「死とは何か」からの思考(7) 〜 自己定義

「死とは何か」からの思考(7) 〜 自己定義

2021/6/2

身体をアップデート

将来、身体が死にかかっている時に、人格を、新しい代替の身体と脳にアップロードできるかもしれない。新しい身体が、自分の人格を、持った状態で目覚めた時、それは、自分なのか?
 
「死とは何か」より引用

倫理的な道徳は、置いておいて、それが可能になった世界を思考する。
(問題を単純化させるため、新しい身体の健康状態、年齢、見た目も、思考の対象外とする)

  • 自分は、やりたいのか?
  • 自分は、やりたくないのか?

40年後の80歳の自分が、「死を恐れないか?」というと、恐れていそうな気がする。だから、「消えてなくなる」ということを、受け入れることが、できなそうな気がする。そういった消去法で、身体をアップデートする。

自分と他人の受容

新しい身体にアップデートした時、自分の見た目は変わっている。それは、鏡を見たときに認識する。鏡の中の顔も身体のサイズの違和感も、じきに慣れる。自分は、新しい身体に慣れるはずだ。

家族や友人は、どうだろうか?

新しい身体にアップデートした時、話しの内容は、確かに、湯浅である。しかし、言葉は同じだが、声が違う。目の前にいるのは、湯浅の面影もない身体をしている。これは、受け入れられるだろうか?

自分の問題は、解決できそうだ。「身体をアップデートさせた」という選択は自分の意志である。新しい身体への慣れは、必ずやってくる。

家族や友人の違和感は、自分の問題ではないので、どうしようもない。自分は、「自分である」という認識はあれど、「見た目が違う自分」を周りが受け入れてくれるかは別問題である。

自己定義

  • 見た目が変わっても、周りが受け入れてくれるならば、人格が自分だ。
  • 見た目が変わり、周りが受け入れてくれないならば、人格が自分でも、社会にとっては新しい人間となる。それは自分と言えるか?
  • 見た目が変わっても、周りが受け入れてくなくても、人格が自分だ、と言える人は強い。

湯浅には、その強さは、なさそうだ。これまでの人間関係も含めて、湯浅は自分を定義する。

湯浅は見た目が変わっても、自分の人格があって、これまでの人生で築いた人間関係が継続できるならば、自分を定義できる。

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