私とはいったい何なのか?
2022/4/26
いしにしえからの疑問
いにしえより、私たちの祖先は考え続けてきた。史上の偉人がいくら考えても、たった1つの答えに辿り着いていない。
今のところ [ 1 + 1 = 2 ] のように、論理的な答えが見つかっていないだけだ。その方程式が見つかっていないだけだ。いつか、人類はその方程式を発見し、論理的な答えが見つかるはずだ。
もしくは、そもそも答えがないのかもしれない。論理的なたった1つの共通の答えを私たち人類は、導くことができない。1つではないからこそ、様々な時代で、いろんな賢人たちが、それぞれの考察をしている。
いやいや、答えは、個々人が見つけるものかもしれない。万人に共通の答えなどなく、自分自身が、私とはこんな感じだと、定義していく、「 それが人生だ 」という捉え方もある。
日本以外の視点ならば、その答えを宗教が用意してくれている社会もある。ヒンズー教のインドでは「 来世でカーストのよい身分で生まれるために、この世では得を積む 」という指針がある。私とは、輪廻転生を繰り返す存在で、現在は、このカーストの身分である。現在の私とは、職業も社会もカースト制が決める。
私へのアプローチ
時代・社会・宗教によって「 私とはいったい何なのか?」という問いに対しての誰もが、みんな腹落ちする答えは導かれていない。
「 何かをしよう 」と考えて、身体を動かす。
「 料理をしよう 」と考えて買い物へ行く。
「 今日のやるべきこと 」を考えて、仕事をする。
「 ゲームをしよう 」と考えて、指を動かす。
「 自転車に乗ろう 」と考えて、自転車に乗る。
「 楽しそうだな 」と考えて、遊びに出かける。
- 私たちは、考えて、考えたことを身体を使って実行している存在だ。
- 私たちは、 ” 考えること = 思考 ” と ” 身体を使った思考の実行 = 行動 ” を繰り返しながら、生きている。
- 私たちは、目に見えない思考を、目に見える物質である身体を通して、実現している。
目に見える物質である身体 = 肉体
私たちは、精神と肉体からなる生き物のようだ。
だとするならば、精神と肉体を解きほぐすことが「 私とはいったい何なのか?」という問いへのアプローチとなるかもしれない。
「 私とはいったい何なのか?」という問いに対して、精神と肉体による思考実験である。
肉体
私 ≠ 肉体
私たちは「 自分の肉体が自分だ 」と考えている。そして、私たちは「 肉体を自由自在に操ることができている 」と勘違いしている。私たちは、実は、肉体を自由自在に操ることなどできないのだ。肉体を思ったように動かせなかった時があるはずだ。
スポーツだ。
スポーツは、自分が思った通りに、身体を動かすのとはできない。自分が思った通りに身体をコントロールできるなら、誰だってプロスポーツ選手になれる。思ったように動かせない身体を、思ったように動かせるための鍛錬ができ、それを実現できる人がプロスポーツ選手である。
意識よりも先に身体が動く。
手を離した後に「 熱かった 」と感じる。
「 熱かった 」は過去形だ。
感情よりも、先に身体が動く。
逃げた後で「 怖かった 」と感じる。
「 怖かった 」は過去形だ。
自分の意思で心臓を動かしている人はいない。心臓は止まれば死ぬのに、動かしているのは、自分じゃない。自分の身体なのに、自分で動かしていない。腸や胃といった体内の臓器は、自分で制御できない。無意識下で、自動操縦されている。
まず、私たちは「 自分の身体を意識的に自由自在にコントロールできない 」という点を認識しなければならない。
私たちは、自分の身体の一部を生活に支障がない程度に操れる能力しかない。それを私たちは、「 自分の身体は、自分のものだから、自由自在に動かせる 」と勘違いしている。そもそも、息をしなきゃ死ぬけど、意識して息をしていることなんてほとんどない。臓器も自分で動かさなきゃいけないとしたら、それだけで、毎日が終わってしまうだろう。胃から食べて、消化させて、腸へ動かして、、心臓も、肝臓も、膵臓も、、私たちは、肉体が自動制御されているおかげで、考えることができるし、行動することができるのだ。
私たちは「 自分だ 」と考えている肉体を、自由自在に操ることのできない。私たちは、真の意味で、肉体から自由じゃない。
だとすると、肉体は、自分の本質ではないし、私たちが「 自分だ 」と考えている肉体は、私の正体ではない。すべてが自分の自由自在でないものが、自分自身な訳がない。
