【本要約】時間は存在しない
2021/10/27
時間?
現実は見かけと違う。地球は平らに見えるが、実は丸い。太陽は空を巡っているように見えるが、実は私たちが回っている。そして、時間の構造も見かけと違い、一様で普遍的な流れではない。時間の正体は、おそらく人類に残された最大の謎なのだ。私たちは絶えず何か本質的なモノによって、時間の正体に連れ戻される。
- なぜ、過去を思い出すことはできても、未来を思い出すことはできないのか?
- 私たちが時間の中にいるのか、時間が私たちの中にあるのか?
- 「時間が経つ」という言葉の真意は何か?
- 私たちと時間を結びつけているのは何なのか?
時間に特有とされている性質は「私たちの見方がもたらした間違い」であることが、明らかになった。地球は平らでないし、太陽が回っていないように。
私たちが時間と呼んでいるモノは、さまざまな層や構造の複雑な集合体であり、さらに追求すると、それらの層も剥がれ落ち、かけらも消える。
時間のない世界には、何かがあって、私たちの慣れ親しんだ時間 ー 順序があって、未来が過去と異なり、未来から過去に流れる時間 ー を生み出している。私たちにとっての時間が、何らかの形で私たちの周りに生まれている。
時間の崩壊
時間の流れは、山は速く、平地は遅い。低地では、高地より時間がゆっくり流れている。時間は、場所によっては遅く流れ、場所によって速く流れる。
アインシュタインは、精密な時計ができて、時間の流れの差を測れるようになる前に「時間が至る所で一様に経過しない」ということを理解していた。
私たちは「自分たちの常識が先入観であること」を知る。地球は平らでないし、太陽が回っていない。
太陽と地球は、どうやって互いを重力で「引き合っている」のか?
太陽と地球が直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか。だとすると、この二つの間には空間と時間しかないから、ちょうど水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ。このような時間の構造の変化が二つの天体の動きに影響を及ぼした。
この「時間の構造の変化」が時間の減速なのだ。物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。山より平地のほうが減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球の質量の中心に近いからだ。
物が落ちるのは、この時間の減速のせいなのだ。惑星間空間では時間は一様に経過し、物も落ちない。落ちずに浮いている。
時間が減速するからこそ、物は落ち、私たちは足を地面につけていられる。足が地面から離れないのは、体全体が、ごく自然に時間がゆったり流れる場所を目指すからだ。
2600年前のギリシャ哲学者であるアナクシマンドロスは、地球が何の支えもなしに宙に浮いていることを知っていた。
そして時間の順序に従って、正義となる。
アナクシマンドロス
自然についての科学が誕生した瞬間である。
以来、天文学や物理学は、「現象が、時間の順序に従って、どのように起きるか」を理解しようとしてきた。
時間(t)は、時計で計った値を表す。物理学の方程式は、時計で測った時間の経過につれて、事物がどう変化するのか教えてくれる。しかし、時計ごとに刻む時間は異なるわけで、時間(t)は何を指しているのか?
異なる時計が実際に指している2つの時間、互いに対して変化する2つの時間があるだけだ。本物の時間は存在しない。たくさんの時間がある、唯一無二の時間ではなく、無数の時間がある。
時間と呼ばれる単一の量は砕け散り、たくさんの時間で編まれた織物になる。この世界は、互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークである。
これがアインシュタインの一般相対性理論による時間の描写である。
物理学は、事物が「時間の中でどのように進展するか」ではなく、事物が「それらの時間の中でどのように進展するか」「時間同士が互いに対してどのように進展するか」である。
時間は、最初の層である「単一性」という特徴を失う。時間は、場所が違えば異なる進み方をする。
時間には方向がない
過去と未来は別物だ。原因が先で結果が後だ。未来に向かって生き、未来を形作れるのは、今のところ未来が存在しないから。すべてが可能である。
時間という線には決まった向きがある。時間は、矢であって、矢の先端が未来で、矢の後端が過去である。2つの端は異なっている。時間は、過ぎる速さではなく、2つの端が異なっていることこそが、時間の基本である。
「未来の希望や過去の記憶の流れに潜む」のが「時間の秘密であり時間の謎について考える」ということだ。この流れは何か?
