【本要約】「死」とは何か 〜 まえがき&あとがき版
2021/5/11
- 魂の存在
- 死の本質
- 死後も存在し続ける可能性にまつわる疑問
という点から、死を解釈していく。
死は悪い?
そもそも、死は悪いものか?
自分が死後存在しないとしたら、死がどうして悪いかわからなくなる。
死に関して何が悪いのかを見極め、どうして死が悪いものであるのかを理解する。
自分の生き方は、「やがて死ぬ」という事実にどのような影響を受けるべきか?
「必ず死ぬ」という運命に対して、どのような態度で望めばいいか?
死を恐れ絶望するべきか?
自殺の合理性と、道徳性とはどういうことか?
哲学の入門書では、中立の立場か、著者の意見かの2通りがある。本著は、後者である。
一般的な解釈では
死によって、物理的な身体がなくなっても、非物質的な魂は残る。死後も生き続けられる可能性がある。
死は究極の謎だ。
だから、魂の存在を希望する。
そして、不死を渇望する。
もし、魂が存在せず、死が本当の終わりを意味するなら、死を恐れ絶望する。
死が恐ろしく、生が素晴らしいとすれば、自殺は不合理であり、不道徳である。
死について著者の見解
- 魂は、存在しない。
- 不死は、良くない。
- 死を恐れるのは、死に対する適切な反応ではない。
- 死は、謎めいていない。
- 自殺は、特定の状況下では、合理的にも道徳的にも正当化しうる可能性がある。
本著では、宗教的な権威に訴えることはなしに、論理的思考によって、死を明らかにする。
形而上学的問題
哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。
二元論と物理主義の対比による人間の定義
●二元論
魂(心) … [非物質、無形物]:意識、思考、感情、欲望、記憶
身体 … [物質、有形物]:肉、血、骨、筋肉の塊
●物理主義
思考したり、感じたり、意思疎通したり、望んだり、記憶したりできる心はある。しかし、心に非物質的な何かがあるわけではなく、身体の一部の機能に過ぎない。その認知機能を人格機能と呼ぶ。
- 人は、人格機能がある身体を持っているだけである。
- 人は、ただの有形物だから、機械と同じである。
人の同一性の問題
今の自分と、明日の自分は、本当に同じ人?
人の同一性の問題 … 「人が生き続ける」とはどういうことなのか?
●魂説
二元論者が唱える魂説は、魂の存在が人の同一性の証明であるとする。
●身体説
物理主義者が唱える身体説は、身体(脳)の存在が人の同一性の証明である。
●人格説
人格を、信念、欲望、記憶、目標という集合体と定義する。
人格説は、人格の存在が人の同一性の証明である。
※人格説は、二元論者にも、物理主義者にも受け入れられる。
将来、身体が死にかかっている時に、人格を、新しい代替の身体と脳にアップロードできるかもしれない。新しい身体が、自分の人格を、持った状態で目覚めた時、それは、自分なのか?
魂説や身体説ならば、それは、自分ではない。人格説ならば、それは、自分である。
生き続ける
生き続けるとは、どういうことなのか?
生き続けるとは、将来において、自分が存在することである。
身体が存在すればいいのか?
完全な記憶喪失をしたとすると、身体は存在しているから、生き続けたことになるのか?
そうではないだろう。身体は同じでも、今の記憶が全く失われてしまったら、それは、もう自分じゃない。
今の身体と、今の記憶を持った自分の2つが合致してこそ、生き続けることになる。
あとがき
大抵の人は、どうしても死について考えたくない。
「死は一巻の終わりである」という考えには、耐えられないからだ。
死について考えると、不安と恐怖と心配に呑み込まれる。
それが、生と死という現実に対して、人が示す反応である。
魂は存在しない。人は機械に過ぎない。コンピュータや電灯などの身の回りの機械は、いずれ壊れて動かなくなる。死は、機械の故障と同じである。
人生が価値ある限り生きていく方が望ましい。長い人生が良い限り、死は悪い。そして、死は、人生を全うする前に訪れる。だからといって、不死が良いわけでない。実際には、不死は災いであり、恵みではない。
死を恐れるのは不適切な対応だ。
生き続けることは、必ずしも、幸福をもたらさない。人生は、何が何でも、しがみついておくものではない。手放すときがくる。
「人生をどう生き、どう終えるか」を考えるのが、若い頃からの当たり前になる時代が来るかもしれない。
コメント