肉体は「 私 」という存在が持つ、ひとつの機能に過ぎない。私は、考えたことを、肉体に命令して動かしている。私が考えてプログラミングして、そのプログラムをパソコンが動かしている。パソコンが肉体である。パソコンはプログラムを動かす機能を持つ物質である。
肉体の機能は、私の命令に従って動くだけではない。肉体は、その物質的な存在によって、私の外にある世界を認識するための機能も持つ。
五感の役割
私は、肉体を通して、様々な感覚を得る。五感 ( 触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚 ) である。
触覚を通じて、触れることで、世界のすべての物質を認識できる。( 触れられない、物質ではない、概念は思考によって認識できる。) そして、触覚的快楽である「 温泉 」や「 セックス 」を触覚的不快である「 痛み 」を感じる。
視覚は、目に見える物質を見ることで、世界を、空間を、環境を、認識できる。視覚的快楽であるテレビ・映画といった動画に没頭する。視覚的不快である「 病気・死・不幸 」に心を痛める。
聴覚を通して、聴覚的快楽である「 音楽 」という気分のよさを察知し、聴覚的不快である「 クラクション・サイレン 」という危険を察知する。
視覚・聴覚を統合して、状況を、把握する。触覚や、味覚、嗅覚へ情報を補足する。
- オナニーは、AVの世界に没頭することで、自分の手という触覚を、AVの世界へと錯覚している。
- 味覚は、食べてもないのに、レモンや梅干しを見ると酸っぱいと錯覚する。ジューという肉の焼ける音と映像は美味しいそうに感じる。
- 嗅覚は不潔な人や汚い物を見て、ハエの飛ぶ音がしたら、臭そうに錯覚する。
味覚を通して、味覚的快楽である「 美味しい 」味覚的不快である「 不味い 」を感じる。
※咀嚼という触覚も「 美味しい 」という感覚を補足する。
嗅覚を通して、嗅覚的快楽である「 香り 」という心地よさを察知し、嗅覚的不快である「 臭い 」という危険を察知する。
私たちは、五感の全感覚によって、全身で外の世界を感じる。それが肉体の機能である。
- 触覚的快とは、繁栄本能である。
( 気持ちよくなければセックスしない ) - 触覚的不快とは、痛みは肉体の不具合である。
肉体という機能のエラーのサインである。 - 視覚的快とは、肉体的生存本能である。
生存に欠かせない「 知りたい 」という好奇心である。
( 好奇心がなければ何もしない ) - 視覚的不快とは、安全的生存本能である。
生存を脅かす、身の回りの危険を察知する。 - 聴覚的不快は、安全的生存本能である。
生存を脅かす、身の回りの危険を察知する。 - 味覚的快とは、肉体的生存本能である。
生存に必要な食料の補給である。
( 美味しくなければ食べない ) - 嗅覚的不快は、安全的生存本能である。
食料の腐敗を察知する。
特に、快の本能が、生存と繁栄の役割を担ってきた。
逆に、生存と繁栄のために必要な要素に関して、快がもたらされるように進化したのかもしれない。
いづれにしても、快と生存の関係が、人類の進化に欠かせなかった。そして、快や生存のためには、肉体を必要とする。
肉体と体験
私たちは、手で掴むことによって、いろんなものを手に入れてきた。
私たちは、身体を使って覚えることで、様々なことを身に付けてきた。
私たちは、肉体という機能を用いることで、自分の願望を成し得てきた。
私たちは、頭で考えて、成し得てきたんじゃないんだ。
実在は本質に先立つのだ。
肉体が精神に先立つのだ。
肉体という機能を、もう少し、簡潔に解釈する。
肉体というのは、五感という機能を持つツールのような存在である。仕事に必要なパソコン、料理に必要な包丁、早く移動するための自転車、これらは、自分の外にあるの。自分の内にあるのが、肉体である。自分と一体化しているから、ツールとして、考えられないだけである。すべてが完璧に自由自在に操れないものが、自分自身な訳がない。肉体は、パソコンと一緒のツールに過ぎない。
「 私とはいったい何なのか?」という問いの一つの回答が導かれた。
・私が肉体というツールを使って、私が体験することで、私の人生は進んで行く。
・私が世界を体験していくことが、私の人生の目的である。
精神
私たちは、目に見えない思考を、目に見える物質である身体を通して、実現している。
・目に見えない思考 = 精神
・目に見える物質である身体 = 肉体
精神と言葉
精神の基となる「 思考 」とは何か?
