死は感情で捉えてはいけない
死は謎ではない。
感情を排除すれば、論理的に解釈できる。
我々は、生きいる間に、誰かの死に直面する。
関係が深い人の死ほど、悲しいおもいをする。
だから、死を悲しいモノと解釈してしまう。
しかし、それは生きている人の立場からの視点である。
死んだ人の視点ではない。
その錯覚こそが、死の盲点である。
死を論理的に思考する
他人の死ではなく、自分の死を、論理的に考える。
魂は概念であり、物質ではないので、存在しない。
だから、人は死んだら、身体という物質の機能が停止するだけである。物質の機能の停止なので、機械の故障と同じである。人の死は、身体が壊れて動かなくなることである。
死は悪いことのか?
自分が死んだら、自分の存在自体がなくなるので、いいも悪いもない。いいとか悪いとか考えることができない。自分が存在しないのだから。
もし、死が悪いなら、不死はいいのか?
100年くらいなら、想像できるかもしれない。1000年、1億年、1兆年と考えていくと、生に飽きそうだ。不死に嫌気が差しそうだ。不死がよくないなら、死はいいことになる。

【本要約】「死」とは何か 〜 まえがき&あとがき版
人は、どうしても死について考えたくない。死について考えると、不安と恐怖と心配に呑み込まれる。死を恐れるのは不適切な対応だ。死は、機械の故障と同じだ。死は、身体が壊れて動かなくなってしまうだけだ。

【本要約】「死」とは何か 〜 一部抜粋版
死んでしまったら、自分はもう存在しない。自分が存在しないのなら、自分にとって死んでいるのがどう悪いのか?悪いと考えるためには、存在しなければならない。
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