恥ではない、服を着る理由と何か?

社会

恥ではない、服を着る理由と何か?

2022/3/20

服への価値観

・服は清潔感が必要だ。
・服は清潔感を保つために存在する。
  • 服って「 めんどうだな 」と思いはじめた。
  • 服を買いに行ったり、服のことを気にしたり、毎日、着る服を考えたりすることにストレスを感じはじめた。
  • 服は清潔感さえあればいいのだから、何でもいいのだ、人に不快を与える、不潔な格好でなければいいのだ。
  • 服に対して、自分の思考のメモリを1mmたりとも使いたくない。
    服のことを考えずに暮らしたい。

今は、そんなふうに考えている。

最初から、そうだったわけではない。

私は、服に興味があったし、着飾ることに対しても、気を使ってきた。
服、時計、靴、すべての身に纏うものが、持ち物が、自分の中で、最高潮に達した後「 夏草や兵どもが夢の跡 」状態になった。

何だかどうでもよくなったのだ。

必死に着飾って「 俺は、優秀だ、俺は、金を持っている 」と、他人にアピールしていた。見栄を張りたかったのだろう。モテたかったのだろう。他人に承認されたかったのだろう。貧乏を抜け出したことを証明したかったのだろう。世間の目を気にして生きていた。

世界をこの目で見て回って、世界を知った。

そしたら、そんな世間の目とか、どうでもよくなったのだ。

自分が自分であればいい。

私が金持ちかどうかは、私が知っている。
私がどんな格好をしていようが、関係ない。
貧相な格好をしている金持ちもいれば、贅沢な格好をしている貧乏もいる。

  1. これまで、私は、服に着られていた存在だった。
    そして、私は、新たに、服を着る存在として、自分の配下に置いた。
    これまでは、服が、主人であった。
  2. 服によって、自分の経済性をアピールしていた。
    服が自分の経済性の象徴だった。
  3. そうではない、私が、主人なのだ。

私に、経済性があるから、服を買うことができる。
服ではなく、私という「 存在そのもの 」が経済性の証なのだ。

  1. 私は、主従関係を逆転して、自分が主人となった。
    服は、私に着られる存在でしかない。
  2. 私という存在に着られることで、その価値を発揮できる。
  3. 私が主人で、服は僕(しもべ)である。
    「 何を着るか 」は問題ではなく「 誰が着る か」である。
  4. 私は、何を着ていようと、私に価値があれば、服にも価値が付随する。
    「 私に価値があるかどうか 」でしかなく、服は関係ない。

ステーキ定食のステーキは私で、服はポテトだ。ポテトは単品で出されても価値がなく、ステーキ定食に添えられているから価値が増すのだ。ステーキ屋のポテト、めちゃめちゃ高いから。

だから、自分に価値があることを認識しているだけでいい、自分に経済性があることを認識しているだけでいい。

ユニクロを着ても、何を着ても、自信に満ち溢れていることで、ユニクロの服の価値を向上させる。ユニクロの服を着ていても、金持ちの風格があれば、その服は、もう、ユニクロの服には見えない、どこかしらのブランド服に見える。

世間の目は所詮、そんなものだ。

そして、もはや、自分がユニクロを着ていることにすら気づかない。
どうでもいい。
たくさんいる僕 ( しもべ ) の名前を全部覚える主人はいない。

そんなふうに、私は考えるようになって、もはや、清潔感さえあれば、服の値段は関係ない、服のブランドは関係ない、服はどうもいい存在となった。

そんなどうでもいい存在に、自分の思考の時間を1秒も使いたくない。僕 ( しもべ ) のことなんてどうでもいい、私は、私の価値を高めることにフォーカスすることが何よりも重要だ。

服の定義

服が、好きな人がいるのは知っている。
好きな服を着て、気分が上がる人がいる。
服に、お金と時間を使うことに価値を見出す人もいる。

私は、服が好きでもないのに、古着の街、高円寺に住んでいる。週末は、服好きの人たちで、街は賑わう。私には、全く、その価値を認識できないので、みんな「 服のために、僕 ( しもべ ) のために、振り回されて大変だな 」と思う。

一方で、服は自分を表現しやすい、簡単に表現できる。貧乏でも、高い服を着ていれば、お金持ちに見る人もいる。ブサイクでも、ブランドの服を着ていれば、かっこいいと見る人もいる。だから、人は、服に惹かれる要因は理解できる。

服とは、そもそも、何だろうか?