私たちは、思考するとき、考えるとき、必ず、言葉を使っている。言葉なしに、何かを考えることはできない。何かを考えるときに、画像を使う人はいるだろうか?
私たちは、言葉を使って、何か物事を考える。
言葉は、複雑であり、様々なものが言葉になっている。
- 目に見える物質
- 身の回りに起きる現象
- 視覚的ではない存在である概念 ( 空気・思い出・目標 )
言葉は世界を表現していて便利だから、物事を考えるときに言葉を使う。
言葉は私たちが、動物の覇者になり、万物の霊長になるのに最も必要な武器だった。言葉を使っている動物がいるが、それは死に面した危険を知らせる、ほんのわずかな種類の言葉しかない。人間のように、複雑な言葉を介したコミュニケーションは存在しない。
私たちは、言葉を使って思考する。そして、その思考の積み重ねで、精神が作られる。
私たちは、生まれたとき、言葉を持っていなかった。だから、自我を構成する精神など、存在していなかった。
生き物として呼吸して乳を飲み生きるだけの存在から、動物として食う寝る遊ぶ存在、そして、精神を持った人間として成長していった。
生き物や動物として存在しているときに、自我についての認識があろうはずもない。自我は、個としての自分を意識することから、はじまったのだ。自我や認識や意識なんていう難しい概念は、言葉を習得のうち理解される概念なので、言葉がない状態では、そんな概念は、人は持っていない。だから、言葉を持たない存在は、精神など存在しようもない。
原始的理解
精神を形作る言葉をどうやって身に付けていくのか?
画像の遷移、変化前の画像と変化後の画像を認識して、それが繰り返されることで、理解する。
② 私たちが生まれてきて初めての理解は、言葉ではない。私たちは、生まれたとき、言葉を持ってなかった。だから、物事を言葉を通さない方法で理解した。
③ 私たちは、言葉を通して理解する方法が便利で慣れてしまったから、忘れてしまっただけだ。私たちは言葉を持たないときでも、何かを理解して、成長した。

目に見える世界の動画、その時は、動画ではなく、画像の集まりかもしれない。動画として世界を捉えるほどの発達はなく、コマ送りの画像のように、いくつかの絵の集まりとして、世界を捉えていたかもしれない。そして、その画像の遷移、変化前の画像と変化後の画像を比較して、その現象を理解した。
その画像の遷移の中には、自分の身体の感触が伴うこともあった。そして、自分の足を認識した。
私たちは、忘れてしまっただけで、本当は、言葉を用いなくても理解することができる。
① 変化前の画像と変化後の画像の違いがわかる
② その変化が繰り返されることで、記憶する
③ その現象を理解する
言葉を用いない理解である。
私が考えるに、自己啓発本にある「 未来の自分をリアルに映像で想像する 」という戦略は、生まれてきたときの初めての理解を用いている。画像で理解する手法だ。
小さな子どもの理解
赤ちゃんは、画像を用いて理解していき、小さな子どもは、言葉を通した理解へと進んでいく。
私たちは「 空と海がある 」とわかる。
「 空と海 」という概念や言葉を知らない小さな子どもは、目に移る光景を眺めているだけだ。
「 空と海がきれいだね 」と言う。
「 空って?海って?」と聞いてくる。
「 あの真ん中の線より上を空と言って、あの真ん中の線より下を海と言うだよ 」と教えられて「 空と海 」の概念を習う。
そこで初めて、目の前に映る景色は「 ひとつじゃなくて、ふたつなんだ 」と気付く。
『 言葉 』の創生
小さな子どもは、世界を知らない小さな子どもは、空と海を区別できない。目に映る世界がすべてだ。世界を分ける「 空 」や「 海 」という『 言葉 』があることを知らない。全部いっしょくたんにしか見えない。私たちは『 言葉 』を知識として持っているから、世界が分かれて見えるに過ぎない。『 言葉 』という知識がなければ、たったひとつの絵として、世界を捉えることしかできない。そこに境界は存在しないのだ。
