【湯浅哲学】私とは何か?
2022/4/10
趣味
by 岡田斗司夫
- 酒は意味がない
→ 趣味 - 意味がないモノ・コト
→ 趣味
- 人生は趣味というレゴブロックである。
- 人生に意味はない。
- 人生に意味を考える動物は人間だけだ。
無意味で無常に価値を見出そうとするから、煩悶する。
言葉
人間は一人では生きていけない。
他者と関わりながら、繁栄してきた。
他者との関係 = 社会を便利にするために言葉が生まれた。
動物界にも言葉はあるが、それは簡単な言葉に過ぎない。
人間ほど複雑なコミュニケーションをしている動物はいない。
生まれたときから、言葉を話せる人間はいない。
生まれて、他者とコミュニケーションをとるために言葉を覚える。
1人では生きていけない人間にとって、言葉は、必要不可欠である。
一方で、私たちは考えるときには必ず言葉を用いる。
言葉なしに考えることはできない。
言葉を獲得した結果、「 考える 」という術を体得したが、それは、悩みを生む要因となった。
・私たちは言葉なしに悩むことはできない。
- 人生の意味、何のために生まれ、何のために生きるのか?
- 私とは何か?
- 幸福とは何か?
- どうすれば幸福になれるのか?
そう言った哲学を始めなければならなくなった。言葉は、他者とのコミュニケーションツールであったのに、それは、なぜが、自分の内面へと向かうこととなる。自分で言葉を使って考えることで、悩みを作り出して、複雑化する。
私たちが、言葉を発明するまでは、悩みはなかった。言葉があるせいで人間関係が複雑化していった結果、言葉を用いて悩まなければいけなくなった。言葉で哲学しなければならなかった。
無分別智
言葉なしに他者とコミュニケーションすることはできない。
だけど、言葉なしに、自分とコミュニケーションすることはできる。
自分の内面と語らうとき、自分の頭で考えるとき、言葉を使わないようにする。
- 言葉を使うから、考えてしまう。
- 言葉を使わずに、ただの現象として受け止める。
リンゴだと考えない。
リンゴという言葉をイメージしない。
リンゴが美味しそうという判断をしない。
リンゴが2つあると数えない。
- 絵かもしれない。
- 偽物かもしれない。
- 上質なレプリカかもしれない。
リンゴを手に取って、食べてみるまで、それは、ホントウに、リンゴかどうかはわからない。
言葉を意識しない。
- 私たちは、生まれたとき、言葉を知らなかった。
リンゴを理解できなかった。「 テーブル 」も「 上 」も「 リンゴ 」も理解できなかった。 - 足を見ていて、足を動かして「 自分の足だ 」と気付いたとき、驚いた。
自分と世界の境界線すら曖昧だったのだ。 - 言葉を持たずに、世界を理解していったのだ。
私たちは、言葉がなくても理解できる術を持っているのだ。 - 言葉が便利だから、言葉に頼っているに過ぎない。
無意識に言葉を使っているだけだ。
言葉なんかなくても、愛していることは伝わるじゃないか。
言葉を使わずに、現象と感覚によって理解を得ること。
釈迦の悟りであり、ニュートンの万有引力の発見であろう。
人生の意味は、言葉で表現できないだけだ。言葉にすることで、本質が削がれ、意味を失ってしまう。
私とは何か?
私とは何か?
感覚と現象である。
私たちは、言葉を覚え、学校へ行き、社会に出て働く。結婚したり、子どもつくったりもする。
実際には、すべては「 砂を掴んで、砂が落ちる 」ことが複雑化しているに過ぎない。
言葉や人間関係や社会が現象を複雑にしているに過ぎない。その複雑な現象から受ける感覚も多様化してしまっているだけだ。
私たちは、本質的には「 砂を掴んで、砂が落ちる 」ことを繰り返しているに過ぎない。
私たちは、無自覚に呼吸をして、食事をして美味しいと感じて ( 感覚 )、無意識に体内で栄養が摂取されて ( 現象 )、ウンコしてスッキリ気持ちいい ( 感覚 ) 存在に過ぎない。


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