量よりも少し多く摂取するようになっているからだ。

食料が潤沢になった現代では、欲求のままにカロリーを摂取するのではなく、生物学的な欲求が何かを理解した上で、知性を持って、ちょっと腹八分目にしておこうとセーブできる個体の方が、健康的に長く生きられる。

思考は多くのエネルギーを消費する行為だから、思考しなくていい環境であれば、生物はなるべく思考しないことを選択してきた。

人間が、1日に消費するエネルギーの約20%は脳で使われているから、いかにエコに脳を運営するかは一大テーマだ。脳は、なるべくパターン認識やヒューリスティックスなどの手法を使って、最適解を都度求める手間を避けようとする。

思考しなくてもよい環境であれば考えなくなっていくように、進化の過程では、不要なものはなるべく削除して進化する。

現代社会では不要と思われる機能、経済的成功につながらない能力や機能を排除していくと、社会システムが変わった時、不具合が起こるのではないか?

外界の環境が変化した時、たまたま生存に有利な個体が生き残ったことを事後的に進化と呼んでいる。

遺伝子の多様性がある中で、結果的にどれかが生き残るだけで、自分たちが選んで進化できるわけではない。また進化が進歩とも限らない。

コピーの過程でランダムに起こるエラーこそが進化をもたらすなら、意図的にエラーを起こすプロセスの設計が必要になる。

日本社会では無謬性 ( 誤りのなさ ) が重要視されていて、ミスやエラーを忌避するが、それが、社会の閉塞感を招いている。

好きなことや夢というのは、生物学的には説明できない。

私たちが頭の中で想像したより良い世界との比較によって初めて「 現在 」が改善されるべき世界になる。それは個人の主観だが、主観があって初めて課題が明確になり、そこに自分の意志が生まれる。

個人のキャリア、人生においても同じだ。
今、存在する世界が理想の世界なら、何の課題もない。

カオスな環境、なるべく想像可能性が低いところに身を置いた方が自分の課題は見つかりやすい。

何か新しいことを始める時、どんなものか想像できてしまうと、課題は見つかりにくい。 自分の知っていること、経験したことのあることは想像しやすい。自分ができるかどうかわからないことに取り組んだ方が発見は大きいはずだ。

やりたいことがわからない人は、想像できない環境に身を置けばいい。
  • 勇気の問題に逃げないことが大事だ。
  • 勇気がないことのせいにして、思考停止をしてしまう。
  • 勇気がないから、ちゃんと考えて、起業する。
自分の人生を、自分のコントロール下に置くために、起業する。

情熱があるから行動できるのではなく、行動することで情熱が湧いてくる。

  • 人間は行動を起こすから「 やる気 」が出てくる生き物
  • 面倒な時ほど、あれこれ考えずに、さっさと始めてしまえばいい。

何かの本を読んで、いきなり情熱が芽生えたということはあり得ない。情熱が湧くとは、生物学的にはドーパミンが放出されている状態だ。体を動かすことでドーパミンは放出される。情熱があって動くのではなく、まず体を動かして、行動してみて、初めて情熱が芽生えるのだ。

やりたいことが見つからない人は、移動距離が短い。喜怒哀楽の感情が駆動して、初めてセレンディピティが生まれる。

移動距離の総和が短いと、きっかけに出会うことも少なくなってしまう。慣れ親しんだ環境から飛び出して、馴染みのない存在に出会う機会をつくり続けることで、結果的にやりたいことに巡り会えるのだ。

便利になったためにセレンディピティが起こりにくくなっているから、能動的設計する必要がある。

日本史

弓道や蹴鞠では、勝敗の白黒をつけたり、点数をつけて順位を争うことをしない、それが大きな違いである。そもそもレクリエーションというものが、いかに優雅にやったかが大事で、勝敗を決めるなどは無粋だとされてきた。

江戸時代までそんな価値観で暮らしてきた日本人が、富国強兵・文明開化で追いつけ追い越せとグローバル・プロトコルを身につけて今に至る。

江戸時代末期から明治時代初頭、日本を訪れた外国人は「 これほどのんびりした人々を見たことがない 」「 ヨーロッパの基準に照らしてなんと怠惰な人々か 」と口を揃えて言った。

現代の日本人がヨーロッパに行くと、時間の流れがゆったりとして人々がゆとりある生活をしている、日本は「 何をあくせくしているのか 」と感じる。

日本人がもともと勤労だったりワーカホリックだったわけではなく、時代が人々の行動様式や意識をつくっていく。時代が人をつくり、価値観をつくる。

日本人は決して変化を避けてきたわけではなく、歴史を見れば、むしろ恐るべき変容を遂げてきた。時代の急激な変化に合わせて、価値観やライフスタイルを変化させてきた。

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