目に映る世界を区切ることで、モノゴトが具体化される、それに『 言葉 』という名前を付けた。
そうやって、目に映る映像を切り取って、名前を付けて、『 言葉 』を創っていった。
言葉の学習
私たちは、言葉の概念を学ぶ、まずは、親から。
そして、発音を真似する。
・本を読んでもらう。
物語を通して、物の名前だけでなく、文章を理解していく。
そして、社会を通して、教師や友人からも言葉を学ぶ。
テレビ・アニメといった映像からも言葉を学ぶ。
言葉を学ぶだけじゃない。
- 自分の学んだ言葉を話すことで、うまく発音できなかったり、間違ったりしながら、理解していく。
- 自分の理解した言葉を話すことで、より学習を深めていく。
そうやって、言葉を真似して、理解して、覚えて、言葉を話して、言葉を身に付けていった。
- 私たちは、親から言葉を教えられ、その言葉を真似して発音することで、言葉を覚えた。
- 本を読んでもらって、言葉を理解して、短文を話せるようになった。
- 社会の人々や映像から言葉を学び、自分の体験を文章にして話せるようなった。
私たちが学んで使っている言葉はすべて、他人から学んだ言葉である。
自分で作った言葉なんてない。
私たちは、他人から学んだ言葉を使っている存在なのだ。
- 私たちが話している言葉は、他人から学んだ言葉の受け売りである。
- 私たちが話している言葉は、自分の体験を、他人から学んだ言葉に変換している。
- 私たちが話している言葉は、擬似体験 ( 映像 ) を、他人から学んだ言葉で変換している。
違和感があるかもしれない。
私たちは「 自分が言葉を考えて話している 」と思っている。
それは荘厳な勘違いに過ぎない。
言葉とは?
そもそも、私たちが話している言葉とは何か?
言葉とは情報である。
言葉の集合体が情報である。
言葉という情報について、複数と単独に分けて整理する。
- 単独で言葉を使う場合は、言葉は思考となる。
- 複数で言葉を使う場合は、相互の言葉は会話となる。
複数で言葉を使う場合は、一方通行の言葉は影響となる。
単独 〜 言葉という情報処理
前述の文章の「 言葉 」の一部を「 情報 」に変換する。
- 私たちが話している情報は、他人の情報の受け売りである。
- 私たちが話している情報は、自分の体験を、他人から学んだ言葉に変換している。
- 私たちが話している情報は、擬似体験 ( 映像 ) を、他人から学んだ言葉で変換している。
先ほどより違和感がないかもしれない。
私たちは、他人から受け取った情報を、多少、加工して話しているだけだ。
それを、私たちは、何か崇高なことのように「 考えている 」と言っている。
例えば、言葉という知識があったとして、物事の名前を知っていたとして、言葉を話せるとして、ネットもテレビもない、無人島に一人でいたら「 考える 」ことなどできないのだ。
私たちは、無から何かを創造できない。
私たちは、他人から何かしら影響を受けて過ごしている。
その影響を自分の中で処理することを「 考える 」と言っている。
無人島に一人でいるときのように、何からも情報を得ないで一日を過ごすことはできない。一人で家のベットに寝転がり、テレビもスマホもPCも本もゲームもすべて取り上げられて、一日過ごすことなどできる現代人などいないだろう。
つまり、私たちは、何らかの情報を得た以上は、何かしらの影響を受ける。
影響を受けた後の過程を「 考えている 」と言っている。
影響といった情報をインプットして、脳で処理して、話してアウトプットしている。
ただの情報処理に過ぎない、新しい何かを生み出しているだけではない。
[ 思考 = 考える ] という行為は、何も生み出していないし、何か特別な行為でもない。
他人から得た情報を処理しているだけだ。
複数 ( 相互 ) 〜 言葉という情報共有
言葉の集積が情報であり、言葉は情報を伝える手段である。
私たちが、まだ猿だったときの言葉は危険を知らせる「 サイン 」だった。
