【本要約】「死」とは何か 〜 一部抜粋版
2021/5/20
死の本質
思考したり、感じたり、意思疎通したり、望んだり、記憶したりできる心はある。しかし、心に非物質的な何かがあるわけではなく、心も身体の一部の機能に過ぎない。その認知機能を『人格機能』と呼ぶ。
呼吸をしたり、心臓を動かしたり、食物を消化したり、身体を動かしたりする機能がある。それを、『身体機能』と呼ぶ。
人格機能、身体機能、どちらの機能が停止した時が死なのか?その両方か?
一般的には、両方の機能は、同時に停止する。
しかし、人格機能、身体機能が、バラバラに停止した場合は、死の定義が曖昧になる。
身体が壊れ、人格機能を失った時点で、人格を持った人間ではなくなる。人格の死だ。さらに身体が壊れ、身体機能を失う。身体の死だ。身体が作動し、壊れる。死はそれだけのことだ。
死はなぜ悪いのか?
もし、魂が存在を信じているなら、死んだ後、自分の魂がどうなるかを心配するのは、理解できる。
一方で
死を、「人格を持った人間としての自分の存在の終わり」と仮定する。
・死が、どうして自分にとって悪いのか?
死んでしまったら、自分はもう存在しない。
・自分が存在しないのなら、自分にとって死んでいるのがどうして悪いのか?
死ぬプロセス
死に至る時に痛みを伴うならば、死ぬプロセスは、確かに悪い。
逆に、眠っている間に死ぬとしたら、死ぬプロセスは、悪くない。
絶対に死ぬ
人は、いずれ絶対に死ぬという事実が、不安になるので、悪い。
しかし、それは、死が悪いという前提がある。
もし、死が悪いものではないなら、不安に思うこともない。
例えば、死んだ後は、天国に行って、働かなくても、好き勝手に自由に、生きられるとすると、死は悪くない。死は、不安でなくなる。
死が悪いのは、存在?
人は死んだら存在しなくなるから、死は悪い。
存在していないのに、悪いと考えようがない。
悪いと考えるためには、存在しなければならない。
病気は、悪い。しかし、病気の間は、存在している。存在しない人に、病気は悪くない。存在しない人は、病気になりようがないからだ。
(続)死はなぜ悪いのか?
事実は、時期や時点を定めることができる。
死が悪いというのが、事実ならば、いつの時点で、死は悪いのか?
今は、死は悪くない。今は、死んでいない、生きているからだ。死は、人が死んだ時点で、悪くなる。でも、死んだ時点では、人は存在していない。
人にとって、それを悪いとするならば、本人の存在が必要だ。本人が存在しないのに、いいも悪いもない。
剥奪説は、死が悪いのは、人は死んだとき、人生の良いことを剥奪されるからだ。
人生における良いことを剥奪されている間である。
・人生における良いことを剥奪されているのはいつか?
死んでいる時だ。
・剥奪された状態は、いつ起こるのか?
死んでいる時だ。
死や剥奪説が悪いのは、本人が、存在していなければいけない。
不死
- 例えば、人生にもう良いことが何も残っていなかったとしよう。
死によって人生を奪われた時、良いことを何も剥奪されていないから、その時点で死ぬのは悪いことではない。 - 例えば、その後の人生が、病気で苦しみ続けるとしよう。
死によって人生が奪われた時、病気で苦しみ続ける悪いことを剥奪されることは、良いことなのか?悪いことなのか?
限られた量では良いことでも、もっともっと手に入れば悪いことになりうる。
【見解】お金で思考する
例えば、誰かがお金をくれるとする。
- 1億円、嬉しい。
でも、まだ、経済的自由ではない。 - 10億円、嬉しい。
利回り3%で税引後2400万円だ。月200万円だ。経済的自由達成だ。そして、元本を使うこともない。 - 100億円、嬉しい?
もう一生の間で使いきれない額だ。誰かに、命を狙われるかもしれないという不安が起こるレベルだ。 - 1000億円、嬉しい?!
とんでもない額だ、もう、よくわからない。誰かに殺されてもおかしくないレベルだ。
コレは、湯浅の思考であるから、人によって金額は、それぞれだろう。しかし、湯浅が、想像し得ない金額は、失う恐怖も付きまとってしまう。お金を持ってない時には、恐怖はなかったが、一度手にしてしまうと、お金を失う恐怖が生まれる。
不死はいい?
健康な身体で生き続けたい、若い状態で生き続けたいと願う。
人間の身体は、不死に耐えられるように作られていない。もっても100年だろう。だから、身体のことは、不死から切り離して思考する必要がある。
不死には、健康な身体や、お金も必要になるだろう。
不死には、いろんな前提条件がなければ成り立たない。もし、その前提が手に入ったとする。
人生は、永遠に望ましく魅力的で有り続けるだろうか?
お金の時の例のように、最終的には、悪くなってしまわないか?
人がいずれ死ぬという事実は、良いことかもしれない。死なないというのは、永遠に生きることになる。もし、不死が悪いことなら、死は良いことになる。
好きなことがあるとして、それを、10年、100年、1000年、1億年、1兆年、未来永劫続けられるだろうか?
自分が望むだけ生きられること
【見解】寿命で思考する
なるほど、自分の寿命を決められるのは、確かに、素晴らしい。でも、はたして、人は、自分の死を決められるのだろうか?
