思考とうんこは同じ
2022/6/1
- 本でも、テレビでも、人でも、街でも、店でも、何でもいいから、情報や空間を通した体験というインプットに触れることで、影響を受ける。
脳が刺激される。
そして、私の場合は、文章となりアウトプットされる。 - 水分を取って、小便をする。
食事をして、大便をする。
生きるための要素をインプットして、内臓が消化して、排泄物としてアウトプットする。
「 脳を使うか 」「 内臓を使うか 」の違いに過ぎない。
私たちは、大小便を自分の意識でコントロールできていない。何時に大便して、何時に小便して、というように、起床時間にアラームをかけて起きるように、身体をコントロールできない。「 内臓が勝手に消化したのを知る機能 」と「 それを我慢する機能 」をコントロールできるだけだ。
私の文章も、似たようなものだ。「 脳を使うか 」「 内臓を使うか 」の差でしかない。思考のすべてをコントロールできるわけじゃない。寝ている間の脳の整理機能は、コントロールできない。
だから、毎日、書けるわけじゃない。
大小便は、飲んだ水分の量や、食事の内容や量といった、インプットによって左右される。文章も、情報や空間から得た体験によって、左右される。
旅していると、常に情報や空間が変わり続けるから、毎日が違う体験だから、ずっと、文章が生まれ続けるということだ。いつもと同じ日常からは、文章は生まれ辛い。いつもと違うからこそ、非日常によって、脳が刺激される。そして、思考がまとまって、文章になる。
食べ過ぎたあとに、大便がたくさん出るように、大量のインプットは、筆が止まらなくなることもある。考えてなくはないけど、ほとんど、排便と同じような感覚だ。排便のとき、どのくらい出そうとか考えてない。ただ、出るだけ。
言葉が次々に溢れてきて、それを文字として可視化することに没頭する。もう、時間も空間もなく、ただ、文字を打ち続ける。ふと我に帰ったときに気付く。なんて、気持ちがいいんだと。アドレナリンが出まくるというか、フロー状態というか。これで、また、ひとつ私の世界が可視化されたし、私の思考が可視化された。素晴らしい、気持ちいいとなる。
私たちは、思考を特別なもの、崇高なものと考えているが、食事をして内臓が消化して排便するのと同じように、体験をして脳が情報処理をして思考しているだけだ。うんこと同じだ。
- 思考は、脳を使っただけ。
- うんこは、内臓を使っただけ。
どちらも同じ。
身体の機能を使っているに過ぎない。
- ジャンクなものを食べれば身体の機能も悪くなる。
ジャンクな情報ばかりを得ていれば、思考の機能も悪くなる。 - 健康にいいものを適量食べれば、身体の機能も良くなる。
良質な情報に触れていれば、思考の機能も良くなる。
情報が溢れている社会だからこそ、良質な情報を厳選する、見極めが重要になってくる。
自分の情報選択の眼力が、自分の人生を決定付ける。

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