・「 いー 」と言えば、木から地上を見る、蛇やライオンから身を守るためだ。
・「 うー 」と言えば、木から隣の木を見る、別の猿の集団から身を守るためだ。
私たちは猿のとき、身の危険から逃れるための情報という「 サイン 」を発明した。
それは、現代の『 情報 』というほどの上等さを兼ね備えてはいないけれど、『 情報 』によって身の安全を確保することができた。『 情報 』の役割は、仲間に危険を知らせ、逃げるという『 行動 』を促すことにあった。
話を、猿から人間に戻そう。
先ほど「 会話とは、情報の伝達である 」と説明した。
つまり、会話とは、相互に伝達が交わされるので、情報の交換である。
会話の本来の目的は、意思の伝達ではなく、意図の伝達である。
自分が思っていることではなく、自分が相手にして欲しいことを図って促している。
- 営業と顧客は会話をして、営業は契約を促しているし、顧客は低価格を促している。
- 男と女は会話をして、男はセックスを促しているし、女はもっと私に金と時間を使えと促している。
- 親と子は会話をして、親は勉強を促しているし、子はゲームを促している。
会話という情報交換の場で、自分の情報を伝達することで、相手に自分の意図に沿った行動させる。
複数 ( 一方通行 ) 〜 言葉という情報統制
一方通行の言葉は、情報によって、影響を与える。
- 旧世代
マスメディアが、テレビ・ラジオ・新聞のイメージ - 新世代
スマホが、YouTube・Twitter・Instagram・TikTok・ニュースアプリ…のイメージ
私たちは、日々、上記のような様々な情報源であるメディアに接している。もはや、習慣化してしまって日常化しているので、疑問に思うこともない。そう、私たちは「 無意識にメディアに接していること自体が、メディアの影響だ 」と気付いていない。
- ニュースを見なければならない?
- ニュースを見て、世間の動向を知るのは常識だ!
- ニュースを見なければ、社会情勢がわからないじゃないか!
この違和感に気付けない。
別に、家の近所の人が、何を食べようが、お腹壊していようが、不倫していようが、どんな宗教を信仰していようが、いってしまえば死んだとしても、こちらに迷惑がかからない限りは、気にならない、どうでもいい。
実は、ニュースは、家の近所の人のどうでもいい話の延長でしかない。自分には関係ない、社会、つまり私たちの属する集団の一部を切り取って、情報を取り上げているだけだ。芸能人の痴話、どこかの都道府県の事故、殺人事件、戦争、、、
・その情報は自分にどれだけ関係があるのか?
・その情報に意味があるのか?
・その情報が自分の生活にどんな影響を与えるのか?
メディアは情報を伝達している。 メディアが伝達する情報は事実だけではない。 メディアは事実と価値判断をセットにして伝達している。
メディアは、私たちの生活に影響を与えるのではなく、私たちの脳に影響を与えているのだ。
影響どころか洗脳である。
戦争がいけない?
それは、現代の価値観である。歴史をさかのぼると、人類は戦争によってあらゆるものごとに決着をつけてきた。私たち人類は、戦争によって、文明を発達させ、進歩してきたのだ。
インターネットの起源は、軍事目的で開発されたツールである。車も、飛行機も、私たちが利用している多くのものは、軍事目的があったから発展してきた。今の私たちの生活があるのは、戦争のおかげなのだ。「 戦争がいけない 」という価値観は、近代にメディアから植え付けられた価値判断でしかない。
SDGsの問題に対しても、そもそも人口増加が根本の原因なのだから、「 戦争して、人口が減るのはいいことだ 」という価値判断があってもいいはずだ。その価値観に違和感を持つ時点で、メディアに洗脳されている。
いろんな人々の意見を尊重すべきだ!
戦争賛成は?
戦争賛成も意見のひとつだから、尊重されなければならないはずだ。
でも違和感がある。
メディアの洗脳効果である。
なぜ、温暖化はいけないのか?