それは、それで怖い気もする。
- 不確定な寿命で生きることが、いつ死ぬのか不安の中で生きること
- 万物の長が決めた命の中で、自分らしく生きて、人生を、全うすること
人間の定めなのかなと考える。
良き人生
快楽主義
お金には価値がある。それは、お金で、いろんなモノが買えるからだ。お金で、欲しいモノが手に入ると嬉しい、食事をして美味しい。そうやって、快楽を得られる。
快楽こそが価値である。他のモノは、手段としての価値である。お金もモノも食事も、快楽のための手段としての、間接的な価値である。快楽は、本質的に価値がある。
逆に、不快を考えると、病気や怪我による痛みとなる。
快楽は、本質的に良い価値があり、不快は、本質的に悪い価値がある。
快楽主義の観点から、人生の価値を考える。
今後やってくる良い時間の総計から、今後やってくる悪い時間の総計を引いた答えが、+か−かで判断できる。
快楽を全て足して、そこから痛みを全部引く。それが『 + 』なら、今後の人生は、生きる価値がある。それが『 - 』なら、生きる価値はない。死んだ方がマシだ。死んだら快楽も痛みなくなる『 ± 0 』だ。
人生を快楽と痛みで評価するとすると、選択肢が絞られる。
【見解】快楽主義を思考する
快楽主義で考える。例えば、もう、治る見込みがない病気に冒されたとする。死ぬまで、痛み続ける最期ならば、それは、早く死んだ方が、価値がある。
それは、快楽主義の観点からだが、実際に、自分の身に起こったら、苦痛の毎日の中で、生を望みたいとおもうだろうか?
こんな苦痛が続いて治る見込みがないのなら、もう殺して欲しい、死にたいというのは、快楽主義ではなくても、湯浅にとっても、納得だ。
快楽主義の盲点
快楽主義の盲点は、本質的な価値を快楽と痛みだけに置いてる点だ。最良の人生には、快楽を手に入れて、痛みを避けること以上のもがあるのではないか?
極端な例で、違法でない薬物があって、しかも無料で、それは、生きる上での最高の多幸感をもたらしてくれるとする。それを使い続ける人生が、最良の人生なのか?生きている間、ずっと最高の多幸感を味わい、多幸感のまま死ぬ人生である。
そこに、友情を育み、語り合い、愛情を感じて、寄り添う、人生はない。
【見解】マトリックスの世界を思考する
その体験装置の中で生きていきたいか?
全てが自分の思う通りの最高の体験ができる人生がいいのか?
人生には、山あり、谷ありだから、おもしろい。不確定性、ランダム性があるから、おもしろい。うまくいかないことがあるから、うまくいった時の喜びも、ひとしおだ。
結局、快楽も、痛みも、現状とのギャップである。ギャップがあるほど、その快楽も、痛みも増す。人には、快楽も痛みも慣れるという機能がある。
- 美味しいと評判の店の料理が、思ったより美味しくなかった
- 急いで適当に入った店の料理が、思ったより美味しかった
- 期待していたけど、期待ほどじゃなかった
- 期待していたけど、期待以上だった。
味だけを比較すれば、1.の方が美味しいはずだ。
味という本質は、意味をなさない。
ギャップこそが、意味を持つ。
最高の体験は、最低の体験があるからこそ、輝く。最高の体験の連続では、ギャップが生じない。最高の体験の永続は、その価値に慣れ、逓減していく。
この科学的裏付けがなくとも、一言で、説明できる。
レベル100、レベルMaxで、ゲームしてもつまらない。だんだんと、ゲームが上手くなって、強くなっていくから、おもしろい。ゲームは、その過程を、楽しむモノだ。
人生は?
目の前に、大金を渡されたら、人生は、イージーになる。だけど、自分で稼いだお金がじゃないから、常に喪失の恐怖と隣合わせだ。人は得る喜びよりも、失う恐怖の方が何倍も大きい。しかし、自分で稼いだお金なら、また、稼げばいいと思える。
快楽主義の盲点の結果
その体験装置につながれた人生は、人生で手に入れる価値があるモノを全て与え得るか?
快楽主義者にとっては、答えはイエスであろう。
著者にとっては、ノーだ。
湯浅にとっても、もちろん、ノーだ。
(続)良き人生
人生の過ごし方の価値について考えることに加えて、人生そのものに送る価値があることも考える必要がある。
人生の中で、何が起こっているのかというのとは、別に、生きていること自体の恩恵である。生きているだけで、素晴らしい価値がある。
「脳死や、回復見込みのない植物状態でも、自分の意思で何もできなくても、価値がある」とする考えだ。
人の一生を器に例える。
人生は、自分で、器の中に何を入れていくかということだ。
生きていること自体の価値は、器である。器自体に価値があるという見方である。
器や、器の中身を、どう捉えるかだ。
人生は一度きり、やり直しはできない。「死は必然で、限られた寿命しかない」という意識をしないと、人生を無駄にしてしまう。
不死は、何度でも、やり直しができる。しかし、人間は、必ず死ぬので、何度もやり直しができない。
人生を無駄にする2種類の過ち
- 選択自体のミス
- 選択を達成する方法、実現性
過ちを改めるための貴重な時間は限られている。やることがあまりにも多く、適切にやるのが難しいからこそ、用心である。あれこれ手を出している時間はない。
人生は、何もしないには長過ぎるが、何かをするには短過ぎる。
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