熱は「熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じない」という不可逆性がある。過去と未来の違いが現れる場合は、必ず熱が関係する。過去の記憶を思い出したり、未来を思考すると、頭の中で熱が生じる。
この世界には、物理法則での規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは、過去と未来で対称だ、過去と未来は違わない。「過去と未来が違う」と感じるのは、私たち自身が曖昧だからである。
現在の終わり
アインシュタインは、質量によって時間が遅れることを理解する10年前に「速度があると時間が遅れる」ということを理解していた。
時間(t)は私が静止しているときの時間、私と同じように静止した中で物事や現象が生じる際の速さを示し、一方で、あなたの時間(t’)は、あなたと共に動きながら物事や現象が生じる際の速さを示す。時間(t)は、じっとしている人の腕時計が指す時間で、時間(t’)は、動いている人の腕時計が指す時間である。
現在という概念と関係があるのは自分の近くのモノであって、遠くにあるモノではない。私たちの現在は、宇宙全体に広がらない。
現在は自分たちを囲む泡のようなモノだ。泡の広がりは、時間を確定する際の制度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の現在の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら数キロメートル。私たち人間に識別できる1/10秒で、地球全体が、ひとつの泡に含まれることになる。
そこで、みんながある瞬間を共有しているかのように、現在について語ることができる。だが、それより遠くには、現在はない。遠くにあるのは、私たちの過去であり、未来である。
時間は事物と切り離せない
私たち個人が経験する時間は、伸縮自在だ。数時間が、数分に飛び去るかと思えば、重苦しくゆっくりと流れる数分間が、何日にも感じる。
アインシュタインが否定するまで、私たちが「時間はどこでも同じ速さで流れている」と思い込んでいたのは、一体全体なぜなのか。
自分たちが直接経験している時間の経過にもとづいて「時間がどこでも常に同じ速さで経過する」と考えるようになったのでないことは確かだ。では、このような考えはどこから生まれたのか?
アリストテレス的時間
アリストテレスは、時間とは「変化を計測した数である」という結論に達した。事物は連続的に変わっていくのだから、その変化を計測した数、自分が数えたモノが時間なのだ。
何も変わらなけば、何も動かなければ、時間は経過しないのか?
アリストテレスは、「時間は経過しない」と考えた。何も変わらなければ、時間は流れない。時間は変化を計測したモノであって、何も変化しなければ、時間は存在しない。
私たちの心の中で何かが変化すれば、すぐに「時間が経過した」と感じる。自分自身の中を流れていると感じられる時間も、動き ( 自分の内面の心 ) を計測したモノなのだ。
ニュートン的時間
ニュートンは、「絶対的な時間と相対的な時間」「数学的な時間と自分の日常の時間」といった2つの概念があるとした。「日にちや動きを計測した値である時間」と、アリストテレスの定義した「相対的な日常の時間」があるとした。
その上で、さらに、同時にもう一つの別の時間、どんな場合にも経過する「本物の時間」=「事物そのモノや、事物が生じるかどうかとは全く無関係な時間」が存在するとした。「事物とは無関係な絶対時間」は、計算によってのみ得られる間接的なモノであって、「日にちなどで示される時間」と異なる。
ニュートンの定義した絶対時間を学校の教科書で学んだことで、私たちに自然に馴染んだ。
ニュートンが登場するまで、人類にとって「時間は、事物の変化を測定するための方法」であった。「時間が事物と無関係に存在し得る」とは考えていなかった。
- アリストテレスの空間の定義
ある事物の場所とは、事物を囲んでいるモノのことである。 - ニュートンの空間の定義
結対的で数学的なモノで、何にもない所にも存在する、空っぽな空間も含める。
ニュートンの入れ物としての空間を、私たちは、自然に受け入れることができる。私たちが直感のように感じられる見方も、実は過去に科学や哲学が作り出したモノなのだ。
アインシュタイン的時間
アインシュタインの最も重要な業績、それは、アリストテレスの時間とニュートンの時間の統合である。
ニュートンがその存在を直感した時間や空間がある。アインシュタインは「時間や空間自体が、物理現象を担う実体だ」とした。この実体は重力場と名付けられ、電気や磁気の担い手である電磁波と同じように、方程式によって変動する。
・時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。
・時間は、方向づけられていない。
過去と未来の違いは、この世界の基本方程式の中には存在しない。それは、私たちが事物の詳細を曖昧にしたときに偶然生じる性質でしかない。そのような曖昧な視野の中で、この宇宙の過去は妙に「特別」な状態にあった。「現在」という概念は機能しない。 この広大な宇宙に、私たちが理に適った形で「現在」と呼べるものは何もない。
時間の持続期間を定める基層は、この世界を構成するほかのものと異なる独立した実体ではなく、動的な場の一つの側面なのだ。跳び、揺らぎ、相互作用によってのみ具体化し、最小規模に達しなければ定まらない側面である。
時間のない世界
出来事
時間は既に、ひとつでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず「今」もなく、連続でもないが、「この世界が出来事のネットワークである」という事実に揺らぎはない。
時間に限定がある一方で、単純な事実がひとつある。事物は存在しない。事物は起きるのだ。
