厄年の存在意義
2021/10/10

日本人と宗教
普段は、六曜なんて気にしないけど、結婚式のときだけ、大安にしたい。でも、結婚式は、教会で挙げたい。
いつもは、神社なんて行かないけど、年始だけ、お願いをしに神社に行く。年に1回だけで、そのお賽銭の額で、その願いが本当に叶うととでも?
何となく、厄年は、神社でお祓いをする。自分が信頼してる神社へ、遠くまで出かけて、お祓いをして、何とか厄年をやり過ごそうとする。
そして、死んだら、お寺の坊さんを呼んで、お経を唱えてもらって、葬式をあげる。
私たち日本人は、無宗教でありながらも、必要なときだけ、必要な宗教を、節操なく使う世界でも唯一の変わった民族である。
モノゴトの視点
厄年は、何のためにあるのか?
厄年という英語はない、厄年は日本の文化である。
私たち日本人が信じている仏教は、東洋思想は、基本的に、自己の内面を重視する。簡単に説明すると、全部、自分の心次第だよ。幸福は自分の中にあるから、自分が「幸福だ」と思ったら、それは幸福だよ。
その思想は、厄年の存在と相反してしまう。
「幸福だ」と思えば、幸福なら、厄年という、わざわざ、よくないことが起こる年を作って、不安を煽ることはないはずだ。
モノゴトに、絶対的なことなど存在しない。コインには、裏と表があるように、表だけでは存在できない。男と女、白人と黒人、善と悪、正と誤、神と悪魔、幸福と不幸、必ず、相対するモノがある。私たちは、上から眺めているだけだから、コインの表しか認識できないだけだ。
だから、幸福のためには、厄年が必要になる。
「よくないことが起こるかもしれない」と案じ、よくないことが起これば、厄年のせいにする。正しくは、よくないことを案じたせいで、よくないことが起こったに過ぎない。
しかし、よくない年を過ごすことで、翌年からは、厄年が終わったので、「いい年になりそうだ」と考える。すると、よいことが起こる。よいことが起こっているのではなく、「よいことが起こる」と思っているから、「よいことに見える」に過ぎない。
自分が「どう見るか」で見え方が変わっているに過ぎないのだが、見え方を操れるほど、自分をコントロールできない人が多い。
だから、幸福を享受するためには、不幸が必要なのだ。
厄年の翌年は、いい年だと考えるけど、ほとんどは厄年じゃないから、いい年なはずだ。でも、時が経つにつれて、そのことを忘れてしまう。だから、時々に厄年を設けて、あえて、不幸を作ることで、厄年以外は、「いい年だよ」と伝えているに過ぎない。
「幸福の体現者には、厄年は不要だ」ということだ。
42歳の厄年に気付いたこと。

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