文明が未発達の民族には、チンコケースという道具がある。これは「 狩猟の際にチンコがぶらぶらして邪魔だから固定しておこう 」として発明されたに違いない。狩猟という生活に必要だから、チンコをケースに収めた。

生活するときに「 裸だと、寒いから、服を着はじめた 」と考えるのが、自然であろう。私たちは、決して、恥ずかしいから、他人に裸を見られるのが恥ずかしいから、服を着はじめたわけでない。

もともと、裸でいても平気だったが「 リンゴを食べたら、羞恥心が生まれた 」という文化の国もあるようだが、日本はそうではない。日本の江戸時代の銭湯は、混浴だったのだ。江戸時代は、庶民の家に風呂はないから、庶民は老若男女問わず、混浴の銭湯へ行っていたのだ。

恥とは、社会生活の中で育まれた知識である。

赤ちゃんは、喜怒哀楽という感情は最初から備えているが、「 恥ずかしい 」という感情は持っていない。小さな子どもは、風呂上がりに裸で走り回っている。小さな女の子は、父親と一緒に男湯に入る。誰も、恥ずかしくない。

大人が「 服を着ないと恥ずかしい 」と教えるから、子どもは「 恥ずかしい 」という知識を獲得して、こんな時は「 恥ずかしいと思わなければならないのだ 」と考えているに過ぎない。

「 喜怒哀楽 」という人間が本質的に持っている感情とは、全く異なる社会的感情が、「 恥 」というものなのだ。

だから、恥から、服を着ることが、はじまっていないことは明らかだろう。

  1. 服は、チンコが邪魔だとか、寒さを防ぐとか、生活の快適にする役割からスタートした。
  2. 時代は変遷していき、服は、生活の機能としての役割からドンドン進化して行った。
  3. 王族の中で、地位を表すものとして用いられ、服が機能の枠を脱していった。
  4. 資本主義の流れと共に、貴族の中でドンドン豪華になっていき、服という文明が開花した。
  5. それが庶民にまで降りてきて、ファッションという文化になって定着した。
  6. 服は寒さを防ぐものではなく、自分を表現するツールとなった。

服の役割

自分を表現するツールとなった服は、見た人への印象を形作る。

① ブランド名のでかいロゴの入った服を着た人を見ると、
ブランド名という世界観でしか自分を表現できないから、自分に自信がないんだろうなー大変だな。
② 全身ブランド品の格好をした人を見ると、
「 私はお金持ちだよ 」と表現したいのだろうけど「 私、お金かかりますよー 」とアピールしているだけだ、大変だな。
③ なんか尖った格好をしている人を見ると、
「 最新ファッションはこれだ 」と最先端を表現しているのだろうけど、俺にはわからないし、多分ほとんどの人もわからない、大変だな。
④ 特になんでもないユニクロの服を着ている人を見ると、
服に興味がなく、着れれば何でもよく、服によって誰からの関心も得ようとしていない、むしろ、市井の人に溶け込んでいる、その感覚分かる。

私は、服に興味・関心がないから、こういった目線になってしまうのだが、各々の人々が、それぞれの価値観で、服を判断しているのだろう。

いろんな人が、いろんな服を着ているが、つまるところ服とは何か?

服は記号である。

服は、自分を一つの画像で表す記号である。

同じ記号を持つ人々は、仲間意識を持つ。記号によって、互いの価値観に共通性があることを認識できるからだ。

そして、その記号によって、分類することができる。

① ブランドチーム
② 金持ちチーム
③ ファッションチーム
④ パンピーチーム

それぞれに分類された人々は、それぞれの記号の中で生きてる。

服の進化

温暖化が進み、ドンドン暑くなっていき、服を着ていると、暑さのため病気になる時代がくるとする。

  • そのとき、私たち人類は、服という文明を投げ出し、恥という文化を捨て、裸へと回帰するのだろうか?
  • さすがに、完全な裸には至らないとしても、性器を覆う程度、下着、水着レベルならば、どうだろうか?

スタイルがいい人はそうかもしれないが、大半の人は、自分の体型を晒すことに抵抗を覚えるかもしれない。

そうなのだ。

実は、服は、寒さを防いだり、自己表現したりするだけではなく、いつのまにか、自分の体型を隠すツールとなっていたのだ。慢性的な過食や運動不足によって作り出された体は、人目にさらすのが、はばかれる。だから、それを隠すために、服が必要なのだ。服は独自の進化を遂げ、服は、自己欠点を覆うものとしての役割を果たしていた。

現代人は、服を着ることで「 経済性をアピールする 」という自己表現をしながらも、服を着ることで「 体型を隠す 」という自己防衛の技術を身につけた。

① そんな服に対して、価値を見出さなくなってきてる人々が現れる。
② いつの時代も、文明は、高貴な人々から、庶民へを広がっていく。

お金持ちは、健康のために運動をしている人も多い。それに伴って、体を鍛えている人もいる。
お金持ちは、お金で買える服などに価値を見出さず、お金では買えない健康的で引き締まった体、自分が最後に身にまとっている肉という服に価値を見出しはじめた。

服は、装飾品に過ぎず、偽りでしかない、本当の自分は、肉という鎧をまとった裸の姿にある。

服やブランド品がなくなることはないだろうが、その価値は逓減してくはずだ。
モノが溢れる社会ではモノに価値がなくなっていくのは自明だ。

モノという外側にではなく、
自分の体や、自分の時間の使い方といった、自分の内面に対して、意識が向かっていく。

温暖化は、実は、人類の背中を押してくれているのかもしれない、裸への回帰を。

私を着飾るためのモノは、服という名の僕 ( しもべ ) は、私たちの生活を、本当に充実させてくれているのだろうか?

モノを買うために、何かの僕 ( しもべ ) になっているのが、現代社会の様相ではないだろうか?

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