基本的な方程式は時間という変数を含まないが、互いに対して変化する変数を含んでいる。時間は変化を計測したモノで、変化を測るための変数の選び方は様々だが、私たちが体験する時間の特徴を備えた変数は存在しない。
「この世界が絶えず変化している」という事実は残る。
- この世界が、「物」=「物質・実体・存在する何か」によってできていると考えることも可能だ。
- この世界が、「出来事」=「過程の集まり」と見ることも可能だ。
「出来事」で見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することができる。「物」と「出来事」の違い、「物」は時間をどこまでも貫くのに対して、「出来事」は計測時間に限りがある。
「物」の典型が石ならば「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。一方、キスは「出来事」で「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。キスは、空間的にも時間的にも限定された「出来事」なのだ。この世界は石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。
私たちは、物を、実態の観点から理解しようとしてきた、しかし、物ではなく、変化を調べることで、この世界を理解する。生命体が「どのように進化して生きていくか」を研究することによって、生物学を理解する。
時間が出来事の発生自体を意味するのなら、あらゆるモノが時間である。
過去・現在・未来
私たちは、今あるモノを現実という、過去にあったモノは現実だったモノであり、未来にあるモノは現実になるだろうモノであって、現実ではない。
客観的で全体的な現在は存在せず、動いている観察者との関係で、現在を語るのが関の山である。
・哲学
「現在も過去も未来も等しく現実であり、存在している」という見方がある。
時間は流れていない。
- 過去と現在と未来の違いは、決して幻ではない。
この世界の構造なのだ。 - 変化や出来事の発生も幻ではない。
この世界の変化は、時間の連続として整列させられない。
それ以上でも、以下でもない。この世界には変化があり、出来事同士の関係には時間的な構造がある。出来事は全体的な秩序の下で起きるのではなく、この世界の片隅で複雑な形で起こる。
方程式
量子重力の基本方程式は、時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す。世界は相互に連結した出来事のネットワークであって、そこに登場する変数は、確率的な規則に従う。存在するのは出来事との関係だけ、これが、基本的な物理学における時間のない世界である。
時間の源へ
時間の正体は何か?
何らかの形で世界に生じる。
記憶と予測
過去の記憶が豊富だからこそ、「過去は定まっている」という、感覚が生じる、未来に関しては記憶がないので、「未来は定まっていない」と感じる。記憶が存在するおかげで、私たちの脳は過去の出来事の広範な地図を作り出すことができるが、未来の出来事の地図は作れない。だから、私たちはこの世界で自由に動ける。
脳は、現在の状況を元に、未来をシュミレーションする。私たちは自然に、結果に先立つ原因との関係で物事を捉えるようになる。
私とは何か?
私は、時間と空間の中で構成された有限の過程であり、出来事なのだ。
私が「独立した実体ではない」とすると、何が私のアイデンティティ「自分はひとつのまとまった存在だ」という感覚の基になっているのか?
②私は自分自身の同類から受け取った「己」という概念の反映である。
③私は、過去の記憶を持つ、自分自身の歴史・物語である。私は、現在進行形の長い小説であり、その物語が、私の人生なのである。
脳は、「過去の記憶を集め、記憶を使って絶えず未来を予測しよう」とする仕組みである。この作業が行われる時間のスケールは、極めて短いモノから長いモノまで、非常に広範だ。私たちは、過去の出来事と未来の出来事にまたがって生きていく。そして、これが、私たちにとっての時間の流れなのだ。
アウグスティヌス
ハイデッカー
記憶と私たちの連続的な予測の過程が組み合わさったとき、私たちは、時間を「時間だ」と感じ、自分を「自分だ」と感じる。
時間と苦悩
時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主である私たちヒトの、この世界との相互作用の形であり、私たちのアイデンティティの水面となのだ。
そして、苦しみの源である。
①生まれることは苦である
②病は苦である
③老いは苦である
④死は苦である
⑤忌み嫌う者との出会いは苦である
⑥愛する者との別れは苦である
⑦望むものを得られないのは苦である
⑧自分の心や身体が思い通りにならないのは苦である
「なぜ苦なのか?」というと、自分たちが持っているもの、愛着を持つものを失う定めにあるからだ。始まったものは必ず終わる。
私たちは過去や未来に苦しむのではなく、今、この場所で、記憶の中で、予測の中で苦しむ。時間の流れに耐え、時間に苦しむ。
時間は、この世界の束の間の構造、この世界の出来事の中の短命な揺らぎでしかないからこそ、私たちを私たちとして生み出し得る。私たちは時でできている。時は、私たちを存在させるからこそ、私たちのすべての苦悩が生まれる。
時間の正体
自然淘汰の末に、前頭葉が異常に肥大した大型の猿が生み出され、未来を予測する能力を過剰に持つに至った。これは確かに役に立つ能力だが、その結果、私たち猿は、避けられない「死」という見通しと直面することになった。
私たちは、この世界を見て記述し、この世界に秩序を与えるが、「理解する」ということの意味すらはっきりしない。「この世界そのもの」と「自分たちがこの世界に見ているものと」の本当の関係は、実は、ほとんどわかっていない。自分たちに見えているのが、ほんのわずかであることはわかっている。
この叫びが時間の認識である。時間である。
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