「 私は、寒いのが苦手だから、暖かい方がいい 」という意見があってもいいのだ。
違和感があるのは、メディアに脳を支配されているからだ。
資本主義は、人口増加を前提にしているシステムだ。SDGsは社会主義的発想に近く、人口増加し続ける社会構造では、達成不可能である。私たち日本人は、資本主義のおかげで今の生活を送ることができているのは事実である。
SDGsは、人類平等を目指しているので、すべての富を再分配することで、ある程度は実現可能だ。「 SDGsが重要だ 」と意見するならば、まず、自分の資産を全額寄付することから始めればいいのだ。だからといって、そんなことをする人はいない。私たちは、所詮、他人のことなんてどうでもいいのだ。自分と自分の身の回りの人のことだけが重要なのだ。
ニュースって意味ある?
私たちの生活を維持するためには、資本主義が必要なのだ、つまり、格差は必要なのだ、不平等は必要なのだ。
私たち日本人は格差の上から下を覗き込んでいるにすぎない。世界の貧困をリアルに目にしたことがないから、綺麗事だけで上辺を取り繕っているに過ぎない。インドの貧困、アフリカの貧困をリアルに見ると、人類平等という戯言は、のたまえない。私が、自分の生活を維持するためには、格差や不平等は必然なのだから。
私は、人類平等であって欲しいけど、自分の目の前に貧困の現実を突きつけられて、同じ生活をできるか?と問われても「 スイマセン 」としか言えない。人類平等は現実的ではない、誰も自分の生活を投げ出せない、人類平等は理想郷である、だから、死後の世界にその願いを託そう。
別にこれらも、私の解釈でしかない。
そして、私は戦争に賛成しているわけでもないし、SDGsが無意味だとも思っていないし、格差万歳だとも思っていない。
私たちは、戦争・SDGs・温暖化・資本主義・人類の格差について、それぞれの意見を持っている。そして、その意見は「 個人的な意見だ 」と思っている。しかし、その意見は、多くの人に共通である、それは、メディアの価値判断を反映させた結果である。私たちの価値観は、メディアの情報統制によって培われている。
メディアの価値観が刷り込まれた結果の、価値判断と自由意志を持っているに過ぎない。
救済措置
メディアの情報を鵜呑みにせず、自分の意見を持つことが必要だが、人は急には変われない。
「 自分の意見だ 」と思っても、メディアの受け売りなのだ。
得る情報を変えるしかない。無意識に情報を取り入れるのではなく、自分が取り入れる情報は、自分で選ぶ姿勢だ。入手する情報を変えることで、思考を変えることができる。思考を変えることで、世界の見え方が変化する。それは、自分の中の精神構造が変化した証だ。
まとめ
「 私とはいったい何なのか?」
- 肉体: 世界を体験するためのツール
- 精神 ( 思考・言葉 ):他人から学んだ言葉の情報処理
会話 ( 双方向の言葉 ) とは、相手に自分の意図に沿った行動させること。
思考とは、メディアの価値観によって洗脳されたもの。
私たちは、他人の言葉によって育まれ、他人の言葉に価値観を見出し、他人の言葉を利用して相手をコントロールしようとしている存在である。
私の精神は、他人の言葉というレゴブロックの集まりに過ぎない。
社会は個人の集合体のようだが、
個人という私は、他人の言葉という社会の集合体であり、そもそも、私という主体など存在しない。私という主体とは幻想であり、自由意志はない。
ハッピーエンドへ
体験とは、言葉を通して説明できないものである。
目が見えない人に「 青い 」という色をいくら言葉で説明しても、理解に辿り着くことはない。
目が見える人は「 空を見る 」という体験を通して「 青い 」という感覚を理解できる。
「 青い空 」は体験することでしか、経験や理解に至らない。
私たちは、体験したことを、表現するために、言葉を用いている。
体験が先にあって、言葉がある。
言葉、思考、精神は、2次的要素に過ぎない。
私は、ただ、この世界を体験するために、存在する。
テレビや、ゲームや、スマホや、本の中に、体験はない。
体を動かして、何かを経験することで、世界を知覚する。
体験は、人生を過ごした体験は、過去の記憶となり、記憶をつなぎあわせると物語となる。
私は体験を通して、私が主人公の物語を創作している。
私は、1冊の絵本をつくっている、世界にただ一つの絵本をつくっている。
絵本のストーリーは、自分次第だ。
コメント